2009年9月5日

9月6日2009年の週報に掲載

 礼拝で語られるメッセージは、語っている自分自身も語られていることに気づかされます。主の祈りを通して、私たちは神に「愛されている子供」なのだ、ということを学んできました。

 そんな中で、福島の父に会いに行ったのですが、私にとって「愛されている自分」を発見する旅でもありました。父は私の訪問をとても喜んでくれました。親子だから当たり前と言えばそれまでですが、私にとっては大きな出来事でした。父にとって自分の存在は、どれほどのものなのか? それを疑わせる出来事や第三者から聞いた言葉が事実あるからです。

 父と二人きりの時、父が突然手を伸ばして私の頭をなでました。ちょっと驚きました。その時は、それだけでした。しかし、帰りの新幹線の中で、その出来事の意味が心に迫ってきました。「私は、この父に愛されているんだ」と涙が出てきました。記憶の向うに、小さい頃父に頭をなでられた時のことが思い出されてきました。私は物事を美化するのは好きではありません。確かに父には足りない所もあったでしょう。しかし、父が私の頭をその手でなでた時、私の心に言葉では表現できない暖かいものがあふれました。

 天の父に愛されている子供であることが分かって、次に肉の父にも愛されている自分を発見することが出来ました。神様からのプレゼントです。イスラエルがその息子たちの頭に手を置いて祝福した記事が創世記にあります。もしかしたら、父は私を祝福してくれたのかもしれません。自分は、愛され、祝福されている存在であることを受け留めることが出来ました。キリストの癒しは拡がります。

関牧師


0 件のコメント: