2020年3月23日

3月22日2020年の週報に掲載

 過去17世紀にイタリヤでペストが流行した時に起こったことは次のことでした。

外国人への差別、当局間の激しい争い、感染者をヒステリックなまでに捜索し、専門家を軽視し、感染させた疑いのある者を狩り、デマに翻弄され、愚かな治療を試し、必需品を買い占め、医療現場の混乱が起こった。

まるで現代のことを言っているようです。 病気自体の問題に、上記のような問題が上乗せされることで、苦しみが増していきます。

新型肺炎という目に見えないウィルスは、人の心に恐れをもたらし、社会全体に混乱と無秩序をもたらします。 私たちは、心を落ち着けて、集団パニックに巻き込まれないようにしましょう。 基本的な手洗いうがいなどを行い、日常生活を歩みましょう。

私たちの行動基準は、神を愛すること、隣人を愛することです。 この基準に則って考え、判断し、行動していきましょう。

今は受難節の時です。 「立ち止まり」自分を見つめ、主をみつめ、主からのメッセージを受け取っていきましょう。

関真士牧師

2020年3月13日

3月15日2020年の週報に掲載

 過去17世紀にイタリヤでペストが流行した時に起こったことは次のことでした。

 外国人への差別、当局間の激しい争い、感染者をヒステリックなまでに捜索し、専門家を軽視し、感染させた疑いのある者を狩り、デマに翻弄され、愚かな治療を試し、必需品を買い占め、医療現場の混乱が起こった。

 まるで現代のことを言っているようです。 病気自体の問題に、上記のような問題が上乗せされることで、苦しみが増していきます。

 新型肺炎という目に見えないウィルスは、人の心に恐れをもたらし、社会全体に混乱と無秩序をもたらします。 私たちは、心を落ち着けて、集団パニックに巻き込まれないようにしましょう。 基本的な手洗いうがいなどを行い、日常生活を歩みましょう。

 私たちの行動基準は、神を愛すること、隣人を愛することです。 この基準に則って考え、判断し、行動していきましょう。

 今は受難節の時です。 「立ち止まり」自分を見つめ、主をみつめ、主からのメッセージを受け取っていきましょう。 

関真士牧師

2020年3月6日

3月8日2020年の週報に掲載

ヴィア・ドロローサ

 この言葉はラテン語で「苦難の道」という意味です。 イエス様の十字架の道、その最期の道はヴィア・ドロローサと呼ばれ、今日もイスラエルの地に残されています。

 今年の受難節、私たちは救い主イエス様の「十字架の道行き」に焦点を当てて、ともに黙想をしています。

 第一の留は先週、関先生がメッセージを語ってくださった「ゲッセマネの祈り」という場面でした。 第二の留は「ユダの裏切りの逮捕」の場面、そして今日は第三の留「裁判にかけられるイエス」の場面です。 一足一足、救い主の足は十字架へと向かっていきます。 第四、第五…と確かにその御顔を十字架へと真っ直ぐに向けて。 そして、ヴィア・ドロローサ(苦難の道)という十字架の道が完成するのです。

 しかし、この苦難の道は苦難の道で終わりませんでした。 この主が歩まれた道の根底には、私たちへの主の計り知れない愛と勝利がありました。 この受難節、私たちはこのヴィア・ドロローサの背後にある主の愛と勝利を、ともに受け取りたく願います。

 皆様にお配りしました「黙想の手引き」を、ぜひ用いて頂けたら幸いです。 受付にもまだ置いてあります。

高木牧人牧師

2020年3月2日

3月1日2020年の週報に掲載

「受難節に入りました」

 この期間は、十字架の主に想いを向け、日々を過ごしましょう。 カトリックの教会に行きますと、十字架の上にイエスが架けられている像を見ることがあります。 対してプロテスタントは、十字架の上にイエスはおられません。

 それは、イエスはすでに復活されたので、十字架の上には居ないという理解から来ていると聴いたことがあります。
 もちろん、私たちは、十字架上のイエスと復活のイエスと、その両方を想うのですが、その両方を一つの目に見える像にするのは出来ないことです。 それが、神の真理を目に見える形にすることの限界です。

 いずれにしても私たちは、受難節の期間は、特に十字架の上のイエスに想いを向けますが、復活の時には、復活のイエスに想いを向けるのです。

 今年も、黙想の小冊子が配布されています。 まず一人で黙想しますが、友人と一緒に、分かち合いの時を持つこともお勧めします。 分かち合うことで、新しい気付きが与えられます。

 主の恵みは日々新しく、尽きることはありません。
 今年も、新しい恵みをいただきましょう。

関真士牧師