2013年8月22日

8月25日2013年の週報に掲載

 ある時、弟子たちが主イエスのもとにやって来て「祈ることを教えてください」(ルカ11章1節)と願いました。

 弟子たちは、ユダヤ人ですから、生まれた時から常に祈っていました。というより祈りは生活の一部でもありました。その弟子たちが、まるで祈りを知らない人のようにして、「祈ることを教えてください」と言うのです。しかも、「祈りについて」のセミナーではなく、「祈ること」そのものを教えてくださいと願ったのです。  弟子たちは、いつも主イエスの祈る姿を見ていました。同じ「祈り」と呼べる宗教的行為なのに、自分たちの祈りとは全く違う何かを見ていたのです。それは何でしょうか?

 まず、主イエスが神を「アバ父」と呼んでいることです。神を父と呼ぶということは、当時の弟子たちには考えられないことでした。また、自由な言葉で祈っていることです。決められた祈祷文を繰り返すのではなく、自分の言葉で祈っているのです。

 そこには、ただの宗教行為としての「祈祷」ではなく、神との人格的関係というものがあったのです。祈る対象は? 祈る内容は? それらすべてにおいて主イエスの祈りは人格的であったのです。私たちの祈りも、それが天の父との人格的関係でありますように。祈りの結果も大切ですが、それ以上に祈っていること自体が最高の価値なのです。なぜなら神と交わっているのですから。

関真士牧師

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