2012年9月28日
2012年9月27日
9月30日2012年の週報に掲載
歴史研究というのは、ここまで緻密な作業なのかと初めて知ることはばかりで多くを学びました。「そのようです」とか「と思われます」といった表現は、歴史の資料にはならないのです。それが事実かどうかの裏づけがあって始めて資料となります。幻燈隊がハワイに来たらしい、ではなく、何年何月何日に、どこで、誰が、何をしたか、それらの記憶を丹念に調べ、膨大な資料の中から、一行の記述を探すのです。まさに宝探しのようでした。
ハリス教会の資料室において、当時の役員会の議事録がちゃんと残っているのですね。そこに「岡山孤児院から幻燈隊が来る」という記述があった時には、まさに宝物を発見したようでした。
私たちは、常に多くの情報に取り囲まれていますが、その中で、「確かなこと」はどれだけあるだろうか? と考えさせられました。~と思う、~のようだ。という表現が多いことに気づきました。数ある情報の中で、何が真実なのか、しっかりと見極めていくことが大切だと思いました。同時にホノルル教会の歴史も、しっかりと残していくことは、大切な責任なのだと考えさせられました。
2012年9月20日
9月23日2012年の週報に掲載
共に気づいたことを分かち合う中で、新しい発見がたくさんある。人それぞれの見方によって、イエス様の姿がこうも違うのかと驚く。そして自分が見ていると思っているイエス様の姿が、実はほんの一部にしか過ぎないのだと知る。それが失望ではなく、喜びとして感じられる。イエス様は、なんと素晴らしいお方なのかと、新しいイエス様の姿に出会うたびに、感動が増して来る。
例えば、色々な所で、色々な人が私のことを説明することがあある。「関さんてどんな人?」と聞かれたら、10人が同じ答えをするとは思えない。その答えは、その人と私との関係のあり方がそのまま答えになるだろう。単純な話、仲の良い人なら、「いい人だよ」となり、逆ならば「ちょっと困った人」となるかもしれない。
あなたが見ているイエス様は、本当にイエス様だろうか? 実は自分の願望が作り出した理想の「神」なんてことはないだろうか? 聖書を読むこと、祈ること、御心を行うこと、他者と御言葉を分かち合うこと、これらを通して、私たちはイエス様の実像に迫ることが出来る。イエス様をもっと知りたい。そして体験したい。イエス様が生きて働かれる世界、それが自分のものになるなら、こんな幸せな事はない。
2012年9月14日
9月16日2012年の週報に掲載
ホノルル教会では、敬労感謝の対象者は80歳以上です。ハードルが高いです。でも80歳を過ぎていても、こちらが「老」という言葉を使うのをためらうくらいに元気な方も大勢います。敬労という言葉なら使いやすいです。
80歳以上の方は、このアメリカにおいては特別な存在でもあります。80歳以上ということは、戦後67年の現在、戦後のアメリカに移民し、戦争によって傷んだ日米関係のただ中で、日系人の信頼の回復のために、まさに労してくださった方々です。
この方々の勤勉、正直、誠実、礼儀、忠節といった美徳が、戦後の日系人に対する信頼を回復していったということです。特に、このハワイにおける日系人の立場というものは特別です。米本土に行くならば、そのことが良く分かります。戦前、戦後のハワイの日系人たちが、いかに素晴らしい「日本人」であり、同時に「アメリカ人」であったことでしょうか。
しかし、現在の日本人は、その信頼を増すよりは、むしろ減じている面が多いのではないかと危惧したりもします。私たちは、人生の先輩方が築いてきた、このような社会的信頼という遺産を感謝し、大切にし、引き継いでいきたいと思います。
私たちは、信仰の先輩、人生の先輩であるお一人お一人に、敬労の心をもって、感謝を捧げたいと思います。
2012年9月6日
9月9日2012年の週報に掲載
この箇所は、「山上の教え」と言われ、イエス様が小高い丘の上に座って語られた教えです。ここでイエス様は8つの幸いを語っています。最初の幸いは「心の貧しい人は幸いです」という言葉です。
誤解を招きやすい表現でもありますね。「心の貧しい」とは、どのような意味でしょうか? しばらくの間、この「山上の教え」から、「幸せ」について学んでいきましょう。
幸福感というものは、とても主観的なものです。その本人が感じるものです。周りから見て、どんなに不幸に見えても、本人は「幸福」を感じていることもあります。逆もしかりです。ということは、人間とはどんな状況、環境の中においても「幸福」を感じることの出来るものなのです。
震災の後、何日も暖かい食物がなく、また何日もお風呂に入れず、そんな中で久しぶりに食べた暖かい味噌汁一杯に、温かいシャワーに、ものすごく幸せを感じたということを聴きました。自分もそうですが、幸福感とは、失った中に、弱さの中に、幸福とは思えない、むしろ不幸な状況の中でこそ強く実感されるのだなと思います。不思議なことです。