2020年12月29日

12月27日2020年の週報に掲載

 今年最後の礼拝を捧げることが出来たことを心から感謝いたします。

 会堂に行けなくても、オンラインを見れなくても、主を礼拝する自分がいれば、礼拝はできることを教えられました。
と同時には、会堂があることの恵み、顔と顔を合わせて一緒に礼拝できることの恵みも知りました。

 どんな状況の中にあって、神の恵みは、目の前にあります。

 その恵みに気づくか、気づかないかということです。

 この一年間の恵みに気づかせていただいて、心からの感謝を主に捧げましょう。

 主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。

 新しい一年に向かって、希望の一歩を踏み出していきましょう。

関真士牧師

2020年12月22日

12月20日2020年の週報に掲載

聖フランシスコの平和の祈り

神よ、
わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。

憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。

わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからからゆるされ、
自分を捨てて死に、
永遠のいのちをいただくのですから。

関真士牧師

2020年12月14日

12月13日2020年の週報に掲載

 待降節(アドベント)第3週目を迎えました。 街ではクリスマスのミュージックが流れ、至るところにクリスマスツリーやイルミネーションが飾られ、どこか心も陽気になります。

 そして、年末間近のクリスマスが近づくと、一年の終わりも感じ始めるのが、例年のことと思います。 しかし実は、教会暦では待降節とクリスマスとは一年の初めです。
 ですから、教会を生きる私たち(神の民)にとって、救い主イエス様を待ち望むこの期間は、新しい年(新しい時代)に向かって希望を馳せる時だと、私は思います。

   2020年は、忘れもしない年となりました。 どのようなことが、皆さんの心には思い浮かんでくるでしょうか? 教会にとっても、私たち個人にとっても、予期せぬコロナ禍で数々のチャレンジがあったのが、この2020年だったと思います。
 未だ、チャレンジはあります。

   しかし、このような希望を見失いやすい時だからこそ、まことの希望(救い主イエス様)に心を向けて、新しい年を待ち望みたい、と切に願います。

高木牧人牧師

12月6日2020年の週報に掲載

 私たちは、待降節(アドベント)のシーズンを迎えています。

 イエスを信じて初めてのクリスマスを迎える方もいれば、もう何十回と迎えている方もいるでしょう。 しかし、何度目のクリスマスであったとしても、その年ごとに神は新しい恵みをくださいます。

 今年は、コロナ下にあって、例年のキャンドルライトサービスは持たれません。 しかし、私たちが主を礼拝するのに必要なのは、プログラムではありません。 救い主の誕生を心から喜ぶ「私」と、礼拝を受けてくださる「主」がおられれば、それで十分です。

 今年のクリスマスは、どんな新しい発見があるでしょうか。 楽しみに求めていきましょう。

関真士牧師

2020年12月4日

11月29日2020年の週報に掲載

 ヨハネ15章のぶどうの木のたとえ話からのシリーズも、今日で最後となります。

 ユーチューブから視聴できるので、ぜひとも何度も聞いて欲しいものです。イエスは「まことのぶどう木」です。
 私たちは枝です。枝が木につながっているように、私たちがイエスの愛にとどまっているとき、豊かな実を結びま す。そこには喜びが満ちあふれ、主の栄光が現わされていくのです。そのために私たちは、選ばれて、任命されたの です。

 互いに愛し合うという実が、いつまでも残るために、私たちは、愛し合い続けるのです。それが私たちのミニスト リーなのです。

 痛んだこの世界に、愛の実を撒きつづけていきましょう。神の国を拡げていくのです。イエスは「目あげて、畑 を見なさい」と言われました。私たちは、もう十分に愛されていますから、目を外に向けて、種を撒き続けましょ う。

関真士牧師

11月22日2020年の週報に掲載

 今年の年末は、静かだ。例年だと感謝祭の準備や、クリスマスに向けての準備で忙しくしていることだろう。

 今年は、すべてのイベントがキャンセルということで、よいお休みにもなっている。これまでは、あまりの忙しさに、年が明けても、メリークリスマス!と挨拶してしまうこともあった。

 このように普段あるイベントがない、礼拝では声を出して賛美できないなど、当たり前のことが当たり前でなくなるケースが多々ある。
 しかし、だからこそ本当に大切なものは何か、物事の本質が見えてくる。感謝祭って何なんだ、クリスマスって何なんだ、礼拝で賛美することって何なんだ…。

 この状況は、物事の本質を考える良いきっかけになっているようだ。
 せっかくだから、主の御前に静まって、感謝と喜びの時を過ごそうではありませんか。

関真士牧師

2020年11月18日

11月15日2020年の週報に掲載

 会堂礼拝が再再開して3回目の礼拝となりました。 しかし今回から、市当局の規制に則って、会衆は歌唱ができないことになりました。

 賛美奉仕者は、10ftの距離を取ることで歌唱が許可されますが、会衆同士は、そこまでの距離を確保できません。 歌唱が禁止ですから、話すことはできます。 ですから話すくらいの感じで賛美をすることになります。
 これを聞いた時、少なからずショックを受けました。 もちろん賛美は、歌だけではありません。 賛美する心があれば、歌以外にも様々な賛美表現があります。
 しかし、それしても、賛美を歌えないというのは、かなりのフラストレーションです。 この状況の中でも自分たちにとって、最高に礼拝を捧げることが出来るのか。 いや、それは出来るはずです。 改めて、礼拝とは何か、賛美とは何か、その本質が問われているように思えます。

 会衆賛美が出来なくても、心からの賛美と礼拝を主に捧げましょう。

関真士牧師