2008年11月20日

11月23日週報に掲載

 今日は、感謝祭礼拝です。1960年12月26日、メイフラワー号に乗って、イギリスの清教徒たちがアメリカ大陸にやってきました。しかし厳しい寒さのために、102名の内の約半数が命を失いました。そこにインディアン達から助けの手が差し伸べられました。彼らから狩猟や農耕を教わり、次の年の秋には豊かな収穫を得ることができました。その時、インディアンと清教徒たちは共に3三日間の祝宴を催したのです。それがアメリカにおける感謝祭の原型です。

 この感謝祭に込められている思い、それは収穫を与えてくれた神への感謝。そして助けの手を差し伸べてくれたインディアンへの感謝です。そこにあるのは、ただ「恵み」です。収穫に必要な太陽の光も、雨の水も、それは人間の力ではコントロールできない領域のものです。ですから、それは神の恵みなのです。インディアンが見たこともない異国の侵入者を助けることも、決して当たり前のことではありません。何の取引もなく、ただ助けられたこと、これもまた「恵み」です。

 感謝は、恵みを体験する時に湧き上がってきます。あって当然と思っている時に、感謝の心は出てきません。食べることも、着ることも、住むことも、そして生きていることさえも、当然ではなく、生かされているのだと分かるときに、自分の存在そのものが感謝に変えられていきます。やがてインディアンは、その土地を奪われ、虐殺されていきます。感謝の心を忘れるとき、人間は傲慢になります。道端の名も無き花の一つでさえ、神の恵みの業なのです。神の恵みに心を向けるとき、感謝は尽きません。神の恵みが私たちを取り囲んでいるからです。

関真士牧師



0 件のコメント: