2012年7月27日

7月29日2012年の週報に掲載

「なぜ人を殺してはならないのか?」 このような質問が小学校の生徒から先生に対して出されたそうです。この質問が出ること自体に驚きが起こりました。この質問に、答えなど必要なのだろうか? これは人間の良心に宿っている、本能的な、無意識的な「内なる掟」ではないのだろうか?

多くの大人が、この質問に不安を感じました。なぜなら、この質問には、人を殺したいと思っている状態があり、それで「殺してはいけないとは思えない」という心理を感じるからです。

ニヒリズムを生み出した哲学者ニーチェは、あの有名な一言「神は死んだ」と言いました。ニーチェは、上記の質問に対して答えています。それは、「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ殺すべきだ」と言うのです。そして、ニーチェの研究家である、ある大学教授は、これこそ最も誠実な答えであり、上記の質問に誠実に対するなら、このような答えしかないというのです。

「これはひどい!」と一蹴しないで考えて見ると、確かに「神がいない」という前提で考えるなら、人が人を殺してはならないという理由は見つからないのです。

上記の質問に対して「殺してはならない」と確かな理由をもって答えることが出来るとするなら、「神はいる」という前提が絶対に必要なのです。先の生徒の質問に先生と周りの大人たちが、どのように答えたのか分かりませんが、命の源である創造主なる神の存在があって、初めて「殺してはならない」の理由が見出されるのです。

優劣と淘汰という進化論的価値観、そこから生じる、命の軽視が人々の心を蝕んでいます。ある教育学者は、いじめに関して「これは、教育の失敗ではなく、教育の成果だ」と述べていました。神なき世界観、価値観に基づく教育の必然的結果であると。「神はいる」ここから初めて、命の意味、尊さが分かるのです。

関 牧師

7月22日2012年の週報に掲載

フランスの女性詩人 マリー・ノエルの詩をご紹介します。タイトルは『疲れきった者の祈り』です。
    わが神よ、私はあなたを愛しません。
    もう愛そうなどと思いません。あなたが嫌になりました。
    もしかすると、あなたを信じてなどいないのです。
    でも、通りすがりに、私に目をかけてください。
    もし、私があなたを信じるほうがよいのなら、私に信仰をください。
    もし、私があなたを愛するほうが大事であるのなら、私に愛をください。
    私には、そのようなものが何もありませんし、そのために何かをなすこともできずにいます。
    私が持っているものを、あなたに差し上げます。
    私の弱さ、私の痛み、また、私を悩ますこのような気づかい、そして、あなたがご覧になるもろもろの事がら・・・。

    私の状態のみじめさ----それがすべてです----、
    そして、私の希望を。

関 牧師

2012年7月12日

7月15日2012年の週報に掲載

「十戒」の連続メッセージをしています。今日は、その第4戒の「安息日」についてです。先の3つの戒めは、神を愛することについて、そしてこの後の6つの戒めは、人を愛することについて記されています。その両者を結ぶようにして、この第4戒があるのですが、その内容は「休みなさい、休む日を設けなさい」ということなのです。

一週間という7日間のうち、一日を「聖別」して、休む日にしなさいというのです。休日を「Holyday」と言いますが、まさに聖なる日(Holy DAY)なのです。
興味深いですね。神を愛することと、人を愛すること、この「愛する」という生き方の中心に、「休み」があるのです。

私たちは、もう一度、休むことの大切さを認識したいと思います。
何のために休むのか? 休みの中で、何をするのか?
 身体的な休み、心の休み、霊の休みとあると思いますが、全人的に休むということは、どのような事か? 仕事は休みで、時間もあるけれでも、頭の中はまったく休んでいない時もありますね。自分の全存在が休むということは、どうしたら出来るのでしょうか?

 日本では、仕事中毒とは、過労死などという言葉があるくらいですが、ハワイに住む私たちは、どうなのでしょうか?
 などなど色々考えさせられます。「休む」ことを、神が戒めの真中においたという事の意味の深さを今一度考えてみましょう。

 主イエスの時代には、この安息日をどう扱うかが大きなポイントでした。「安息日のために人がいるのではなく、人のために安息日があるのです」と語られました。
あなたは「休んでいますか?」

関牧師

2012年7月6日

7月8日2012年の週報に掲載

LAから土曜日の夜にホノルルに戻り、洗礼式のために朝5時頃、用があったので教会に立ち寄りました。ドアを開けて教会の中に入った瞬間、なんとも言えない安心感に包まれました。会堂の匂い、雰囲気にホッとしました。ここには、確かに主がおられると思いました。

教会とは、この世のいかなる集団とも違います。似ている面はあるにしても、教会は教会です。教会は、キリストをこの世に証しするために存在しています。それは宣教であり、伝道です。また同時に、教会が教会として存在し続けるために必要なものは何でしょうか?

教会の中心とは何か? ジョン・バニエという司祭は、それは「赦し」だと言います。彼はラルシュ共同体という知的障害者の方々との共同体を世界各地に形成しています。共同体とは、生活を共にする場です。教会の究極的な形とは、生活を共にすることでしょう。

バニエは、共同体を形成する中での体験を元に多くの宝言を語るのです。多くの人々が、共同体に自らの居場所と、存在目的を探して参加してくる。しかし、そのような理想郷は共同体にはない、というのです。あるのは、隣人を愛することの出来ない自らの弱さと貧しさであるというのです。しかし、その弱さ、貧しさの中で、人々が十字架のイエスを仰ぎ見るとき、初めて共同体は成立し、継続されるのです。そこには「赦し」があるからです。共同体にある一人一人は、十字架のもとで「赦し合う」ことによってのみ結ばれるのです。

ここが、教会が教会であることの徴でしょう。それぞれの弱さ、貧しさ、罪深さが、見過ごしにされるのでも、放置されるのでもない。また断罪されるのでも、切捨てられるのでもない。ただ主の十字架のもとで、共にイエスを仰ぎみるのです。もし、教会の中で、この世と同じような人間同士のトラブルが起こるとするなら、それが許されている理由はただ一つです。それは、自らが主の十字架のもとに行くため、これがただ一つの理由です。そして、これが教会が他の集団とは決定的に違う点なのです。教会とは、この点において強い教会となりたいと心から願わされます。

関牧師

2012年7月2日

7月1日2012年の週報に掲載

ハワイ聖会も恵みのうちに終了し、またLAにおける修養会の参加を終えて、無事にハワイに戻りましたと、出かける前から書いています。

 ハワイ聖会において、横山幹雄先生を通して語られる神の愛のメッセージは本当に心に染み入るようでした。また先生ご自身の人柄と言いますか、その存在から溢れるような喜びが私たちにも伝わってきました。3回目の聖会では、それぞれが神への献身を新たにしました。ここからハワイの宣教がさらに力強く始まっていくのだと信じます。聖会のCD、DVDがありますので、どうぞお求めください。

 今朝は、アラモアナビーチで、喜びの洗礼式がありました。天にも地にも喜びが溢れているのを感じます。ハレルヤ! 洗礼を受けられたお一人お一人の、新しい人生の祝福を祈ります。私もイエス様を信じて、洗礼を受けたという方は、いつでも牧師に声をかけてください。

 また今朝は、中川祐真兄の証しがあります。彼はこのホノルル教会でクリスチャンとなり、神の召しを確信して、この4月より東京聖書学院という神学校に入学する予定です。現在学んでいる吉田文人修養生は、この三月に卒業ですから、ちょうど入れ替わりになります。

 ホノルル教会から、このような神の働き人が起こされることは、本当に嬉しいことです。日本では牧師不足が大きな問題ですが、神に全存在と生涯を捧げて仕えていく、そんな働き人が求められています。人それぞれ、働きは違いますが、共に献身の道を歩みましょう。関師