2010年4月29日

5月2日2010年の週報に掲載

先日のこと、ひょんなことから私の小学、中学、高校の成績表が子供たちに発見されてしまいました。おそるおそる自分でも見てみると、記憶している事と違ったことがあったり、興味深い発見があったり、色々考えさせられました。

高校時代の成績や遅刻、欠席の惨状は、とても子供に見せられるものではありません。2年生の成績はクラス46人中46番目と書いてありました。特に英語が一番ひどかったものです。勉強をした記憶がないのですから当然です。これを子供たちは、どのように受け留めたのでしょうか…?

当時は、新聞販売店に住み込みで働きながら学校に行っていました。朝3時に起きて朝刊を、夕方には夕刊を配っていました。その他は遊びに夢中です。家にお金がなかったわけではなく、ただ家を出たいがゆえに、自分で店に飛び込んでいきました。ですから根性と気力はあったのですが、その力の入れ所がずれていたわけで、学校ではひたすら寝ていました。

それが今は牧師です。このギャップに今さらながら驚きます。でも、子供の自分を振り返って、なんだかその子供がとても愛おしく思いました。抱きしめてあげたいような…、後悔はなく、むしろ子供の自分に感謝したい気持ちです。良く頑張ってきたなと。

関牧師




2010年4月22日

4月25日2010年の週報に掲載

今日は娘の喜歌と息子の光輝の洗礼式です。15歳と10歳になります。私は20歳の12月に洗礼を受けました。それから25年が経ち、自分の子供たちが洗礼を受けるという、私と妻の人生にとって、最も大きな祝福です。


牧師の家庭ということで、出来るだけ子供に信仰的なプレッシャーをかけないように、自分の意志で選べるようにと配慮してきたつもりですが、子供にとっては、それでもプレッシャーがなかったということはないでしょう。牧師の子供として、教会のありのままを見てきて、また家庭における両親の姿も見てきて、それでも主を信じたということは、これは福音そのものの力、主の恵み以外の何物でもありません。

1たす1が2になるのが当然ですが、信仰と恵みの世界には、計算を超えた事が起こるものです。1たす1が100にも1000にもなるのです。

洗礼はゴールではなく、始まりです。イエス様の弟子としての歩みの始まりです。弟子とは、師の近くにいて、師から直接に学ぶ人のことです。「あなたはイエスの弟子ですか?」と聴かれて「はい」と答えたいですね。私たちの師であるイエス様は、命をかけて弟子を守り、導き、教えてくださいます。イエス様の弟子であることを誇り、喜びましょう。                   

関牧師


2010年4月15日

4月18日2010年の週報に掲載

受難週、グッドフライデー、復活祭と続き、聖書の流れで言えば、今度は宣教となります。そして必然的に、宣教の原動力としての聖霊の満たしへと流れは向かっていきます。 今年のペンテコステ(聖霊降臨記念日)は、5月23日になります。その後には、ハワイ聖会が控えています。まさに恵みのオンパレードです。

ここで大切にしたいのは、確かな個人的な体験です。これらのイベントは、機会を提供するもので、イベント自体に何か特別な力があるわけではありません。機会をどのように活かすかは自分にかかっています。しかし、もし「求め」があるなら、思い切って求めてみましょう。何を? 確かな神体験です。それは聖霊体験、御言葉体験と呼ばれますが、要は、聖書の言葉が、文字ではなく、語りかけとして受け留められるという体験であり、その神の言葉によって確かに変えられるという体験です。それが天の父なる神との人格的関係と呼ばれるものになります。

「求めなさい、そうすれば与えられる」とあります。教会全体に、聖なる「飢え渇き」が起こり、それぞれが切なる思いをもって、神を求めることが出来ますように。そして、天の父なる神との、揺るぎない、確かな人格的関係を持つことが出来ますように。機会を活かして用いましょう。

関牧師



2010年4月8日

4月11日2010年の週報に掲載

教会の前の道路で、舗装の張替え工事をしています。 工事中は不便ですが、なにせ凸凹の道だったので、仕上がりが楽しみです。 最近は週に一度は、フィットネスクラブで汗を流すようにしています。 ハツカネズミのように、ひたすら同じ場所で足を動かしていますが、距離もだいぶ伸びてきて、身体が締まってきたようです、、、と思っています。

45歳というのは、特に男性の人生にとって最も危機的な時期だそうです。 思春期やリタイヤの後にもそれぞれ人生の危機がありますが、この時期、明らかな身体の変化というものに直面するからです。 不惑の年と言われる40代でありながら、一方で人生の折り返しを過ぎたことを実感します。

視力の良い人は、老眼に早くなると聞いたことがありますが。私も、目だけは良かったのです。 しかし、最近明らかに、近くの文字がかすんできました。先日、誰かの忘れ物であろう老眼鏡が礼拝堂にあったので、それを思い切ってかけてみました。 すると良く見えるのです。ショックでした。

しかし、この自然の成り行きは、受け入れるしかありません。 同時に、自分に出来る事、出来ない事、人生の仕分けも考えていく良い機会となっています。

関 牧師



2010年4月7日

4月4日2010年の週報に掲載

今日は復活祭! 毎年迎えるこの日ですが、今年の復活祭は自分にとってどのような意味がありますか? 

永遠の命とは、死後に与えられるものではなくて、イエスを信じた、その時に与えられるものです。私たちは、すでに確かな希望を持っているのです。

この一年の間に天に召されたホノルル教会員の方々
前田梅子姉 10/24  遠田綾子姉 2/7 米村エドナ姉 3/12
浜本ゴードン兄 3/14 

他にも、家族、親族、友人が召された方がおられます。

それぞれの家族、関係者に主の確かな希望と慰めがありますように。私も10月に父を天に送りましたが、今も希望が私を支えます。

この信仰の先輩方の祈りと奉仕によってホノルル教会は支えられてきました。私たちも信仰の遺産を受け継ぎ、 同じ天の御国を目指し一心に歩んでまいりましょう。

教会がこの地上にある限り、私たちは信仰のバトンを渡し続けます。そのようにして、人は変わり、時代も変わり、建物が変わっても、神の教会はあり続けるのです。

関牧師