先週からスタートした新しいクラスの名前は、始まる寸前の15分前に決まりました。「ガリラヤ聖書クラス」としました。
マタイ28章10節「ガリラヤに行くように伝えなさい。そこでわたしに会えるのです。」と復活の主は語られました。「そこで主に会える」場所として、ガリラヤという名前を付けました。
これは3ヶ月間を一つの区切りとして行っていきます。今回様々な都合で来れない方々は、次回があります。また3名以上が集まればクラスを持てますので、日時などご相談ください。
今回、身体に不調があったことを通して、改めて限界というものを意識しました。体力、時間、能力、それぞれに限界があり、それを知ることによって、優先順位をもうけ、効率よく動くことが出来ることを学びました。
そこで、自分が一番を力を入れるべき事柄は何かを吟味した結果、それは当たり前のことなのですが、御言葉と祈りの奉仕なのだと確認しました。
ガリラヤ聖書クラスも、そのような中で確信が与えられスタートすることになりました。鍵語は「神のことば、人格的関係、聴き従う、本当の弟子」です。すでに、かなりの手ごたえを感じています。一人でも多くの方が、天の父との素晴らしい関係の中に導かれていきますようにと、心から願い、祈ります。
関牧師
以前に人生に「・ピリオッドを打つ」というお話をしました。人生のメリハリといいましょうか、どこかでピリオッドを打って、また新たなスタートを切ることは、とても大切なことです。
6月に教会総会が持たれることから、この月は年度代わりとして、教会の歩みにおいてもピリオッドを打つ、良い機会であろうと思います。
別紙にご案内いたしましたが、今年は、すべての奉仕活動、ミニストリーに一度ピリオッドを打っていただきます。そして、これまでの歩みを振り返り、感謝、反省、展望を新たにしていただき、新しい年度に踏み出そうというものです。
特に、働きの目的は何か? 意外と漠然としていることもあります。「何のために?」それをもう一度再確認しましょう。
エネルギーが有り余り、次から次へとビジョンが生まれるようなミニストリーもあるでしょうし、疲れがたまったり、マンネリ化、惰性になっている所もあるかもしれません。それぞれです。
いずれにしても、一度ピリオッドを打って、また新たなスタートをする時をもちましょう。
すべての働きは、キリストの証人として、宣教、伝道につながるものです。教会は愛を循環させるポンプです。この共通する目的をしっかりと確認して、それぞれが独自の目的を確認しましょう。
関牧師
「もし、あなたがたが、わたしの言葉に留まるなら、あなたがたは本当にわたしの弟子です。」ヨハネ8章31節。
この御言葉に導かれて新しい聖書クラスをスタートします。毎金曜日10AMです。
「あなたはイエス様の弟子ですか? 本当に弟子ですか?」 一人一人がイエス様の弟子になりましょう。どうしたらなれるのですか?
このクラスでは、メッセージはしません。聖書の研究会でもありません。御言葉に聴き従うことを求める会です。それこそが御言葉に留まることであり、イエス様の本当の弟子になることだからです。
語られた御言葉が、実際の生活の中で、どのように実を結んでいくか、イエス様の弟子になる醍醐味を体験しましょう。
クラスでは、課題となる聖書箇所の意味や背景を説明します。自分勝手な解釈にならないように、正しい聖書解釈は大切です。その土台の上に、御言葉に聴き従うことを実践していきます。百聞は一見にしかず、どなたでも是非お集いください。
御言葉は、いのちのパンです。このパンは幸いに食べ過ぎるということはありません。御言葉ではない、私たちの肉なるものは、その心にぜい肉を付けます。私は今身体のダイエットに励んでいますが、信仰のダイエットもいいものです。御言葉のパンをしっかりといただいて、御言葉でお腹を一杯にしていただきましょう。
関牧師
不整脈など、自分には縁のないものと思い込んでいました。四年ほど前に、一度不整脈になったことはあるのですが、それは数時間で終わり、それ以来何もありませんでした。しかし、今回は時間が長く、自分でもこれはまずいと思ってドクターに行った次第です。
皆さんにご心配をお掛けして申し訳ありませんでした。またお祈りを感謝いたします。
原因は分かりすぎるくらい明確で、コレステロール、運動不足、ストレス、疲労です。対策も明確です。適切な食事、適度な運動、ストレスを溜めない、過労を避ける、など。
さっそく食事も考えて取り組みを始めています、特に腹8分目を心がけています。火曜日のオフには、庭の手入れで汗を流しました。
「牧師のストレス」に関する書物を読む中で、ストレスの原因として「実現不可能な要求に応えようとすること」という一文が特に心に留まりました。時間的、体力的、賜物的に要求に応えることが無理なことがあります。出来ないことは出来ないと、自分を制することが大切なことです。決してやり過ぎない。
結局、キリストの体としての教会の成長を妨げているのは、牧師である自分の「やり過ぎ」にあるのだと自戒しています。まず、そこを悔い改めて、教会の主であるイエス様と、愛する兄弟姉妹の存在に、もっと頼らせていただきたいと思っています。
関牧師