2011年3月25日

3月27日2011年の週報に掲載

震災から15日が過ぎ、復興への歩みも始まっています。会報に3つの復興について書きました。物質的な復興、心の復興、霊的な復興。いずれの領域も大切です。それぞれに与えられた賜物、能力を活かして用いていきましょう。

先週、水曜日に、このような災害に直面する中で受けるトラウマについてのサポートグループの集まりを持ちました。ハワイにおいても映像を通してトラウマを受けてしまうことがあります。

TVやインターネットのニュースに入り込み過ぎないようにしましょう。特に映像は、想像以上に心を引き付けます。
今自分はハワイという土地にいることを確認しましょう。また日本からハワイに避難されて来る方がこれから増えて来るでしょう。

私たちの想像を超えた、恐怖、不安、痛みを経験されている方もいます。そのような方々にとって教会が「避けどころ」となりますように。「ほっと」一息つけるような場所でありますように。

迎える私たちは、その方々のありのままを受け留める者でありたいと思います。 この震災を通して、教会は目が覚まされています。
教会の運営、維持において大切なことは多くあります。しかし、教会が最も力を注ぐべきところ、その使命は何のか? もっとシンプルになりたい、そんな思いでいます。

関牧師


2011年3月17日

3月20日2011年の週報に掲載

ある方から、友人の未信者の方から「日本のために祈ってください」と言われたそうです。「祈ってください」この言葉は、教会の中では常に耳にする言葉です。

しかし、今回この言葉の重さを一際感じました。
おそらく友人の方は、政府に、企業に、自衛隊に「祈ってください」とは言わないのではないか、教会だから「祈ってください」と言うのだと思うのです。

教会に与えられている「祈り」という務めの重さを今更ながら痛感するのです。まさに、教会は今この時、祈るために存在しているのです。今全世界が、そして日本が、「祈ってほしい」と叫んでいます。

「祈り」は、私たちに与えられている特権です、力です。今こそ、心を合わせて神に祈りましょう。 祈りのしおりが配布されています。どうぞご利用ください。

一人一人の個人の祈りの中で、自然に集まった小さなグループで、また週日の定期祈祷会にも、この機会に是非ご参加ください。集まって祈ることにも大きな意味があります。

「主は、人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。」                        イザヤ59:16

今こそ、教会が「とりなし手」として、神の御前で祈り、また人々に向かって福音を宣言する時です。   

関牧師


2011年3月11日

3月13日2011年の週報に掲載

ある方が、私の一番下の娘に「お父さん変わった?」と尋ねたところ、娘は一言「髪型が変わった」と答えたそうです。

劇的に変わると分かりやすのですが、いまだに工事中の身、変わり続けることが大切であろうと思います。大切なのは、「自分を見失わないこと」です。理想化された自分、あるいは卑下された自分、高すぎても、低すぎてもいけない。今の自分の本当の姿をしっかりと見つめることです。

それが出来るとするなら、どんな自分であっても決して裁かれない、受け入れられるという保障が必要です。天の父は、放蕩息子のような私たちのために、御子を十字架につけるほどに愛してくだいました。この天の父の愛の中で、私たちは本当の自分を取り戻すことが出来るのです。そして、本当の自分が、神の恵みによって取り扱われ、変えられていく、それが実として残っていくのです。

そして、その天の父の愛を体感させてくれるのが、真実な交わりです。「父の学校」の間中、どれだけのハグをしたでしょうか。もちろん男同士です。自分の弱さ、失敗の告白の中でもハグされることで、受け入れられている自分を確認しました。

私たちの成長には、自分が自分でいられる愛と真実の交わりを持つこと。そして、神に変えられ続けることを求める心を持つこと。この両方が必要です。

関牧師

2011年3月3日

3月6日2011年の週報に掲載

三日間に亘って開催されていた「父の学校」も、今日が最終日です。 今日のテーマは「父親と家庭」。今日の午後に受講に向かうわけですが、前もって福澤師が「心に光を」放送で語ってくださった「男性は、HOUSEを建てることは出来るが、HOMEを建てることが出来ていない」という一言が心に留まります。

ある方の妻が家を出ました。 夫は当惑し私の所に来て訴えました。 「私は、妻のために家を建て、年に一度は家族旅行も計画し、酒もタバコもやらず真面目に働き、家族を養ってきた。妻は何が不満なのか?!」

その前に、妻の方は顔に青あざを作って尋ねて来ていました。 息子の家庭内暴力にあっていたのです。 しかし、夫は「気づかなかった」と言いました。

この夫を責めているのではありません。 本人は、分からないのです。 HOUSEを作ることは分かっても、HOMEを作ることを知らないのです。 なぜなら自分自身もHOMEを経験したことがないからです。

私自身もどこまで分かっているのか? 学びに行ってきます。
教会の牧師としても考えさせられます。 教会の建物を建てることと、キリストの体を建てること、その違いを分かっているだろうか。
そして私は本当にキリストの体を建てているだろうか? 今一度、天の父の御前で深く考えさせられます。

関牧師