2012年7月6日

7月8日2012年の週報に掲載

LAから土曜日の夜にホノルルに戻り、洗礼式のために朝5時頃、用があったので教会に立ち寄りました。ドアを開けて教会の中に入った瞬間、なんとも言えない安心感に包まれました。会堂の匂い、雰囲気にホッとしました。ここには、確かに主がおられると思いました。

教会とは、この世のいかなる集団とも違います。似ている面はあるにしても、教会は教会です。教会は、キリストをこの世に証しするために存在しています。それは宣教であり、伝道です。また同時に、教会が教会として存在し続けるために必要なものは何でしょうか?

教会の中心とは何か? ジョン・バニエという司祭は、それは「赦し」だと言います。彼はラルシュ共同体という知的障害者の方々との共同体を世界各地に形成しています。共同体とは、生活を共にする場です。教会の究極的な形とは、生活を共にすることでしょう。

バニエは、共同体を形成する中での体験を元に多くの宝言を語るのです。多くの人々が、共同体に自らの居場所と、存在目的を探して参加してくる。しかし、そのような理想郷は共同体にはない、というのです。あるのは、隣人を愛することの出来ない自らの弱さと貧しさであるというのです。しかし、その弱さ、貧しさの中で、人々が十字架のイエスを仰ぎ見るとき、初めて共同体は成立し、継続されるのです。そこには「赦し」があるからです。共同体にある一人一人は、十字架のもとで「赦し合う」ことによってのみ結ばれるのです。

ここが、教会が教会であることの徴でしょう。それぞれの弱さ、貧しさ、罪深さが、見過ごしにされるのでも、放置されるのでもない。また断罪されるのでも、切捨てられるのでもない。ただ主の十字架のもとで、共にイエスを仰ぎみるのです。もし、教会の中で、この世と同じような人間同士のトラブルが起こるとするなら、それが許されている理由はただ一つです。それは、自らが主の十字架のもとに行くため、これがただ一つの理由です。そして、これが教会が他の集団とは決定的に違う点なのです。教会とは、この点において強い教会となりたいと心から願わされます。

関牧師

0 件のコメント: