2008年11月29日

11月30日週報に掲載

 1549年フランシスコ・ザビエルが日本に上陸しました。彼らポルトガル人の宣教師たちは、神の愛を伝えるために、日本語を習得していきました。1603年には初の日葡辞書が作成されています。その中で、ポルトガル語の「愛」は、日本語で何と訳されていると思いますか?ちなみに、当時の日本語の中には「愛」という言葉はありません。

 彼らが、様々な日本語をあてはめ、最も適切であるとした言葉、それは「ご大切に」という言葉でした。神にとって私たちは「ご大切」な存在ということです。
この「大切」という言葉は「大いに切迫している」という緊急的な状況を表しています。そのような状況において、最も先に思い浮かぶもの、あるいは手を伸ばすもの、ということで「かけがえのないもの」から「愛するもの」と言葉がつながってきました。

 あっ地震だ! 火事だ! といった緊急時において、まず何が思い浮かびますか? 何に手を伸ばしますか? それが大切なものであり、すなわち愛するものとなります。
 神にとって、私たち一人ひとりの存在は「ご大切」なものです。あれも必要これも必要、大切に見えるものは多くあります。でも緊急時に、他のすべてを犠牲にしてでも、これだけは手放せないと思わせるもの。神にとって私たちの存在とは、そのようなものだということです。
 そのように大切にされている自分にとって、自分の「ご大切」なものとは何だろうか? そこに自分の心があります。

関牧師



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