2008年1月25日

1月27日週報に掲載

 先週の火曜日には、連盟の活動の一環としてクワキニ病院のデイケア慰問に行ってきた。
一年に一度ホノルル教会に担当が廻ってくるのだ。プログラムは、シャロンフラチームによるフラ、真柴姉による日本の童謡、松田兄によるジェスチャーゲーム、牧師のメッセージという内容であった。
 30人くらいの高齢者の方々と共に過ごした1時間弱のひと時。最初は緊張感もあったが、段々と暖かいものに包まれ始め、お一人お一人の上に、神の愛が注がれているのを感じた。この方々は、どのような人生を歩んで来られたのだろうか。皆さん、あの戦争を体験され、戦後の社会を築いて来られた方々だ。この方々の前に立った時、若輩者が何をお伝えすることが出来るだろうと思った。しかし、目の前に座っているお一人お一人の存在が、どれだけ尊いものであるか、何か心に迫るものがあった。
 心を込めて、導かれるままに語った。普段からメッセージを語っていると、しばしば語っている言葉が聞き手の心の中に入っているという感覚を体験する時がある。まさに今回は、そのように言葉が聴衆の心の中に入っていると感じられた。心と心、魂と魂が触れ合うような感覚だ。それは、聖霊のお働きによる。
 プログラムの最後に、お一人お一人と共に、握手をさせていただいた。ひときわ笑顔の素敵なおばあちゃんがいたが、その方はクリスチャンだった。やっぱり! と嬉しかった。握手をするごとに、こちらの方が満たされていく。何とも素敵なひと時であった。
来年は、是非、皆さんもご一緒しましょう。

関牧師

2008年1月18日

1月20日週報に掲載

 先週の合同クラスでは、私と妻のために、皆さんからたくさんの励ましの言葉をいただき、本当に感謝で一杯だった。出席できなかった方のために説明すると、皆で輪になって座り、一人一人が牧師夫妻のために、励ましの言葉を語ってくださったのだ。
 このような企画は聞いたことがない。お別れパーティーならあるだろうが、普段ではまずないだろう。声を大にして、私たちの教会は、牧師夫妻にこんな素晴らしい事をしてくださるのだ!と叫びたい気持ちだ。これだけ励ましていただいたら、力が湧いて来ないはずがない。同時に、牧師夫妻の与える影響の大きさも痛感し、やる気倍増の中にも、牧師職の務めに対する厳粛さも感じている。
 あるカナダ人の牧師の話しである。彼は日本が好きで千ピースの富士山のパズルに挑戦したそうだ。999ピースまで完成した所で、あと1ピースが足りない事に気がついた。紛失したのか不良品なのか、いずれにしても1ピースが足りない。しかし、せっかく作ったのだからと思って、1ピース足りないまま額に入れて飾っておいた。ある友人が彼の家を訪ねて来た時のこと、そのパズルを見て第一声、「おかしい!1ピース足りない!」と言ったそうだ。
 私たちは、当然のように、999ピース有ることよりも、1ピースが無い、ということに目が向くようだ。私もれいも、1ピースどころではない、何ピースも足りない。それでも、そのままの自分を見せて行こうと思っている。なぜなら皆さんは、無いものよりも、有るものに目を留めてくださるからだ。もし、ピースが足りなければ、それは他の方が埋めてくださるのだ。これからもお互いに有るピースを持ち寄って、素晴らしいホノルル教会のパズルを完成させよう。

関牧師


1月13日週報に掲載

 もう随分昔になるだろうか、「積み木崩し」という言葉が流行した。ある俳優の子供が非行に走ったのだが、その俳優である父親の書いた本のタイトル名である。テレビのドラマや映画にもなった。「積み木崩し」というのは、積んでも積んでも崩れてしまう、自らの体験を表現した言葉である。
 積み木というのは、ただ置くだけである。だから少しでも揺れたら崩れてしまう。そこには「組み合わせ」というものがないからだ。教会も「組み合わされる」ことが必要だ。確かに私たちは、ただそこに存在しているだけで最高の価値があり、神に愛されている者だ。しかし、キリストの体として主の働きをするためには、ただ置かれているだけではなく、組み合わされることが必要となる。
 教会というのは、常に「戦時下」にある。「もうこれで終わった、大丈夫だ」ということはない。サタンは常に教会を攻めてくる。もちろん私たちは、すでに勝利しているし、その戦いの直中においても変わらない平安をいただいている。
 消極面から言えば、どんな試み、サタンの攻撃からも守られるために「組み合わされる」必要がある。積極面から言えば、宣教、つまり主イエスの働きを行なうために、「組み合わされる」必要がある。 私たちが「組み合われる」ためには、まず「キリストにある自分」として主イエスに組み合わされることである。次に組み合わされるためには凹凸が必要である。直線的な積み木ではない。互いの凹凸がぶつかり合うのではなく、組み合わされるために用いられるのだ。私たちには凹凸がある。しかし、だからこそ組み合わされることが出来るのだ。


関牧師



2008年1月6日

1月6日週報に掲載

2008年度 年間聖句「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのである。」エペソ2章21節

 毎年、年の始めに年間聖句を掲げる。これは教会の一つの習慣である。その御言葉は、教会の過去、将来を想いながら、現在私たちがどのように導かれているかを明らかにする。ホノルル教会の約80年に及ぶ歩みに思いを馳せ、また主の来られる日まで、この地上に存在し続けるであろう教会の将来像に思いを馳せる。この過去と未来を結び今の時、私たちは上記の御言葉に導かれていきたいと願う。
 さて、「成長」という言葉が中心にあるのだが、大切なのは、何をもって成長と言えるのかということである。例えば、身長が伸びれば成長したと見える。より難しい問題を解くことが出来れば成長したと見える。それらは数字に現れるので分かりやすい。しかし、教会、クリスチャンの成長とは、そのように数字だけで判断できるものではない。それでは、何で判断できるのであろうか。その基準をどこに設けるかで、信仰生活は大きく左右されてくるだろう。なぜなら、それが私たちの人生の目的にもなるからである。
 ここでは一つだけ、もし私たちが健全に成長しているのであれば、必ず結果として起こることがある。それは「聖なる宮となる」という出来事、つまりイエスが、ここに住んで居られるという事実である。それは、全ての始まりにも、終わりにも、「イエスは生きておられる」という事が、明らかになることである。教会にも、クリスチャン一人一人にも、このことが明確になる。これが成長の印の一つである。

関 牧師