2018年11月30日

12月2日2018年の週報に掲載

 本日から、待降節に入ります。英語では、アドベントと言いますが、この言葉は、ラテン語のアドベンテゥースという言葉が来ていて、その意味は「到来」です。

 救い主は、「来た」のです。私たちが「行った」のではありません。行くと来るは、正反対です。私たちは、自分の力で救いにまで行くことはできないのです。ですから、向こうから来てくださったのです。

 救いとは、獲得するものではなく、受け入れるものなのです。ですから救いは、恵みなのです。

 ますます商業主義に取り込まれていくクリスマスですが、教会では、真のクリスマスを大切にしています。24日(月)6時半から、キャンドルライトサービスがあります。今年のテーマは「光の家族」です。

 ご一緒に、救い主が誕生されたことの意味と恵みを受け取りましょう。そして、心からの感謝と賛美を主に捧げましょう。
 今年の待降節の4回のメッセージは、光、希望、栄光をキーワードに語る予定です。どうぞご期待ください。  

関真士牧師

2018年11月23日

11月25日2018年の週報に掲載

 今日は、日英講壇交換の日です。 日語部ではランディ・ヤング先生がメッセージを語ってくださいます。

 ランディ先生とは、「リバイバル」をテーマに語ろうということで話していましたが、具体的な内容までは話していませんでした。 しかし、ランディ先生から送られてきたメッセージのタイトルを見てびっくりです。 私のタイトルと同じでした。

「神の臨在」「The Presence of God」
 奇しくも、リバイバル・プロジェクトが始まろうとしています。 まさに、私たちが建てようとしている物は、聖なる神の御住まいです。聖なる神の臨在の場です。

 もし、最高の建築物が建っても、そこに主の臨在がなければ、それは、ただの建物です。 私たちが建てようとしているのは「教会」です。教会とは、神の臨在です。

 目に見える形としての建物の中に、肉眼では見えない、しかし確かにある主の臨在が満ちるとき、それは真の教会となります。 12月2日10時45分から、プロジェクトの説明会があります。 どうぞ祈り心をもってお集まりください。

関真士牧師

2018年11月16日

11月18日2018年の週報に掲載

 月曜日の朝、家で聖書を開き、主と時間を過ごしていたときの出来事です。私のノートに描かれていた、画家であり詩人である星野富弘さんのシクラメンの花の絵と、左の隅っこにある一つの詩が、私の目に飛び込んできました。

 今日は何もしないでいよう
 そう思った日ほど 花が私に近づく

 主の前に立ち止まり、静かな時間を過ごしていたときに、確かにそこに存在していた花のように、私に近づいてくださるお方がいる。私の主、私の神。

 立ち止まらないと、動いていると、気づかないことってあるなぁ、と思ったのです。私たちは動くことに慣れています。朝起きて、夜寝るまで、一人でいる時も、誰かといる時も、私たちの心と身体は、どこかせわしく動き続けているように思います。

 主よ、今日も私に近づいてくださる決して揺るがされないあなたに、しっかりと気づき、そのご臨在を味わうことのできる信仰の目を開いてください。

高木牧人牧師

2018年11月9日

11月11日2018年の週報に掲載

 毎年11月に入ると、あとは年末まで一気に進みます。人間とは本来、動く生き物です。じっと動かないことは、基本的に苦痛です。

 小学生の時、美術の授業の中で、絵のモデルになったことがあります。皆が椅子に座って輪になっている中央に立って、腕組みしたまま1時間じっとしているのです。あの時の苦痛は今でも覚えています。

 道路工事現場の警備の仕事で、景色に変化のない住宅街の中、一軒の家の前に4時間近く立ち続けることは大変な苦痛でした。
 あるいは、ゆっくりすることも難しいです。本来の自分の動きのスピードよりも、動きを早くすることは易しいですが、ゆっくりすることは、はるかに難しいです。  性格もあると思いますが、そんな私ですが、じっと、ゆっくりする時に、妙な快感を覚えることがあります。お茶お稽古の時は、まさに静かに、じっくり、ゆっくり、立ち止まるという絶妙の時です。

 そして、それを通して、自分のスピード、自分のやりたいこと、自分の都合… ではなく、神の***に自分の動きがアジャストされるのです。年末で慌ただしく、忙しくなりますが、神のペースに自分を合わせて、良い時を過ごしましょう。

関真士牧師

2018年11月1日

11月4日2018年の週報に掲載

 先週は、マウイ島にあるカフルイユニオン教会の礼拝でご奉仕をしました。 オアフ島以外のハワイの諸島にある日本人教会は、この教会だけになりました。

 このマウイ島の教会では、主を心から愛する方々が、素晴らしい礼拝を捧げています。 れいが、礼拝の中で証詞をさせていただきました。 れいたのめに教会挙げて祈っていてくださいます。 本当に感謝で一杯です。

 30代と思われる女性が3人の小さい男の子を抱えて礼拝に参加していました。 礼拝後にお話したところ、昨年の11月にご主人を天に送られたそうです。
 しかし、そのお顔は輝いていました。 ご主人は感謝に溢れて召されていったそうです。 そのかけがえのない時間を過ごす中で、すべて感謝でしかないと言われました。 「主を仰ぎ見て光を得よ」(詩編34:5)の御言葉の通り、その方のお顔は主を仰ぎ見て、栄光で輝いていました。

ここにも、おられました! れいと同じ、主を仰ぎ見て栄光に輝いている人が。

 ハレアカラ山の頂上にまで行きました。 3千メートル以上の高い山です。 「雲の上は、いつも晴天なり」という名言があります。 主を仰ぎ見るとき、すべては晴天、感謝、ハレルヤと、主を賛美するしかなくなるのです。
主は、良いお方です。ハレルヤ!

関真士牧師