2014年10月31日

11月2日2014年の週報に掲載

日本語部としての悔い改め告白文
~リバイバル・プロジェクトに際して~

 私たちホノルル・キリスト教会は、日英両語部合わせて、一つのキリストの体としての教会であることを信じる。

 しかし、私たち日本語部は、自らの霊的立場*を自覚せず、それに伴う責任*を果たしてこなかった。それゆえに、日本語は、英語部に頼り過ぎていた。

 それは、神に対して不忠実の罪、英語部に対しては不誠実の罪であることが示され、神の御前に悔い改める。

「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたは、キリストの体であって、一人一人は各器官なのです。」Ⅰコリント12章26,27節

「モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。」ヘブル3章5節

  • 「霊的立場」一つのキリストの体として、英語部と霊的につながっている。
  • 「それに伴う責任」英語部と積極的に関わり、愛し合い、教え合い、励まし合い、戒め合うべきである。
関牧師

2014年10月26日

10月26日2014年の週報に掲載

 昨日は、日英合同悔い改めの集会が持たれました。教会の祝福は悔い改めから始まります。だからこそ、悔い改めとは何か? を正しく理解しておかなければなりません。悔い改めは、反省や後悔とは違います。

 まず第一に神にとって、それが罪なのかどうか? です。一般では罪ではないことも、神の御前では罪なことがあります。Aさんに悪いことをした、という事が神の御前でどうなのか? 神が隣人を自分のように愛せよと命じておられるので、Aさんを傷つけることは罪なのです。

 そして大切なのは、ただ罪に気づくだけではありません。その罪と決別し新しい歩みを始めることです。そこまで行って、はじめて悔い改めとなります。

 昨日の悔い改めをしたから、すべて済んだということではなく、さららさらに悔い改めが深められていきますように。悔い改めをただの形式で終わらせないために、常に主に思いを向けていきましょう。大切なのは、これからどう歩むかです。

関牧師

2014年10月17日

10月19日2014年の週報に掲載

 今日の礼拝には、中野雄一郎先生をお迎えすることが出来たことを感謝します。先生は、1981年~96年まで、15年間、ホノルル教会の日本語の牧師としてご奉仕されました。現在は、マウントオリーブミニストリーの伝道者として、奥様の明子夫人と共に、まさに世界中を巡回伝道されています。

 私たちは、25日(土)に日英合同の悔い改めの集会を持とうとしています。この時期に、中野先生をお迎えするのも、主のご計画であろうと思います。先生を通して語られる主のメッセージに耳を傾けましょう。

 教会は「キリストの体」です。私たちは、その一器官です。一つの体ですから、それは共同体です。共に喜び、共に苦しむ集まりです。そして私たちの喜びは、イエスの喜びです。その苦しみはイエスの苦しみです。私たちが心を一つにして共に歩むとき、そこにイエスのお姿を見るのです。 私たち教会の交わりは、共にイエスを体験する交わりなのです。

関牧師

2014年10月13日

10月12日2014年の週報に掲載

 「悔い改め」とは、恵みです。私たちが罪を悔い改めるのを妨げるものは、神に対する高慢、自虐、そして恐れです。

 「恐れ」とは、神と人との関係を壊す最大の要因です。しかし、罪人である人間が、聖なる神のもとに行くことは、怖ろしいことです。罪人が礼拝に来ます。なぜなら、イエス様が「わたしは正しい人ではなく、罪人を招いている」と言われるからです。

 しかし、その罪の悔い改めがないまま「恵まれた」と言って礼拝を後にするなら、それは?です。礼拝に来たら、しっかりと罪を悔い改めて、新しい一週間を始めましょう。

 イエスは、「一人の罪人が悔い改めることを神は喜ぶ」ということを、3つの譬えを語って明らかにしています。もし神のもとに行くことが「怖ろしい」と感じるなら、それは当然の感覚です。しかし、神は「恐れるな」と言ってくださいます。なぜなら、私たちの罪は、イエス様の十字架のゆえに、赦されているからです。十字架の愛は、恐れを一掃します。

関牧師

2014年10月2日

10月5日2014年の週報に掲載

 今年のハワイは、日本のような蒸し暑い日が続きます。牧師館の庭の芝生も茶色になってしまいました。しかし、昨夜は久しぶりの大雨が降り、朝を起きてみると、芝生に若葉がたくさん出来ていました

 人生にも色々なシーズンがあります。でも時は進みます。「神の成さる事は、すべて時にかなって美しい。」とあるように、神の時があります。枯れる時もあれば、芽生える時もあります。それぞれに美しさがあります。

 さて悔い改めをテーマに語っています。もし悔い改めとう恵みがなかったら、と考えると悔い改めの有難さが分かります。過去の罪やお過ち、傷、苦しみ、後悔、それらを捨てられないとしたらどうか? 一生それらを負って生きなさいと言われたら…。悔い改めとは、罪を捨てて、神に立ち帰ることです。それは、帰ってくるのを待っておられる神がいるということです。

 広い意味で、礼拝に来るということは、神のもとに帰ってくることですから、悔い改めそのものです。今日の礼拝も、自分の内に山や谷があったら、それらを平地にして、神のもとに行きましょう。

関牧師