2009年2月26日

3月1日2009年の週報に掲載

 先週は、LAから溝口先生が来布してくださり、教団の機構改革の説明会を開いてくださいました。1950年以来の機構改革ということですが、ここまで来るのに7年間かかっているとのこと。組織を変えるということは、大変な労力が必要です。

 改革の必要ない完璧な組織というものは有るのでしょうか? どんなに完璧に見えても、時代の変化の中で絶えず改革が求められるでしょうし、むしろ組織というのは、人、状況、ビジョンに合わせて変わるべきものでしょう。

 そこで重要なのは「何のために?」という動機と目的となります。それは、「各地域教会がキリストの体として成長し、キリストの働きを充分に行うために」というものです。それが私たちの動機であり目的です。そのために、ふさわしい組織形態を考えているのです。これさえブレなければ大丈夫です。そのために常に、より良い形を求めていけばよいのです。

 今は健康ブームですが、教会も、怪我をしたり、病気になったり、動脈硬化のようになったりしたら、思うように動くことが出来ません。教会がキリストの体として常に健康であるようにと願います。機構改革は、さながら身体全体のバランスを整えることでしょうか。骨、血管、内臓、筋肉、神経、各器官、そして心、全てがバランスよく動くように。

 キリストが教会の頭です。ですから、キリストの御心を充分に行うことが出来るように、これが私たちの存在意義であり、目的です。このための改革であることをしっかりと持ち続けましょう。

関牧師


2009年2月19日

2月22日2009年の週報に掲載

 目を閉じて、ふと耳をすませてみる。子供たちの歌声、泣き声、誰かの大きな笑い声も聴こえる。車の走る音、バイクの音が聴こえた。あれは空を飛ぶ飛行機の音だろうか? 鳥の鳴き声がした。ピアノの音も鳴り出した。最後に時計の秒針の刻む音があることに気がついた。

 教会の2階のオフィスにいる3分間で聴こえた音です。実に様々な音があるものだと感心しました。でも、心を落ち着けて、耳を開いて聴こうとしなければ、ほとんど聴こえないものばかりです。秒針の刻む音なんて、目の前で鳴っているのに全く聴こえていません。

 でも、全ての音が聴こえたら、きっと疲れてしまうでしょう。音って気になったら、水道の蛇口から垂れる水滴の音でも気になって眠れなくなることがあります。心が向くと、どんな小さな音でも気になってしまいます。逆に心が向いていないと、目の前の音でも気にならないものです。

 最近、もっともっと神の御声を聴きたいと強く思います。聖書には「細き御声」とありますが、神の御声とは、耳をすませて、心を傾けないと聴こえない声なのですね。イエスは「耳のある者は聴きなさい」と語られました。よく「あの人は、聴く耳を持たない」と表現することがありますが、耳は持っていても、聴く耳は…?
 神の御声を求めている人、意外と目の前に、その声はあるのかもしれませんね。今日もマノアの優しい風に吹かれながら、風の中に「細き御声」を探している自分がいます。

「主よお語りください。しもべは聴いています。」    関牧師

2009年2月15日

HCC賛美 - rinato



ゴスペル歌手、内藤容子さんのCDを聴いた3人がぜひこの曲を紹介したいと言って礼拝で始めて賛美してくださいました。 その3人が作ったグループの名前が「rinato」イタリア語でReborn(新しい人生、新しく生まれ変わる)です。 ぜひ聴いてください。

2009年2月12日

2月15日2009年の週報に掲載

「新しいぶどう酒は、新しい皮袋へ」教団機構改革に際して


 人の集まりには、必ず組織というものがある。たまに組織やルールが無い集まりを標榜する集まりもあるが、それは、組織がないという組織であり、ルールを作らないというルールである。


 さて、組織とは、そこに属する人たちが、その目的を遂げるために、働きやすくするためにある。だから、常に人の動きに合わせていかなければならない。それが逆になる、つまり組織のために人を合わせ始めると、本来の目的のために動くことが出来なくなる。

 教会にも組織がある。それは私たちが、主の宣教命令に応え、キリストの体を建て上げるという目的を遂げるためのものである。教会は常に組織を最適なものにする必要がある。


 教団の機構改革とそれに伴う地域教会の組織の変化は、必然的なものであり、教会が成長する上で欠かすことが出来ない。組織とは、現場に合わせて常に変化するものである。現場の変化とは、社会の変化ではなく、教会における聖霊の働きであり、成長のことである。10名の開拓教会と、100年を経た300人の教会と、組織が同じであるわけがない。


 私たちホノルル教会も、その成長に合わせ、また成長を見越して、組織を常に新たにする必要がある。組織は変化するのが当たり前、という考えだ。


 そこで大切なのは、より良く変わらなければ意味がない、改悪ではいけない。変わることを否定するのではなく、どのように変わるのかを考えることが大切であろう。


関牧師



2009年2月4日

2月8日2009年の週報に掲載

 日本を代表する名優であった俳優の緒形拳さんが亡くなられた。彼の最後の作品となった「風のガーデン」というテレビドラマがある。倉本聡脚本の北海道富良野を舞台にした名作だ。

 緒形拳が演じるのは、終末医療を地域で実践する医者である。その息子は、都会の大学病院で活躍する麻酔医である。この息子は、女ぐせが悪く、そのために彼の妻は自殺をし、二人の子供は祖父になる緒形拳が育てている。
 ある時、その息子は自らが末期がんであることを知る。彼は、自分の人生を振り返りながら、父と子供たちの元に帰っていく。しかし、父には勘当され、子供には自分が死んだことにされている。そんな中で、息子は父の近くまで来るのだが、なかなか父に会う勇気がない。

 おっと、ストーリーは、ここまでにしておこう。脚本の倉本氏は、クリスチャンではないと思うが、内容は聖書の「放蕩息子」そのものである。彼の前作「優しい時間」というドラマも、内容的に全く同じ設定である。彼が一連のドラマを通して訴えているのは「赦し」である。それだけ、現代に生きる人々は「赦し」を求めているのだろう。

 しかしドラマを見る限り、話しがうまく行き過ぎる、という感想は否めない。そんなに人は人を「赦す」ことが出来るのだろうか? 逆に、やはりドラマだからと思われてしまうような感じが残る。聖書の放蕩息子は、まさに無条件で赦される。しかし、この赦しは許しではない。その赦しの根拠は、十字架におけるイエスの身代わりの死という事実がある。罪の裁きがなければ、赦しは成立しない。神の赦しは、十字架の裁きを経た赦しである。だから確かなのだ。

関牧師