2009年2月19日

2月22日2009年の週報に掲載

 目を閉じて、ふと耳をすませてみる。子供たちの歌声、泣き声、誰かの大きな笑い声も聴こえる。車の走る音、バイクの音が聴こえた。あれは空を飛ぶ飛行機の音だろうか? 鳥の鳴き声がした。ピアノの音も鳴り出した。最後に時計の秒針の刻む音があることに気がついた。

 教会の2階のオフィスにいる3分間で聴こえた音です。実に様々な音があるものだと感心しました。でも、心を落ち着けて、耳を開いて聴こうとしなければ、ほとんど聴こえないものばかりです。秒針の刻む音なんて、目の前で鳴っているのに全く聴こえていません。

 でも、全ての音が聴こえたら、きっと疲れてしまうでしょう。音って気になったら、水道の蛇口から垂れる水滴の音でも気になって眠れなくなることがあります。心が向くと、どんな小さな音でも気になってしまいます。逆に心が向いていないと、目の前の音でも気にならないものです。

 最近、もっともっと神の御声を聴きたいと強く思います。聖書には「細き御声」とありますが、神の御声とは、耳をすませて、心を傾けないと聴こえない声なのですね。イエスは「耳のある者は聴きなさい」と語られました。よく「あの人は、聴く耳を持たない」と表現することがありますが、耳は持っていても、聴く耳は…?
 神の御声を求めている人、意外と目の前に、その声はあるのかもしれませんね。今日もマノアの優しい風に吹かれながら、風の中に「細き御声」を探している自分がいます。

「主よお語りください。しもべは聴いています。」    関牧師

0 件のコメント: