2009年1月8日

1月11日2009年の週報に掲載

 暖炉で燃えている木がはじけて、木切れが少し離れたところに落ちる。とたんに勢いをなくして火が消えかかる。その木切れをもとの火の中に戻してやると、また勢い良く燃え出す。

 霊に燃え続けるには、まずは主との個人的な関係が大切です。しかし同時に交わりの中に身をおき続けることも大切です。個人的な信仰を確立するのと、孤立するのは違います。 神が望まれる信仰のあり方とは、神との関係が隣人との関係に反映されることです。
意気消沈と言いますが、まさに火が消えそうなとき、親しい友の励ましや優しさ、叱咤激励に、もう一度火が燃え始めたという経験もあるでしょう。他者の証しを聞いたり、主に仕える姿を見て、火がついたということもあるでしょう。

 先週はECカンファランスから10名の者達が無事に帰ってきて報告の証しをしてくれました。熱く燃えているのが伝わってきました。手を上げて主を賛美している姿を見て、私も主をあがめました。「霊に燃えて」という年間聖句にもタイムリーでした。
 燃えることは、何も若者の専売特許ではありません。表現の仕方は様々ですが、確かに私たち先の者も霊に燃えています。地球の中心で核が燃えているように、教会の中心でも霊に燃えた核があります。どんなに冷めた人でも、この核に巻き込まれるようにして、木切れが炎の中に入れられて燃やされるように、霊に燃えて主に仕える者へと変えられていきます。

 霊に燃えても、燃え尽きることはありません。共に聖霊の火に燃やされていきましょう。        

関牧師



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