2008年3月21日

3月21日プログラムに掲載

「グッドフライデーを迎えて」 

 受難節(レント)の最終日は、イエス・キリストが十字架にかかった日、つまりグッドフライデーとなっている。主の十字架を想う時、それは自分のための十字架でもあり、イエスと共につく十字架でもあり、また負うべき十字架でもある。今日のグッドフライデーの時、私たちは共に「負うべき十字架」について考えてみたい。
 十字架とは、迫害であり、抑圧、痛み、苦難のすべてである。そのような十字架を負うなどということは、現在の世の中においては、あるいは教会の中においてさえも、疎まれるメッセージであるかもしれない。
 しかしイエスは次のように語られた。「自分の命を捨てる者は、それを得る」。本当の命、本当の愛、本当の勝利は、十字架を通った、その先にある。十字架を通らなければ決して見えてこない世界がある。
 私たちが負うべき十字架は、自らの罪のゆえではなく、イエスに従うがゆえの十字架である。イエスに従うなら、十字架を負わなければならない。イエスのように愛するがゆえに、傷つき、痛み、苦しむのだ。 しかし、それは尊いことだ。イエスのために苦難をも共に出来るのなら、幸いなことだ。
 しかし生来、私たちは出来るだけ十字架を負わないようにと考え、生きてきた。ある意味で正反対の生き方だ。そんな私たちが、どうして主の十字架を負うことを願うのだろうか...。 この魂の底から湧き上がるような願いは何なのだろう。痛みと苦難があると分かっていても、それでも主に従おうとする。そして数え切れない聖徒たちが、主のために喜んで命さえも捨てて主に従ったという歴史の事実。
  なぜ…? それは「喜び」のゆえだ。十字架の向こうにある喜びを見るからなのだ。その喜びは、救いの喜び、天国の喜び。この喜びがあるからこそ、十字架を負ってまでも主に従いたいと思わされるのだ。

関真士牧師




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