2013年10月17日

10月6日2013年の週報に掲載

 「礼拝」とは、神を崇めることです。ですから私たちが普段の生活の中で、神を崇めていることが、礼拝者として生きることです。  この礼拝者が、特定の曜日、時間に集まって捧げる礼拝が「礼拝式」と呼ばれるものです。

 ですから私たちは、日曜日の礼拝式に参加したから礼拝者になったのではなく、礼拝者が集まったので礼拝式が成立するのです。

 ヨハネ4章23,24節には「真の礼拝者」とあります。さらに真の礼拝者は「霊と真によって礼拝する者」ということです。

 霊によってとは、霊的であることです。ローマ12章1節にあるように、それは「捧げる礼拝」です。私たちは、賛美を捧げ、祈りを捧げ、礼拝を捧げるために集まっています。そして何よりも、自分自身を「聖なる生きた供え物」として捧げるのです。

 真によってとは、真実な心でということです。捧げると言いながら、実は自分の肉の欲を満たすための形だけの礼拝であるなら、それは偽りです。偽りをなくすには、本当のことを言うだけです。自分を真の礼拝者に見せる必要はありません。肉の欲を持っている自分の姿を神に前にさらけ出すことです。そしてその自分が、主イエスの救いのゆえに聖なる者とされたということです。そう考えると、真の礼拝とは、主イエスの十字架の救いを通らなければ捧げることが出来ないものだと改めて分かります。

関真士牧師

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