2008年9月26日

9月28日週報に掲載

「当真のお父さん、ありがとう!」 
私たちは親しみを込めて当真嗣栄兄のことを「当真のお父さん」と呼ばせていただいる。当真のお父さんは、9月22日6:15PM 主の御許に召された。92歳であった。昨日は葬儀が行われたが、まさに勝利の凱旋にふさわしく、神の栄光に満ちた時であった。紀代子夫人のリクエストで聖歌516番を声高らかに賛美した。「我らは常に勝利、勝利、我らは常に勝利、世に勝ちませる主ともにませば、我らは常に勝利!」当真のお父さんは、死に勝利して天国へ凱旋したのである。

 当真のお父さんは、ホノルル教会の文芸部をリードしてくださり、俳句、短歌を指導してくださった。昨年の観月会では、私も生まれて初めて和歌を詠ませていただき、お父さんの指導にあずかった。お宅に訪問させていただく時には、お腹をすかせて行った。なぜなら当真のお母さんのご馳走にあずかるからである。お父さんは、いつも美味しそうに夫人の料理を食べていた。だから92歳にして大変に恰幅の良い体であった。いつも夫婦で朝早く祈祷会をしておられ、配布されている祈祷課題に沿って祈っていてくださった。真に忠実な祈りの僕であった。お父さんはお相撲が大好きで、読み終わった相撲雑誌をいつも廻してくださった。また大変な研究家で、沖縄の歴史や戦争の歴史などに造詣が深く、私も貴重な歴史の本を貸していただいことがある。おっとまだ、返していない本が一冊あった。思い出は尽きない、しかしまた会える。今度は目を天国に向けて、希望に生きていこう。希望の向こうでお父さんが微笑んでいるのが見える。

関 牧師



当真嗣栄兄の作品
1985年、俳句
  「聖堂に賛美あふれて秋涼し」
1993年、俳句
  「主にすべて委ねて安し感謝祭」


2001年、短歌
  「草は枯れ花は萎みて散りゆくも主のみ教えは永遠に変わらじ」




2008年9月18日

9月21日週報に掲載

 とうとう牧師館の前の道路がきれに舗装された。穴ぼこだらけで、がたがただった道が全部舗装された。見違えるようなスムーズさで、滑るように車が走ってくれる。嬉しい! この日を待ち望んでいた私にとって本当に嬉れしい!

 ハワイの道路行政には一言あるが、この快適さに免じてとやかく言うまい。日本の道路工事現場で働いていた時、ここまでして道路を作るのかと、その技術に驚いたものである。まず、地盤を改良するために、特別な薬品を土にいれて地盤改良する。そして砂や砕石などを何層にも重ねて、何度もローラーで押し固めていく、さらにアスファルトを2層に、場所によっては3層にして固めていく。アスファルトの温度も決まっていて、もし温度が規定より下がっていたら使いものにならない。しかも道路を良く見ると中心線が高くなっていて、水がサイドに流れるようになっている。出来上がった道路は、一見簡単そうに見えるが、見えない所で実に手の込んだ仕事をしている。

 ハワイの道路がそこまで手をかけているかは分からないが、暑い中、綺麗に道路を作ってくれた作業員さんたちに感謝である。道路も建物もそうだが、目に見えない基礎的な部分にどれだけ手をかけているかが大切だ。特に地震や大雨が来た時に、その部分の違いが露呈することになる。

 教会は、主の前に道を備えるものだ。人々が主のもとに行けるように道を造る、神の国の道路工事人である。つまずきのない、真っ直ぐな道を造って、もっと多くの人をお迎えしよう。

関牧師




2008年9月10日

9月14日週報に掲載

 先週は、ショーン尾谷師を講師に「ミニチャーチセミナー」が持たれた。ショーン師はハワイ出身の日系4世で、現在東京の町田で宣教師として奉仕している。日本宣教17年目を迎えたそうだ。
 ホノルル教会でミニチャーチがスタートしてから、ちょうど一年が経つ。去年の同じ時期にショーン師が来られたのを覚えているだろうか。来年もまた是非お願いしたいと思う。
 この1年間で礼拝出席者は増え続け礼拝堂の椅子も一杯になりつつある。洗礼を受けられる方も、続けて与えられている。やはり、閑散とした礼拝よりも、多くの方々が集まる礼拝の方が活気が出てくる。人数が増えること、特に洗礼者が与えられることは大きな喜びである。教会が規模的に大きくなることで、より大きな影響力をこの社会に持つことが出来るし、様々なミニストりーを展開する可能性が出てくる。
 一方で常に言われることだが、教会は量ではなく、質であると。量的増加が、必ずしも教会の健全さの証明にはならない。ここに一種の緊張関係がある。質が良ければ量も増えるはずだ。しかし量が増えると質が変わってしまう。私たちが目指したいのは、質が良いから量が増える。そして量が増えても質が変わらない、ということだ。
 人数が増えたと言っても、まだハワイ在住の9割以上の日本語族の方々は教会に来ていない。まだまだ収穫は多いのだ。福音が語られているなら、人々はこれからも集まるだろう。しかし質が変わってはならない。ここににミニチャーチの存在意義がある。ミニチャーチに参加される方が一人でも増えることを願っている。 

関牧師


2008年9月3日

9月7日週報に掲載

 今日の礼拝では聖餐式が持たれます。プロテスタント教会には儀式が二つあります。それは聖餐式と洗礼式です。16世紀ドイツにおいて、信仰が儀式化し堕落していた教会に対して、宗教改革が行われました。その時に、聖書に根拠を見出せない儀式を極力排除しました。それは当時の儀式化、形骸化への反動という歴史的な必然がありました。しかし、そのような状況の中でさえも、この二つの儀式だけは、排除することは出来なかったのです。なぜなら聖書に、これらを行うことが明記されているからです。つまり、聖餐式とは、それだけ意味のある儀式であるということです。
 私たちの教会では、毎月の第一聖日に聖餐式を持っています。聖餐式には幾つかの意味があります。

  1. 公の信仰告白 聖餐にあずかることは、主イエスに対する信仰の告白です。しかも会衆が見ているわけですから公に公表することになります。つまり聖餐にあずかることは「私はクリスチャンです」というのと同じことです。
  2. 契約の更新 私たちは聖餐にあずかる毎に、主との新しい契約を結ぶのです。それは「私は、今も主を信じています」という信仰の継続を告白することになります。
  3. 教会の証明 私たちは聖餐にあずかることによって、ここに主イエスの教会があることを表します。

 聖餐式に用意されているパンと杯は、主イエスの十字架の救いを象徴しています。主の十字架の御前で、自らがどのように立つか、ここに全てがかかっています。

関牧師