2015年1月30日

2月1日2015年の週報に掲載

 一年に一度の牧師リトリートに参加するために、LA郊外のパサデナに来ています。このリトリートセンターは、カトリックの施設で、自然の豊かでリトリートにふさわしい環境です。今日も、散歩中に野生の鹿の群れに出会いました。

 今回の牧師リトリートの中で、自分の墓碑を書くという作業がありました。40字くらいでまとめるのです。

 例えば「彼は、イエスと共に人生を十分に楽しんだ」とか、「彼は、その生涯を神に捧げ、キリストの福音に仕えた」など。

 墓碑など考えたことがありませんでした。皆さんは何と書きますか? そこには、自分がどのような人生を送りたいかが現れます。

 リトリートの途中で、車で20分くらいのAzusa大学にいる勇矢に荷物を届けて来ました。キャンパス生活をエンジョイしているようです。

 このリトリートの期間、主が何を語ってくださるのか楽しみです。このような機会が与えてくださる教団と、また送り出してくださる教会に、心から感謝をいたします。 

関牧師

2015年1月23日

1月25日2015年の週報に掲載

「イエスの招き 来なさい」というテーマで4回メッセージを語る予定です。

 イエスはマタイに「わたしについて来なさい」と招かれました。マタイは、立ち上がってイエスに従いました。

 イエスに従うために、理由を考え、状況を判断し、損得を計算し、自分の力量を考え、廻りの人に聴き…、だからイエスに従おう、イヤやめておこう、と私たちは考え、判断し、決断するかもしれません。

 しかし、イエスに従うのに、それらの要素は関係ありません。イエスに従うのは、イエスが自分を「従いなさい」と招いてくださっているからです。イエスのこの一言で、私たちは従うのです。

 それでは盲目的過ぎるのでは? と思われるかもしれません。いえ、私たちは招いておられる方が、誰なのか? 私たちは、自分の事ではなく、招いておられるイエスのことを考えるのです。

 イエスのことを本当に知ったら、私たちは立ち上がって、イエスに従う者になるでしょう。

関牧師

2015年1月16日

1月18日2015年の週報に掲載

 いつからイエス様を信じる者をクリスチャンと呼ぶようになったのでしょうか? 使徒の働き11章にその事が記されています。

 クリスチャンとは、自分で名乗ったのではなく、呼ばれたのです。私たちもクリスチャンと呼ばれる存在になりたいのです。

 アンテオケに集まるイエスを信じる者たちを、周囲の人々は一年の間、ずーと見ていました。そして、その集まりの一番の特徴として「キリスト」を見たのです。ですからキリスト者、すなわちクリスチャンと呼んだのです。

 自分を一年間観察してもらって、その後果たして「クリスチャン」と呼ばれるだろうか? とてもそんな自信はありません。しかし、アンテオケの教会の人々には、「神の恵み」が見えていたのです。自信がなければ、なおさらのこと、神の恵みを受け入れ、恵みに生き、恵みを分かち合うのです。その時、きっとイエス・キリストが現されるのです。

 私たちが、クリスチャンと呼ばれる存在になれるとすれば、神の恵みに生きることです。自分で頑張って呼ばれようと獲得するものではありません。ただ、私のために死んでくださったキリストと共に生き、感謝し、喜ぶのです。

関牧師

2015年1月9日

1月11日2015年の週報に掲載

 キリスト教徒のことを、キリスト者という。カタカナにするとクリスチャンです。

 クリスチャンと聴いて、どんなイメージを持っていましたか? あるいは、今はクリスチャンとしてどんなイメージを持たれていると思いますか?

 使徒の働きに登場するアンテオケ教会。この教会に集まった人々が、歴史上初めてクリスチャンと呼ばれたのです。クリスチャンという呼び名は、キリスト教徒自身が付けたのではなく、教会の外の人が付けたニックネームなのです。

 ニックネームとは、その人の特徴をとらえてつけられるものです。アンテオケ教会にキリストを信じる者たちが集まり始めて1年間たった後、彼らはクリスチャンと呼ばれました。

 つまり、彼らの一番の特徴は「キリスト」であったのです。

 もしホノルル教会に集う私たちが、教会の外の方に1年間観察していただいて、ニックネームをつけてくださるとすれば、どんなニックネームになるでしょうか?

 この集まりの、そして集まる一人一人の特徴が「キリスト」であったら、どんなに素晴らしいことでしょうか。私たちは、名前だけのクリスチャンではなく、実のあるクリスチャンとなりたいものです。

関牧師

2015年1月4日

1月4日2015年の週報に掲載

「この男は、まるでペストのような存在で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、」(使徒の働き24章5節)

 「影響力のあるクリスチャン」となりたい。このペストのようなだと呼ばれた男は、パウロのことです。

 パウロを迫害する敵のことばなので、当時大流行していたペストに譬えられたのです。今ならエボラ熱にでも譬えられたでしょう。 いずれにしても、それほどの影響力があったということです。

 私たちは、廻りの人にどのような影響を与えているでしょうか? あなたがそこに居ることで、愛、喜び、平安…、イエス様の影響が拡がっていくなら素晴らしいです。

 咳をしたら隣の人に風邪がうつります。クリスチャンが咳をしたらイエス様の愛がうつる、そんな存在でありたいと思います。

 クリスチャンが、教会が、そこにあることで、騒ぎが起こるほどに、キリストの福音の力が現されますように。私たちは、この地域にあってインパクトのある存在となりましょう。

関牧師