-
「どうしても咲けないときもあります。そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと下ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。」
「信頼は98%。あとの2%は相手が間違ったときの赦しのためにとっておく。」
「苦しい峠でも、必ず下り坂になる。」
「今日より若くなる日はありません。だから
今日という日を、私の一番若い日として
輝いて生きてゆきましょう。」
「信頼は98%。あとの2%は相手が間違ったときの赦しのためにとっておく。」
「苦しい峠でも、必ず下り坂になる。」
「今日より若くなる日はありません。だから
今日という日を、私の一番若い日として
輝いて生きてゆきましょう。」
最近、色々なところから、礼拝メッセージを聴いていますよ、というレスポンスをいただくことがあります。日本の、全く知らない方からも連絡をいただくこともあります。自分の語ったメッセージで、主の恵みに預かっている方がいることは、本当に嬉しいことですし、大いに励まされます。ある方は、数年前にホノルル教会に来られて、そこで語られたメッセージが「深く心に刺さり」、日本に帰ってから洗礼を受けられたとの、お便りをいただきました。とても嬉しいです。
しかし、教会成長ということを考える時に、メッセージが良い、という事だけでは成長できないのです。そのメッセージにおいて明らかにされた「御言葉の真理」が、一人一人の聴き手の内側に種のようにして植え付けられ、根を張り、実を結ばなければ、ただ一時の満足で終わってしまいます。そして、容易に忘れられてしまうものなのです。
そこで、教会にどうしても必要なのが、「御言葉を分かち合う」交わりなのです。「今日のメッセージは良かった」と言ってくださるなら、どこが、どのように良かったのか。「今日のメッセージは分からなかった」と言ってくださるなら、どこが分からなかったのか? 御言葉を中心にして、それぞれの応答を分かち合うのです。その時に、御言葉が個人的な恵みから、教会の恵みへと拡がっていくのです。 そんな場があったら素晴らしいと思います。
ある人は、この日は、終戦記念日ではなくて、敗戦記念日だと言います。たとえ敗戦であっても、大切な事実は、この8月15日に戦争が終わったということです。
アメリカには「終戦」ということがあるのでしょうか? 第二次世界大戦が終わって直ぐに朝鮮戦争があり、ベトナム戦争があり、湾岸戦争があり、イラク戦争があり、現在においても戦時下にあるのがアメリカであり、私たちは、その戦時下にある国で生活をしているのです。
日本は敗戦しましたが、その代わりに終戦を得たのです。そしてこの67年間、一度も戦争を行っていないのです。アメリカは、勝ち続ける代わりに戦争を終えられないのです。しかし、日本は敗けた代わりに戦争を終えることが出来たのです。だから敗けた方がいいという単純な話ではありません。しかし、日本が敗戦することで、終戦を迎えることができ、そして戦争をしない国となったのは、戦争を知らない世代の私にとっては「恵み」です。
その敗戦という過程の中で、東京大空襲があり、原爆投下があり、沖縄戦があり、筆舌に尽くしがたい苦難がありました。その犠牲と言えば、あまりに大きな犠牲の上に、その恵みがあることを思います。
そこにキリストを見ます。私の知らない所で払われた犠牲の上に、今の平和があるのです。しかし、日本は別の意味で「戦争」があります。自殺者の数は未遂者まで入れると一年間で30万~60万人です。この数は、もはや戦争のレベルです。今度は私たちが、次の世代に、平和を残す役割があるのだと思います。
しかし、私はその頃、クリスチャンになり立てで湯気が立っているような時でして、すでに神学生であった牧人先生が、とても眩しく見えました。今こうして、同じオアフ島で二人が牧師としてご奉仕している不思議さに感動し、主を崇めています。
お互いに、あの爽やかな青年時代を想いながら、今ではお腹をさすりながら、風になびく髪の毛に哀愁を感じながら、しかし当時からの主に仕える熱い心は変わりません。牧人先生は、その当時から常にギターを片手に、自作の賛美を歌っていました。心の思いを賛美として表現されるのも先生の賜物です。
「心に光を」は、月~金 2:45PM~3PM AM1210 KZOラジオから放送されています。月曜日は正木茂先生、火~金はハワイの牧師が交代で担当しています。1981年にスタートし、今年で31年目を迎えました。これまで、この放送を通して、数え切れない多くの方々がイエス・キリストを信じました。その中には、ホノルル教会で救われ、現在日本で牧師をしている井下泰文先生もおられます。彼は、その放送内容にクレームをつけるためにスタジオまでやってきて、そこで北村姉に導かれて教会に来たそうです。
「心に光を」放送の諸経費は、すべてクリスチャン有志一人ひとりの尊い献金でまかなわれています。どうぞ、このラジオ伝道という働きのために、お祈りと献金をお願いいたします。
しかし一方で、私たちはいとも簡単なように、これらの戒めを破ります。そして、破る時には、それなりの理屈を作ります。これらの「してはいけない」を「しても構わない」に変えるために、ありとあらゆる理屈を作ります。屁理屈から、もっともらしい理屈まで色々あります。しかし、それらは結局のところ、自らの悪を肯定するための理屈であり、と言うことは、そのような理屈を考えること自体が、自らの悪を認めているという事になります。
今日、取り上げる「姦淫してはいけない」という戒めもそうです。性の交わりは、結婚関係において与えられた神からの祝福です。しかし、それが結婚関係以外において行われるときに、それは災いに変わります。「性」とは、人格です。この戒めを破りたい人は、「自分に正直に」とか、「愛は自由だ」とか、「性の解放だ」とか、色々な理屈を考えますが、どんな理屈があっても、時代が、流行が、マスコミが、どうであっても、「姦淫してはいけない」のです。
以下のことは「してはいけない」ことです。
夫婦以外の者と、性的関係を持つこと。