2011年8月19日

8月14日2011年の週報に掲載

絶対に裁かれない、そんな集団があるだろうか? ここで言う裁きとは、罪を罪として指摘することではなくて―それは必要なこと―相手の存在を否定することです。ここに居てはいけないと、その居場所をなくすことことです。

この世の中は、裁き合いばかりです。しかし、絶対に裁かれない、つまり自分がどうであっても、常に存在が受け入れられる場所。しかも、罪を曖昧にするのではなくて、その善も悪もそのまま知られ、それでもなおかつ受け入れられる。そんな存在の居場所が、あるのでしょうか? 

その場所が教会です。絶対に裁かれない場所です。教会は、罪が示される場所でもあります。しかし、それは暗闇が光に変えられるためのものです。裁くためではありません。救うためです。その罪人を救い、受け入れたのがイエス・キリストなのです。


教会の中で、裁かない交わりが実現できるとすれば、その要因は唯一です。主イエス・キリストの十字架をを皆が経験することです。つまり、自分自身こそ、神に裁かれないという「赦し」を経験することです。


裁かれて当然の自分が、でも裁かれない。なぜ? 主イエスが十字架で神の裁きを身代わりとなって受けてくださったからです。この真理に生きるときに、真の交わりは実現されていくのです。
関牧師




0 件のコメント: