2007年12月28日

12月30日週報に掲載

 昔は、日めくりカレンダーというものがあって、毎日一枚づつ剥がしたものだ。最初は分厚いカレンダーが、この時期になるとずいぶんと薄くなり、12月31日の最後の一枚を剥がすのが、なにか特別な行事のように感じられた。
 その日めくりの中に、必ず大安、仏滅、友引という文字が書かれてあり、子供心に何なのか分からないまま過ごしていた。大人になってから、その言葉は仏教用語で縁起を表す言葉だと分かった。
 さて、今年もカレンダーは、残す所あとわずか。31日も1日も、いつもと同じ24時間と言ってしまえばそれまでだ。しかし、やはり暦には意味がある。1年の終わりに過ぎた日を思いながら、反省したり感謝したりする。そして1年の始まりに、新しいビジョンを描いていく。
 ある日本で働く宣教師が、彼は日本語が上手なのだが、ある特定の人の日本語はどうしてもキャッチするのが難しいと言っていた。 その原因は、文章に終わりがない、ということだった。つまり「。」がなくて、ずらずらと「、」だけで話しが続けられる。そうすると、確かに「この人は何が言いたいのか?」分からなくなる。
 終わりが無いということは、始まりも無いということだ。私たちのライフスタイルに、メリハリをつけよう。1日の終わりと始まり。1週間の終わりと始まり。1年の終わりと始まり。その節目節目には、神への礼拝が捧げられる。これだけで人生はもっと分かりやすくシンプルにされる。そして物事の本質をしっかりと見分けることが出来るようになってくる。 この1年間、皆さんと共に主に仕えることが出来て感謝! 来年もよろしくお願いします。

毎日が大安の関牧師




2007年12月21日

12月23日週報に掲載

メリー・クリスマス

 私にとって3回目のハワイでのクリスマス。暑いクリスマスに、まだなんとなく違和感を感じながらも、家々のきれいな飾りつけなどを見ていると、クリスマスの雰囲気も増してくる。
 さて、皆さんは何歳頃までサンタクロースを信じていただろうか。私は、おそらく4,5歳位だと思う。朝を起きると靴下に一杯のお菓子が入っていたのを覚えている。それがどうやら両親が買って来たものらしいと何となく気がついたようだ。今でも目に浮かぶ、あのパンパンにふくらんだ靴下、それも今のような飾ったクリスマス用のものではなく、普段履いている普通の靴下だった。その中のお菓子を大切に食べたものだ。
 サンタクロースの起源は、4世紀に小アジアに実在したセント(聖)・ニコラウスという司祭にあると言われている。伝説によれば、「聖ニコラウスは3人の貧しい処女が貞操を売らなくてはならなくなったのを知って、3晩連続して窓からカネを投げ入れ、彼女たちを救った」とのことである。
 現在のサンタクロースの装束は、なんとコカ・コーラ社がイメージキャラクターとして作り上げたものだそうだ。もともと神がひとり子イエスを人類の救いのために与えてくださったのがクリスマスの意味である。しかし、クリスマスも聖ニコラウスも、その意味とは正反対の消費運動に変質してしまった。
私たちは、この世の中にあってもう一度、真のクリスマスの意味を理解し、イエスの誕生の意味を人々に伝えて行こう。 

関牧師


2007年12月16日

12月16日週報に掲載

 さて、日本では年末になると、この1年間の世相を最も現している漢字を一文字選んでいる。今年の一位に選ばれたのは、「偽」という漢字であった。肯定的でない文字なのが残念だが、確かに「偽物」が多かった一年だった。食品の産地、賞味期限、建設資材、製薬会社、年金記録、次から次へと出てきた。おそらくもっと出てくるだろう。
 どれも、利益追求、自己保身の末に出てきたものだ。皮相的な利益のために、実質を無視した結果がこれだ。しかし、一方で表面的な宣伝文句に踊らされて、実質を見抜くことの出来ない消費者側にも責任の一端があるだろう。この「偽装」問題は、単に一部の企業の問題ではなく、日本の社会全体の問題であるように思う。
 私たち人間の生き方が「偽物」であるなら、その人間が作り出すものも「偽物」が出てくるだろう。逆に、真実な生き方からは、真実なものが作り出される。表面的な宣伝文句や美辞麗句、それに対して中身の実質が伴っているかどうか。


