2009年3月25日

3月29日2009年の週報に掲載

 ここ2週続けて牧師館でパーティが持たれました。皆が集まって、美味しい食事をいただき、笑顔で交わり、子供たちが駆け回り、わいわいと楽しい一時でした。 

 ハワイの牧師はバーベキューが出来なければ勤まらないと、某牧師が言っていました。料理ならお手のもの、バーベキューも大歓迎です。しかし今回は、鍋奉行ならぬ、バーベキュー奉行もあることを知りました。火をおこす所から、焼く順序、焼き方まで、全部自分が仕切らないと気がすまない、ということです。

 そう言われれば、確かに自分は、まず鍋奉行であることは間違いない。年末の鍋パーティでは3種の鍋を朝から準備して、具材を入れて、取り分けるまで、全てを仕切っているし、それが実に楽しいのです。ただし、自分の段取りと違うことが起こると、機嫌を損ねるという厄介な存在でもあります。
 この度は、ある方からバーベキュー奉行の名前も頂戴いたしました。喜んでいいのか、悪いのか…。でも皆が美味しいと言って食べてくれるのが何よりです。
 バーベキューを見て、いつも思い出すことがあります。ある時、主の祭壇に自分自身を捧げる、という聖化の話をしていた時のことです。ある方が、自分の古き人、肉なるものは、じわじわと弱火でなく強火で一気に焼き尽くして欲しいと祈りました。自分の肉の性質が取り扱われるときは、時間をかけないで、一気にやって欲しいということです。その気持ち分かります。バーベキューで肉を焼く度に、自分の肉性もこのように聖霊の火によって焼かれるのだと…、霊的なバーベキュー奉行なのであります。

関牧師

2009年3月18日

3月22日2009年の週報に掲載

 ダビデ・マーチン宣教師 彼は1924年生まれ、1951年に宣教師として来日して以来、9つの教会を開拓し2月10日に天に召されました。 このニュースを知って、しばし感慨に浸りました。私がマーチン先生と初めてお会いしたのは、幼稚園の頃のようですが、その時のことは、ほとんど覚えていません。

 記憶にあるのは、病院のベッドの側で祈ってくださった姿だけです。
 当時の私は、17歳だったと思います。3人を相手に喧嘩でぼろぼろに負けてしまいました。丸太でめった打ちにされて、足の骨も折られ、救急車で病院に運ばれました。全身の痛みで動くことが出来ず、痛みで唸っていました。パンチパーマの友人がベッドを囲んでいる時、マーチン先生が入って来られました。ひげもじゃの大男でした。
 私は、その人が母に連れて来られたキリスト教会の人だということがすぐに分かりました。心底を嫌な気持ちになりました。頼むからかえって欲しいと思いました。しかし、動けない状態で何も抵抗が出来ませんでした。
 マーチン先生は、ただベッドにひざまずいて祈られました。私は友達の手前もあり、恥ずかしいやら頭に来るやらで、とにかく帰って欲しいとだけで思っていました。

 その後、私は高校を卒業しコックの道に入りました。19歳で渡米し、20歳で洗礼を受けました。そして23歳の時に、牧師になる決心をして帰日しました。聖書学院に入る前、私はマーチン先生と再会しました。まさか、あのどうしようもない青年が、献身して牧師になるとは!先生も驚いておられました。涙をもって蒔いた種は、喜びと共に刈り取る、神の約束は確かです。

関牧師


2009年3月10日

3月15日2009年の週報に掲載

 「人生は出会いで決まる」と言われます。出会いがあれば、別れもあります。今日は、吉田文人兄のホノルルでの最後の礼拝になります。4月から東京聖書学院の神学生となります。張ファミリーも1年間の滞在を経て3月一杯で日本に帰国されます。別れの寂しさを感じている中で、3年前にハワイから米本土に越された武岡ファミリーが戻って来られました。
 特に日本人教会では、人の出入りが目立ちます。先日聞いた話しですが、シカゴのある日本人教会では、30人もの人が日本に帰るそうです。不景気を反映して、クリスチャンの駐在員が一気に引き上げるようです。

 私がハワイに来て4月で4年になりますが、たくさんの出会いと別れを経験しました。出会いは嬉しいものですが、分かれはいつでも寂しいものです。慣れるということはありません。それでも、引っ越した先で教会につながっているという報告を聞けば、本当に安心します。

 今は受難節です。イエスは十字架にかかる前夜、弟子たちに「わたしが去ることは良いことだ。助け主(聖霊)が与えられるからだ」(ヨハネ16:7)と言われました。

 また「わたしは、あなたがたを捨てて孤児とはしない」(14:18)とも言われました。イエスが十字架で死なれること、それも別れでした。しかし、その別れは、決して悲しみと失望で終わるものではなく、将来に希望を与えるものでした。私たちの別れも、前に進むために、希望に向かうために必要な神の計画です。そしてイエスは復活され弟子たちに再会したのです。別れと再会、今日は素晴らしい日です。

関牧師



2009年3月4日

3月8日2009年の週報に掲載

 すでに教会の暦では、先週から受難節に入っています。今年は4月10日がグッドフライデー、12日が復活祭となります。毎年、この時期は、特に十字架の主を想う期間としてアピールしています。 

 この期間、ある教会では肉類を断ったり、お酒を控え、あるいは祈りに集中するために断食の時をもったりと、それぞれの過ごし方があります。私たちの教会では、特別な規定を設けてはいませんので、過ごし方は各自の自由です。しかし、大切なのは、十字架の主を想う、ということです。

 何もこの時期だけのことではありません。十字架の主は、常に私たちの信仰の中心です。十字架のキリストに対して、自分自身がどのように相対するかが全てです。そこで、何を聴き、何を見て、何を感じ、何を決めるか、それが私たちにとって最も重要な体験、選択となります。ここが曖昧だと、信仰の全てが曖昧になります。

 私たちが十字架の主に相対するとき、聖霊は次のことを私たちの心に問われます。「イエスを十字架につけたのは誰か?」この問いの重要性は、とても言葉で表現できません。永遠の命がかかっている、究極の問いかけです。この問いかけに対して、どう応えるか…?

 すべてが、ここから始まります。もしクリスチャンであっても、この問いかけに応えていない人がいたら、本当の意味での恵みと祝福には、まだあずかっていないでしょう。フルコースの匂いをかいだようなものです。十字架から与えられる祝福は、全世界を天秤にかけても、余りあるほどの祝福です。 この時期、十字架の主の前に一人立ち、それぞれが聖霊に導かれ、素晴らしい体験をされますように。


関牧師