自分は、主イエス様の口かな、手かなと考えるとワクワクしますね。賜物が与えられていない人は、一人もいません。必ず何かの賜物が与えられています。
コリントの教会にあった混乱は、「私はあの人のような賜物がないから駄目だ」とか、「あの人は、私と同じことが出来ないから駄目だ」と、賜物を比較して、優劣をつけて、ダメを出し合っている状況でした。
そんな状況の教会にパウロは、賜物はキリストの体の一器官であって、賜物には色々な種類があるが、体は一つ、御霊は一つと言ったのです。そして全ての人が求めるべき賜物として、「愛の賜物」について語るのです。
どんなに賜物があっても、愛がないなら何の値打ちもないのです。まず愛の賜物を求めて、そしてそれぞれの賜物を活かしていきましょう。
また「賜物発見テスト」をやってみたいですね。以前受けた方も、また変わっていることもあります。そして、それぞれの賜物が活かされるような、愛の教会として成長していましょう。
関真士牧師
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