 イエスの廻りに居たパリサイ人は、イエスに「白く塗った墓」「偽善者」と呼ばれた。彼らはの生き方は、表面を正しく見せ、中身は恐れで一杯だったのだ。この表面と中身の違い、本音と建前の違いが問題なのだ。


 偽善者という言葉の響きは「ドキッ!」とさせるものがある。あまり聞きたくない言葉だ。私のように言葉を発する務めをしていると、なおさら「偽善者」という言葉が怖い。しかし、自分が本物であるかどうか。それは、本当の自分を見つめ、神の御前に正直になれるかどうか。それが出来るのは、ただ神が愛であることの実体験だ。

関牧師

2007年12月9日

12月9日週報に掲載


 一年ぶりにジョシーがハワイに来てくれた。今回はバケーションのはずが、連日連夜、求める人に応えてくれてミニストリーをしてくださった。ジョシー、本当にありがとう!
 今回は、肉体の癒しが多く起こった。70年間右耳の聴こえなかった人の耳が癒されて、聴こえるようになった。他にも50名以上の方が癒しを体験している。
 全てがイエス・キリストの恵みである。神に感謝と賛美を捧げよう。
 この祝福に応えるために二つのことを伝えたい。
  • 聖霊の賜物について。1コリント12:27、28を参照。教会はキリストの体であり、私たちはその器官である。各器官の持つ能力が聖霊の賜物と呼ばれるものである。ジョシーは自分に与えられている聖霊の賜物を生かして用いた。その結果癒しが起こったのである。私たちにも、それぞれに異なった賜物が与えられている。それらを皆が共に生かして用いる時に、教会はキリストの体として健康に成長していける。一部の賜物が極端に'強調されたり、逆に無視されたりすると、健康は成長は出来ない。あなたも賜物を生かして用いよう。
  • 全てが神のご計画の中にある。ハワイリバイバルミッションを通して滝元順先生が霊の戦いの祈りをしてくださった。アプローチは、ジョシーとは違うが、神は決して一つだけ、一人だけを用いるのではない。それぞれの働きがキリストの名の元で一つとされるのである。神は教会を用いられる。それがチーム・ミニストリーと呼ばれるものだ。
                                 関 牧師

2007年12月3日

12月2日週報に掲載


『わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』(ヨハネ14章3節)

 母が、天に住まいを用意され、御国に迎えられた日、私はアラモアナビーチにいました。その日はとても不思議な日で、目を閉じると、母の笑顔、母の手、全て感じられました。私は、たくさんの『ありがとう』を日本にいる母に伝え、ここハワイで、母を天に見送りました。母は、皆さまの祈りと、愛と、時が満ち満ちて、主に迎えられたのだと、今日まで祈り支えてくださった皆さまに、心から感謝しています。
 先週の感謝祭礼拝では、西村兄姉夫妻のいやしの証があり、今、天にある、涙も傷も痛みもない癒しを頂いた母を思うとき、神様がくださるいやしの業は完全であることを思わされ、神の栄光を仰ぎました。

 母の死は、私の心の目を天に向けさせ、神様の、高くて広くて長くて深い愛を知らせてくれました。悲しみに勝る平安が、私の心に広がっています。そして、今、ここにある永遠に希望を置くことが出来ます。
 もう一つ、皆さまに一緒に喜んで頂きたいことがあります。それは、75歳を迎える父が、母の死を通して、名ばかりであったクリスチャンとしての生き方を一掃して、残された締めくくりの人生を神と人とに捧げて、教会を支え、仕える者になりたい、と知らせがあったのです。そして、それは、母の、地上での生涯の使命でもあったことも知らせてくれました。神様は、なんという麗しい方でしょうか。一つの命を通して、神に向く者の心になさる業は、何という素晴らしさでしょう。父の献身は、私に大きな慰めを与えてくれました。そして、天に確かな希望を持ち、私も、このハワイで、前進してゆく勇気を得られました。 主の御名を賛美します!! ハレルヤ!!
                                    関れい