2013年10月25日

10月27日2013年の週報に掲載

 先週のメッセージより

 誰もが求めているのは「真実な交わり」です。嘘、偽りのない、本音で受け入れ合うことのできる場があったら、誰だって居たくなります。聖書は「真実を語り合いなさい」と語ります。

 私たちは、意識的な嘘を付くことはあまりないでしょう。あったとしても、それは本人が嘘と自覚していますから、悔い改めのチャンスがあります。

 むしろやっかいなのは、無意識の嘘、善意の嘘です。京都では、「お茶をもう一杯いかがですか?」と言われたら、それは「お帰りください」という意味だそうです。言葉通りに受けとめて、「もう一杯」と言ったらいけないのです。これは、嘘を付いているのではなく、相手を傷つけないための言い回しなのです。

 しかし、それはお互いがその言葉の本当の意味を理解している場合に成り立つコミュニケーションです。もし「もう一杯ください」と言って、後で「なんてずうずうしい人か」と言われたら、それは「嘘を付かれた」と受け取られても仕方ないでしょう。

 心の中の思いと言葉が同じである、それが真実ということです。安心して相手の言葉をそのまま受け留めることが出来る、それが真実な交わりです。私たちも自らの言葉が真実であるように、そして言葉の裏も表もない、本音の交わりでありますように、そのような交わりを保っていきましょう。

関牧師

2013年10月18日

10月20日2013年の週報に掲載

 「礼拝の後に、交わりの時間がありますので、お残りください」と言うことがあります。この「交わり」という言葉は、教会用語です。初めて来られた方には「交わり…?」という感じかもしれません。

 「交わり」とは、ギリシャ語では「分かち合う、共有する」という意味です。つまり、「交わり」とは、単にお茶を飲みながらの雑談や、会話を楽しむことではなく、何かを分かち合うことなのです。

 それで問題になるのが、何を分かち合うかです。それは「互いに愛し合いなさい」という御言葉の通りに、「キリストの愛」を分かち合うのです。その愛は、赦し、受容、癒しなのです。

 聖書は、「交わりを保ち」と語ります。交わりを一時持つのは簡単です。しかし保つことは難しいのです。人は、お互いを知れば知るほど、近づけば近づくほど、仲が良くなることは稀です。むしろ関係を保つことが難しくなります。それは人の中にある罪のゆえです。この現実の中で、交わりを保つことが出来るとするならば、それは「赦し」なしにはあり得ないのです。

 交わりを保つ秘訣は、ただ一つ、「私が主の十字架の前に立つ」ことです。主の十字架を仰ぎ見ることによってのみ保たれる交わりなのです。それが教会のコイノニアです。そして、それこそ人々が求めてやまない、ありのままで居られる交わりの実現なのです。

 共に、主の十字架を仰ぎ見て、交わりを保ちましょう。
関牧師

2013年10月17日

10月13日2013年の週報に掲載

 たった一泊の訪日でしたが、梅村尚之兄を賛美と祈りをもって送ることが出来ました。どうか奥様のすみ姉に上に、主の慰めと希望が豊かにありますように、お祈りいたします。

 6日の礼拝の中で、私たちは心を一つにして祈りましたが、ちょうどその少し前でしょうか。尚之さんは天に召されていきました。

 生前に尚之さんにお会いできなかったのは残念ですが、神のご計画は、この地上に残された者への「神の慰め」を届けることにあったのだと思います。皆様のお祈りを感謝いたします。

 先週で「礼拝」についての話を終え、今日から「交わり」に入っていきます。礼拝とは、常にこの世界に向かってオープンです。サマリヤの女性が、自分の町に帰っていき、「来て、見てください」と告げたように、真の礼拝とは、「来て、見てくださ」と言える者たちの集まりです。「来て、見てください」「何を?」「救い主がここにおられるのです。」これを言える礼拝が、真の礼拝です。

 これを言い切れる者たちでありたいと思います。その原動力は、喜びの泉です。神に愛され、救われた自分の内側から湧き上げるものです。サマリヤの女性は、その湧き上がる喜びがあったので、自分を差別し、自分を信用しない者たちの所に行っったのです。伝えたいという思いを留めるものは、この喜びの前にはなかったのです。この土曜日に「礼拝刷新を考える会」を開催します。どなたでもご参加くださって、真の礼拝について考えましょう。

関真士牧師

10月6日2013年の週報に掲載

 「礼拝」とは、神を崇めることです。ですから私たちが普段の生活の中で、神を崇めていることが、礼拝者として生きることです。  この礼拝者が、特定の曜日、時間に集まって捧げる礼拝が「礼拝式」と呼ばれるものです。

 ですから私たちは、日曜日の礼拝式に参加したから礼拝者になったのではなく、礼拝者が集まったので礼拝式が成立するのです。

 ヨハネ4章23,24節には「真の礼拝者」とあります。さらに真の礼拝者は「霊と真によって礼拝する者」ということです。

 霊によってとは、霊的であることです。ローマ12章1節にあるように、それは「捧げる礼拝」です。私たちは、賛美を捧げ、祈りを捧げ、礼拝を捧げるために集まっています。そして何よりも、自分自身を「聖なる生きた供え物」として捧げるのです。

 真によってとは、真実な心でということです。捧げると言いながら、実は自分の肉の欲を満たすための形だけの礼拝であるなら、それは偽りです。偽りをなくすには、本当のことを言うだけです。自分を真の礼拝者に見せる必要はありません。肉の欲を持っている自分の姿を神に前にさらけ出すことです。そしてその自分が、主イエスの救いのゆえに聖なる者とされたということです。そう考えると、真の礼拝とは、主イエスの十字架の救いを通らなければ捧げることが出来ないものだと改めて分かります。

関真士牧師