2008年1月18日

1月13日週報に掲載

 もう随分昔になるだろうか、「積み木崩し」という言葉が流行した。ある俳優の子供が非行に走ったのだが、その俳優である父親の書いた本のタイトル名である。テレビのドラマや映画にもなった。「積み木崩し」というのは、積んでも積んでも崩れてしまう、自らの体験を表現した言葉である。
 積み木というのは、ただ置くだけである。だから少しでも揺れたら崩れてしまう。そこには「組み合わせ」というものがないからだ。教会も「組み合わされる」ことが必要だ。確かに私たちは、ただそこに存在しているだけで最高の価値があり、神に愛されている者だ。しかし、キリストの体として主の働きをするためには、ただ置かれているだけではなく、組み合わされることが必要となる。
 教会というのは、常に「戦時下」にある。「もうこれで終わった、大丈夫だ」ということはない。サタンは常に教会を攻めてくる。もちろん私たちは、すでに勝利しているし、その戦いの直中においても変わらない平安をいただいている。
 消極面から言えば、どんな試み、サタンの攻撃からも守られるために「組み合わされる」必要がある。積極面から言えば、宣教、つまり主イエスの働きを行なうために、「組み合わされる」必要がある。 私たちが「組み合われる」ためには、まず「キリストにある自分」として主イエスに組み合わされることである。次に組み合わされるためには凹凸が必要である。直線的な積み木ではない。互いの凹凸がぶつかり合うのではなく、組み合わされるために用いられるのだ。私たちには凹凸がある。しかし、だからこそ組み合わされることが出来るのだ。


関牧師



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