2015年4月23日

4月26日2015年の週報に掲載

 5月17日の洗礼式が予定されています。今回はちょうどその日にトライアスロン大会があり、アラモアナビーチが入れないので、場所を変えています。カイマナビーチにて、朝6時に洗礼式を行います。

 洗礼とは、イエス様を救い主として信じた者たちが受ける、大切な儀式です。洗礼を受けるということは、イエス様を信じていることを公に告白することとなります。

 洗礼という儀式が人を救うのではなく、救われた人が洗礼を受けるのです。洗礼には、葬りと復活の二つの意味があります。水の中に全身が浸された時、古い自分は葬り去れたこと、そして水から上がった時、新しい自分として生まれ変わったということを現しています。

 洗礼は、卒業式ではありません。始まりです。これから、イエス様と共に歩む人生が始まるのです。

 もちろん原則として洗礼は人生で一回限りのことです。

 私は1984年の12月に洗礼を受けました。20歳の時でした。それから30年、三日坊主の私がここまで来れました。それは神の恵みに支えられてきたからです。イエス様を信じて歩む人生、神の真実が生涯、私たちを支えるのです。

関牧師

2015年4月17日

4月19日2015年の週報に掲載

 復活のイエスに出会った人々は、大きな喜びに包まれ、その喜びの知らせを伝えるために、思わず走り出したくなるほどです。

 母マリヤの走っている姿を想像できるでしょうか? 女性たちは走りました。弟子たちにイエスの復活を伝えるためです。その知らせを聞いて信じた人々は、大きな喜びに包まれ、走り出します。このように信仰のバトンが渡され続け、今そのバトンは私たちが持っています。走りましょう。この福音を伝えるために。

 イエスを信じた者が受ける洗礼とは、このバトンを受け取ることを意味します。

 バトンを受け取った者には、メッセージが託されます。ライフメッセージ、命のメッセージです。私たちは、伝えられた者から、伝える者へと変えられるのです。

 私たちは、みな例外なくメッセンジャーです。牧師だけではありません。ただ伝える方法において違うだけで、みなが神のメッセージを託されているのです。私たちは、ただ闇雲に走っているのではなく、確かな使命を帯びて走っているのです。この命のメッセージを、これからも伝えていきましょう。

関牧師

2015年4月10日

4月12日2015年の週報に掲載

 4月15日は、関家にとってハワイ上陸記念日です。今年でちょうど丸10年となりました。

 あっという間でしたが、最初の頃の写真を見ると、10年一昔と言いますが、本当に時が経ったのだと改めて感慨に浸ります。この10年で出会った人、見送った人、そのお顔が頭に浮かびます。人生とは出会いと別れなのだと実感します。

 40歳でハワイに来ました。不惑の年としてこの10年間は、とにかく突っ走って来たという感じがします。よくついて来てくれた妻と、自発的に奉仕に参加してくれる子供たち、家族に感謝です。そして未熟な私たちを祈り、支え、励まし続けてくださる神の家族である教会の皆様に感謝です。

 50代に入り、身体的な変化を実感しています。限りある時間、体力、機会を、いかに忠実に使い切るかを考えています。あれもこれも出来る年代ではなくなったことを自覚しなければなりません。これからの10年は、自分が走るより、走れる人を育てるコーチのような役割に、その働きをシフトチェンジしていきます。

 これからも、主の成してくださることに期待し、信頼し、歩んでいきます。関ファミリーのためにお祈りください。

関牧師

2015年4月3日

4月5日2015年の週報に掲載

 今日は、復活祭。イエス・キリストの復活を心からお祝いします。

 キリスト教は空虚な墓の上に立つと言われます。イエスが十字架で死なれたことが歴史の事実であることのゆえに、この地上に墓が存在します。墓とは、その人が、この地上に生きたことの記念であり、記憶です。

 しかし、その墓は空っぽです。「彼はそこには、いない」のです。なぜならイエスは死を打ち破って甦られたからです。

 もしイエスが甦られなかったら、私たちは世界一の嘘つき、虚しい存在となってしまいます。存在しない者に賛美を捧げ、祈ることなど滑稽なことです。

 しかし、私たちは虚しい者ではありません。主は確かに甦ったのです。それが本当か嘘かを一番知っているのは、弟子たちです。人は偽りのために命を捨てることは出来ません。あのペテロが殉教の死を遂げるまで、復活の主を宣べ伝えたのです。彼は、復活の主に出会ったからです。

 主は、今も生きておられる。これが私たちの信仰です。だから私たちの信仰は過去形ではありません。今のことです。だから、今を輝いて生きることが出来るのです。

関真士牧師