2009年7月30日

8月2日2009年の週報に掲載

 とうとう牧師館の庭のバナナが収穫できました。日本に帰る人から苗木を譲り受けてから1年以上は経ったでしょうか。緑色から黄色に見事に完熟しました。木の上で完熟したバナナの味は一際美味で、この味は日本では出会えません。
 パパイヤも大きな実をつけていますが、高すぎて届きません。もったいないのですが、鳥さんの食事になっています。アボガドもだいぶ大きくなってきましたが、実を結ぶのはまだまだ数年先でしょう。
大地は神の祝福に溢れています。

 このたびは、私の父のお見舞いのために、多くの方々から捧げ物をいただき心から感謝いたします。自分などのためにと恐縮する思いもありますが、父に会いたいという思いが勝ります。ただただ感謝して受け取らせていただきます。

 父は74歳になりますが、現在パーキンソン病になり、心筋梗塞、腎臓病、糖尿病とあり、理解力はありますが、話すことが困難なようです。幸い日本の介護保険のおかげで経済的には保護があり、今は24時間介護の施設を探している状況だそうです。
 父は若い時に献身して主のために働き、今日まで突っ走ってきたような人です。生まれ故郷の福島でゆっくり過ごすのも、主の計らいでしょう。父に会ったら何を話そう、頭の中を色々な言葉が駆け巡ります。主のご臨在の中、セピア色の時を過ごせればと思います。庭で取れたバナナは持っていけないでしょうか。
関牧師

2009年7月22日

7月26日2009年の週報に掲載

 映画「おくりびと」を観ました。とても感動しました。納棺士という職業があったことも初めて知りました。納棺の儀式における様式美、動作の一つ一つに、とても美しいものを感じました。俳優の方々の演技も、映像の美しさも素晴らしく、なるほど多くの賞を取ったのも納得です。

 納棺士は、納棺を儀式化することによって、死者への畏敬の念と、遺族への心遣い表現しています。そこに宗教的なものはなく、従って、どんな宗教にも対応できるようです。しかし現在納棺士という存在は少なく、その存在を知らない人の方が多いようです。

 日本で葬式を執り行うことがありましたが、ある葬儀屋さんの、ご遺体をただの物体として扱うかのような仕草に、大変不愉快になったのを覚えています。一概に言うことは出来ませんが、特に日本人は、目の前の遺体に対して、ただの物体であるかのような割り切り方は出来いようです。

 日本には、他にも死化粧士という方もいるそうです。またアメリカにも遺体を綺麗にする仕事があります。しかし、その納棺を儀式化し、そこに様式美を加えるというのは、日本ならではの感覚でしょう。

 日本人への宣教を考える時に、この感覚を理解する必要があるでしょう。もう天国へ行ったのだから、遺体には何の意味もないとして、ぞんざいに扱うようなことがあってはならないと思います。ご遺体やお墓などの軽視が、日本人にキリスト教へのつまずきを与えことは事実であると思います。相手の心を大切にすることです。

「おくりびと」を観て、そんなことを考えました。

関牧師

2009年7月17日

7月19日2009年の週報に掲載

 家を留守にしている間に、庭の草木が伸びていました。さっそく草刈に精を出しました。教会のI兄が手伝ってくださり、さっぱりときれいになりました。芝を刈ったあとの青々しい匂いがなんともいえません。
 LAでサンファナンド教会の鍵和田先生が、モハビDesertに連れて行ってくれました。荒野です。ハワイや日本では決して見れない光景に圧倒されました。枯れた光景を見ているだけで喉が渇くような気がしました。先生は、よくこの荒野に祈りに来るそうです。人工的な音が一切ない、風の音さえも煩わしく感じるという、それほど静かな所です。
 古の聖徒が聖さを求めて荒野に修道院を建てたのも分かる気がします。何よりイエス様が、しばしば荒野に退かれて祈られた姿が思い浮かびます。
 荒野は、決して人に優しくはありません。むしろ人を寄せ付けない厳しさがあります。途中でガスのランプがついてしまい、思わずここで車が止まったらどうしようと考えました。本当に荒野の中では、人間の無力さを痛感させられます。
 しかし、聖書は語ります。キリストの救いを得ることは、荒野に水がわくようなものだと。神の恵みは、荒野を旅する者たちにこ注がれるものです。

聖霊の大雨が降るときに、荒野はサフランの花咲く所に変わります。

関牧師


2009年7月9日

7月12日2009年の週報に掲載

 サンタバーバラ修養会も恵みのうちに終了し、私は今はLA郊外のお宅にお世話になっています。月曜日には、さらに郊外のキャンプ場で二泊し、水曜日に車でサンフランシスコ近郊のサンロレンゾ教会にまで行く予定です。今回の旅行は、全部で5箇所に宿泊するというスケジュールですが、鈴木先生、松田兄、真理姉と共に、楽しい道中を過ごしています。
 この週報が届く今日には、元気に皆さんと顔を合わせているはずです。今からお祈りをありがとうございます、と言わせていただきます。

 今回の修養会では、講師の藤本満師を通して、深い御言葉の解き明かし、心に迫る鋭くも、暖かいメッセージをいただきました。心深く探られて、また心熱く燃やされ、恵みの座に進み出ました。

 この4回のメッセージは、教団のウェブにアップされますので、どなたでも視聴が可能です。またCDで欲しい方は、受付にお伝えください。

 また私の賛美リードと聖書講義の奉仕も無事に守られました。多くのレスポンスを頂き、務めを果たすことが出来たと感じています。皆さんのお祈りを感謝いたします。聖書講義も同じくCDでお分けすることが出来ます。

 教団総会も終わり、私は改めてホノルル教会に任命を受けているはず! です。新しい年度が始まりました。教会がいよいよキリストの体として成長し、毎回の礼拝で主の栄光の臨在を体験し、キリストがこの世界に向かって証しされていきますように。心を一つにして歩んでまいりましょう。

関牧師


2009年7月5日

7月5日2009年の週報に掲載

 このコラムは、いつもより早めに書いています。皆さんの目に触れている今は、私は修養会も終わり、サンファナンド教会で礼拝を守っている最中だと思います。

 まだハワイにいる今から、最高に恵まれ、感謝で一杯ですと、報告させていただきます。ホノルルの礼拝も、ウィルソン美代子さんの証しを通して、神の恵みが溢れている様子が目に浮かびます。

 さて、ハワイ聖会はすでに終わりましたが、神の言葉がより深く心に迫ってきました。参加できなかった方は、是非CDをお聴きください。特に3回目の集会で、教会にとって、クリスチャンにとって、魂の救いにまさるものはない。福音を伝えるという、この務め以上の働きはない、と明確に語られました。
教会は、何のために存在しているのか? それはこの世に向かって、イエスを証することです。この第一の目的を見失ってはならないことを改めて強く思わされました。

 さらに、この目的遂行のための妨げが、実は私たち自身の中にあるのではないか? 宣教の壁は教会自身が作っているのではないか? という語りかけは、大きなチャレンジでした。私たちの都合や、状況や、面子や、文化など、つまりどうでもいいものが、最も大切なことを妨げているのではないか? 

 今一度、私たちは、本当に最も大切なことのために、つまり福音宣教のために、自らを捧げているだろうかと、聖霊が語ってくださったようにう思います。ブレイクスルー! 壁を打ち破りましょう。                       

関牧師