牧師の家庭ということで、出来るだけ子供に信仰的なプレッシャーをかけないように、自分の意志で選べるようにと配慮してきたつもりですが、子供にとっては、それでもプレッシャーがなかったということはないでしょう。牧師の子供として、教会のありのままを見てきて、また家庭における両親の姿も見てきて、それでも主を信じたということは、これは福音そのものの力、主の恵み以外の何物でもありません。
1たす1が2になるのが当然ですが、信仰と恵みの世界には、計算を超えた事が起こるものです。1たす1が100にも1000にもなるのです。
洗礼はゴールではなく、始まりです。イエス様の弟子としての歩みの始まりです。弟子とは、師の近くにいて、師から直接に学ぶ人のことです。「あなたはイエスの弟子ですか?」と聴かれて「はい」と答えたいですね。私たちの師であるイエス様は、命をかけて弟子を守り、導き、教えてくださいます。イエス様の弟子であることを誇り、喜びましょう。
関牧師
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