2012年4月27日

4月29日2012年の週報に掲載

とうとうZUMBAに行きました。踊ることは気持ちいですね。一応、元竹の子族として踊りには自信がないわけではありませんでしたが、どうにも身体がついていかなくて困りました。でもいい汗を流しました。

最近、体脂肪率を計れる体重計を購入しました。さっそく体重を計ると、何と以前に使用していた体重計と1キロ位の誤差があって、新しい方が1キロ多く表示されるのです。ショックです。どっちが本当なのでしょうか?

「計り」は大事ですね。これが違っていたら、すべてが違ってしまいます。自分の存在の価値は、何によって計られるのでしょうか? 世間様の価値観。あの人、この人の価値観。自分のセルフイメージ、流行? マスコミ?

 自分という存在の価値を計るもの、それは「私」を造ってくださった神だけです。そして聖書は、その神の計りです。この計りは絶対に狂ったり、間違ったりしません。しかもどんな時でも変わりません。誰に対しても同じです。
 その計りの基準は、「愛」です。
神を愛し、隣人を愛すること。
そして神に愛されていること。
愛すること、愛されること、です。


毎日体重計に乗るようにして、毎日、神の言葉、聖書の計りで、自らの存在の価値を計り、人生の歩みを判断していけば、間違いないでしょう。

関師

2012年4月23日

4月22日2012年の週報に掲載

しばらく農園の土を休ませていましたが、また種を蒔きました。大根、カブ、春菊、オクラ、小松菜などなど。しかし、どうやら鳥が種を食べているみたいです。
それにしても、土に埋めている種をどうやって見つけるのでしょうか? 鼻は利かないし、目でも土の中は見えないし、匂いかな? KZOOのもしもし相談室に電話しようかな…。

イエス様は、種まきの譬え話をしてくださいましたが、悪魔は御言葉の種を奪い取ろうとしています。よく礼拝堂の外では、悪魔がカラスのようにして、御言葉の種を食べようと待っていると言われます。しかしイエス様は「御言葉を聴いて、それを悟る人」は、百倍の実を結ぶと言われました。(マタイ13:18~)

  • 礼拝の中で御言葉が語られる時、次の三つ事が大切になります。

    • 理解すること。受け入れること。応答すること。
    感覚や感情ではなくて、知性としてよく理解すること。
    その御言葉に対して「同意」して、信じること。
    その上で、具体的に応答すること。

    これが種が取られない秘訣です。100倍の実を結びましょう。

    関師

    2012年4月13日

    4月15日2012年の週報に掲載

    私たちは、受難節、復活祭を共に過ごしました。すべては、十字架と復活から始まります。この後、祈り待ち望む弟子たちに聖霊が降り、力強い宣教が始まっていきます。
    いただいた恵みを、内側に留まらせることなく、外に向かって大胆に流していきましょう。しばらく「臨在」を鍵語にしてメッセージを語っていきます。どうぞお祈りください。「大胆シリーズ」の証しをしてくださる方も引き続き募集中です。是非、与えられた情熱、ビジョンを分かち合ってください。

    話は一気に変わって、とうとう一線を踏み越えてしまったといいますか…、自分でラーメンを作ってしまいました。チャイナタウンでガラを買ってきて、スープ作りに挑戦しました。ちょっと臭みが出てしまいましたが、まあまあ食べられました。しかし全く満足はしていません。
    また挑戦します。この奥深い世界に足を踏み入れてしまった以上、もう引き返せません。いつの日か「ゴスペルラーメン一杯$5、店主のメッセージ付き」を販売できたならと… これは冗談です。

    ホノルル教会の若者のグループ「DISCIPLES」が、ブログを開設しました。http://honoluludisciples.blogspot.com どうぞご覧ください。

    関牧師

    2012年4月5日

    4月8日2012年の週報に掲載

    今日は復活祭です。イエス・キリストの復活を心をお祝いしましょう。主は今生きておられる! これが私たちの信仰です。
    また皆さんへの問いかけです。

    

    イエスさまの墓は空っぽ
    「主は今生きておられる」この真理は、自分にとって何を意味するのでしょうか? だから何なのでしょうか?
    この真理は、ただの字句ではありません。これは事実であり、現実です。この事が体験的に理解されるとき、自分の内に何が起こるでしょうか? 教会に何が起こるでしょうか? それこそクリスチャンの醍醐味です。

    復活の主が臨在されるなら、そこに御業が起こります。臨在とは、もたらすものではなく、気づくものです。認めることです。

    ある方が賛美集会の中で、「あそこで音程が狂った、あの時に臨在が無くなった」と言いました。それは臨在が無くなったのではなく、音に気を取られて、臨在から心が離れたのです。臨在はあるのです。

    主は今生きておられるのです。それは事実であり、現実です。私たちは、霊の目を開いていただいて、主の臨在に気づけるものとさせていただきましょう。


    関牧師

    2012年4月1日

    4月1日2012年の週報に掲載

    今日は「棕櫚の主日」です。英語ではPalm Sundayと言います。イエス様がエルサレムに入られるとき、民衆が棕櫚の葉を道に敷いて迎えた所から付けられた呼び名です。

    棕櫚というのは、その昔、ローマ帝国に抵抗した将軍を棕櫚の葉を振って讃えた所に出処があります。つまり民衆は、イエス様をローマ帝国を滅ぼし、ユダヤ国家復興のヒーローとして迎えているのです。それに対して、イエス様は軍馬ではなく、子供のロバに乗って来られたのです。しかも剣を持たずに丸腰です。この5日後に、イエス様は捕らえられ十字架につきます。その時イエス様を歓呼の声で迎えた民衆は、「イエスを十字架につけろ」と叫び始めたのです。自分の期待に応えない、自分の願いをかなえないイエス様に対して心を翻したのです。

    あの人を罰してくれと願ってもかなえられません。その代わりに「赦しなさい」と語られます。
    あの人を変えてくれと願ってもかなえられません。その代わりに「自分を変えなさい」と語られます。
    自分の欲望を満たしてくれと願ってもかなえられません。その代わりに「神の御心に従いなさい」と語られます。

    関牧師