2008年5月26日

第7回賛美フェスティバル 「ただ信ぜよ」

5月24日(土)2008年
ハワイ日本語キリスト教会連盟主催でオアフ島にある日本語キリスト教会が集まって賛美フェスティバルを開催しました。 
その時、ホノルル教会が賛美した様子を動画で紹介します。



ごゆっくりとお楽しみください。


2008年5月23日

5月25日週報に掲載

 最近「グリーフ ケア」という言葉が注目されている。「グリーフ」とは「悲嘆」という意味である。悲嘆の原因として、愛する対象との別れという「喪失体験」が考えられている。もちろん愛する人が亡くなるという喪失を筆頭に、可愛がっていたペット、思い出のある家を火災で喪失した、引越しなどで人間関係を喪失した、あるいは健康を喪失した、という様々な喪失体験があります。
 どれにも相応の「悲嘆」が伴います。ここで明らかにしたいことは、悲しむことは人間として自然な反応だということです。しかし、幾つかの誤解があります。「信仰の強い人は悲しまない。愛する人を失っても天国の希望があるから笑顔でいられるはずだ。悲しんでいるのは、信仰が弱いからだ」これは全くの誤解です。あるいは「男は泣くな」と言われますが、どんな理由でも悲しむことを禁止されたり、否定され、充分に悲しむことが出来ないということは、とても辛いことです。あるいは、生きていくためには、悲しんでなどいられない、という状況の中で涙をぐっと堪えて生きて来た方もいるかもしれません。
 だからこそ、イエスの「悲しむ者は幸いだ」という言葉が心にしみます。悲しむべき時に悲しめる、涙する時に涙を流せる、それは幸いなことなのです。ですから立場を変えて、私たちは悲嘆にある人に接する時にも、悲しみをなくそうとしないで、充分に悲しませてあげることが大切です。そうすることで、喪失を乗り越えて生きる力が出てくるのです。

「イエスは悲しみの人」であると聖書に記されています。だからイエス様は悲しむ人を慰めてくださるのです。

関真士牧師

2008年5月17日

5月18日週報に掲載

 今日は窓の外が曇っています。白い霧がかかっているように見えますが、おそらく火山の影響でしょう。心なしか太陽の光も鈍くなっているようです。
 北国のロシアでは冬季うつ病というものがあって、太陽が見えず鉛色の空が続くと、気分が滅入ってしまいます。そんな時に、どんな治療をするかというと、光を身体全体に照射するのだそうです。私たち神に造られた人間は、身体にも心にも、光が必要です。天地創造の最初に神は「光よあれ」と仰せられて、最初に光を創造されたのは意味深いことです。人間は、光に照らされて生きる者です。
 ただ興味深いのは、光が創造された後に、太陽が創造されたということです。つまり、この光は、太陽の光ではなく、もちろん電気などではありません。この光の光源はまったく別にあります。たとえ、太陽が沈み、全てが暗闇に閉ざされても消えない、輝く光です。
 イエスは「私は世の光です」と言われました。この光の光源は、イエス・キリストです。聖書には「明るみに出されたものは、すべて光となる」と書かれています。光は、時に私たちの心の隅々、人生の隅々までも照らし出します。だからあまり明る過ぎても困ります。泥棒さんのように、暗い方が好きという場合もあります。
 しかし、イエスの光は、裁き、咎める光ではありません。暗闇を光に変える光です。どんな濃い暗闇も、光に触れるなら一瞬で光に変えられます。イエスの光は、愛と赦しの光です。この光を全身に浴びて歩んでいきましょう。

関牧師

2008年5月9日

5月11日週報に掲載

 今日は、「ペンテコステの日」であると同時に「母の日」でもあります。「母の日」に対して「父の日」もあるわけですが、女性と男性という異なる二つの性が一つとなるときに、神のイメージが浮かんできます。
 母なる存在とは、母なる河とか、母なる大地という言い方をするように、無条件に全てを包み込んでいく「無償の愛」を象徴しています。それは受容であり、赦しであり、包含です。
 対して父なる存在の特徴は「断ち切り」です。善と悪を分け、正義と不義を明らかにし、そこに自立をもたらします。
 誰かが何か失敗したとします。女性的な人は、まず励まして、赦して、支えようとします。男性的な人は、何が悪かったのかを明らかにし、次に同じ失敗をしないように教えます。そしてぺネルティを与えます。
 もし、どちらか一方だけのアプローチしかなければ、それは甘えか、拒絶か、いずれにしても偏ったものになってしまいます。私たちは、励ましと赦しを必要としますが、物事の正しい道筋を知ることや、責任を刈り取ることも必要です。
 男性も女性も、母も父も、異なった性質を持っています。それが衝突したり、一方が否定されるのではなく、お互いが補い合うことが出来れば、それは人生に素晴らしい祝福をもたらします。
 母なる存在、それは父なる存在に支えられた存在です。逆もしかりです。聖霊の助けによって、母にも父にも祝福がありますように。


関真士牧師

2008年5月3日

5月4日週報に掲載

 さて今年もペンテコステの日が近づいて来ました。ペンテコステとは、ユダヤの祭りの名前で、おもに収穫の感謝の祭りです。この祭りの時に聖霊が降ったので、教会では、聖霊降臨記念日とか、ペンテコステの日などと呼ぶようになりました。
 キリスト教が国教のドイツなどでは、この日は国民の休日となっているくらい、教会にとって大切な日です。それもそのはず、この聖霊が降った時に、教会が目に見える形でこの地上に誕生したからです。ですからペンテコステは、教会の誕生日と呼ばれます。
 最近はスピリチュアルブームで、霊の世界が身近になってきているし、霊的なことは、もはや迷信ではなくて、現実のものとして受け入れられています。しかし、霊的な世界に対する免疫がないので、霊だと何でも信じてしまう傾向があるのを危惧しています。Ⅰヨハネ4:1に記されているように「霊だからといってみな信じてはいけない。その霊が神からのものかどうかを試しなさい。」という言葉は、本当に重要だと思わされます。
 私たちはスピリチュアルブームの危険性や落とし穴について教えていかなければなりません。しかし、それ以上に聖霊なる神の素晴らしさを伝えて行きたいと思います。確かに霊の世界はあります。だからこそ、それが聖霊なのか、悪霊なのかを見分ける必要があります。
 聖霊なる神は、キリストの霊です。天地を造られた神の霊です。悪霊は人間の肉欲を満たそうと誘惑しますが、聖霊は私たちの魂を満たしてくださいます。そして神に造られた人間として、真に生きるべき道に私たちを導いてくださるのです。

関牧師