2008年3月28日

3月30日プログラムに掲載

 先日、ラジオで聞いたフレーズが心に残ります。「他人と過去は変えられない。しかし、自分と未来は変えられる。」確かにそうだと思いました。変えられないものを変えようとすると行き詰まります。変えるべきものを変えないと、何も変わりません。キリストとの出会いは、変わるべきものが、変えられる時となります。

 先日は、日本から宮田ファミリーがハワイまで来てくれました。夫婦で洗礼を受けてから丸一年が経ち、その洗礼を受けた3/18に再び来られました。洗礼を受けてからの様々な経験をシェアーしてくれましたが、どんな中にあっても一心に主を求めている姿に感動しました。確かに主の恵みが、このファミリーを捕らえてくださったのだと、また一年後に会うのが楽しみです。
 宮田夫妻は、日本に帰る最後の日曜日に洗礼を受けました。その2日前ほどにお会いして、お二人の信仰の告白を聞かせていただきました。洗礼を受ける、クリスチャンになる、ということは一大決心です。それは大きな変化を伴うからです。変化の度合いは個人差があるでしょうが、特にクリスチャンの背景のない中で生きて来た方にとっては、相当に大きな変化になります。お二人もクリスチャンになったがゆえの生き方、価値観の変化の中で、戸惑いつつも、しっかりと変えられた自分を生きています。

「誰でもキリストの内にある者は、新しく造られた者である。」(Ⅱコリント5:17)

 実際に人間は、他人と過去だけではない、自分と未来だって変えられない。ただキリストの内にある時だけ、すべてが変わる。勇気をもって、キリストの下さる変化を受け入れよう。

関牧師




2008年3月22日

3月23日プログラムに掲載

◆主イエス・キリストの復活をお祝いします。◆

 最近、嬉しくも困ったことがあります。携帯電話がよく鳴るのです。ミスコールが5コ、6コということもあります。正体は、まあやちゃんです。私の携帯電話の番号を暗記したらしく、学校が休みということもあって、続けざまに何度も携帯が鳴ります。これは、困ったと思いながらも、やはり嬉しさが増します。 電話の向こうで娘の声が聴こえると、思わず顔がゆるくなってしまいますある子供の施設でのことです。
 先生が子供たちに、お金の価値を教えていました。1円玉、5円玉、10円玉、100円玉、500円玉を並べて、一番価値があるのは500円玉だと説明します。そして「一番価値のあるのはどれ?」と質問するのですが、一人の子供だけは、何度教えても10円玉を指すのです。ある時、聞いてみました。「なぜいつも10円玉をとるの?」生徒は「この10円玉でお父さんに電話をかけるの」と答えました。この子供にとって、最も価値あることは、お父さんと話せることだったのです。
 時代は変わり、公衆電話から携帯電話になっても、子供の気持ちは同じだろうと思います。そして父親の気持ちも同じだろうと。その子供のお父さんも、きっと顔をゆるめて電話を待っていたのだろうと思うのです。 復活祭、それは主は生きておられるという喜びの日です。一日の内に何度も何度も主に電話しても、主はきっと喜んで、あなたからのコールを待っていてくれるのです。時にはイマージェンシーコールということもあるでしょう。10円玉ならぬ、復活の主を信じる信仰を握って、今日も復活の主にコールしましょう。

関牧師




2008年3月21日

3月21日プログラムに掲載

「グッドフライデーを迎えて」 

 受難節(レント)の最終日は、イエス・キリストが十字架にかかった日、つまりグッドフライデーとなっている。主の十字架を想う時、それは自分のための十字架でもあり、イエスと共につく十字架でもあり、また負うべき十字架でもある。今日のグッドフライデーの時、私たちは共に「負うべき十字架」について考えてみたい。
 十字架とは、迫害であり、抑圧、痛み、苦難のすべてである。そのような十字架を負うなどということは、現在の世の中においては、あるいは教会の中においてさえも、疎まれるメッセージであるかもしれない。
 しかしイエスは次のように語られた。「自分の命を捨てる者は、それを得る」。本当の命、本当の愛、本当の勝利は、十字架を通った、その先にある。十字架を通らなければ決して見えてこない世界がある。
 私たちが負うべき十字架は、自らの罪のゆえではなく、イエスに従うがゆえの十字架である。イエスに従うなら、十字架を負わなければならない。イエスのように愛するがゆえに、傷つき、痛み、苦しむのだ。 しかし、それは尊いことだ。イエスのために苦難をも共に出来るのなら、幸いなことだ。
 しかし生来、私たちは出来るだけ十字架を負わないようにと考え、生きてきた。ある意味で正反対の生き方だ。そんな私たちが、どうして主の十字架を負うことを願うのだろうか...。 この魂の底から湧き上がるような願いは何なのだろう。痛みと苦難があると分かっていても、それでも主に従おうとする。そして数え切れない聖徒たちが、主のために喜んで命さえも捨てて主に従ったという歴史の事実。
  なぜ…? それは「喜び」のゆえだ。十字架の向こうにある喜びを見るからなのだ。その喜びは、救いの喜び、天国の喜び。この喜びがあるからこそ、十字架を負ってまでも主に従いたいと思わされるのだ。

関真士牧師




2008年3月15日

3月16日週報に掲載

 健全な信仰生活というのは、常に実生活に根ざしているものです。この世から隠匿した世界ではなく、人生の現場で実が結ばれるものです。目に見えない信仰の世界と、目に見える実生活とは常に一つであります。これを切り離すと、信仰は健全さを失ってしまいます。
 私たちの教会は、今新会堂建築のプロジェクトを進めています。しかし、目に見える会堂のリニューアルを求めるなら、同時に目に見えない信仰のリニューアルも求められます。会堂のリニューアルと、信仰のリニューアルは同時進行に進んで行きます。新会堂のプロジェクトは単なる建物のことではなく、神の栄光に関わることなのです。

 それではリニューアルとは、何でしょうか? それは教会全体が、そしてメンバーの一人一人が、主との関係をより豊かなものにすることです。そして、主への献身と従順がより深められ、喜んで主に従う者たちの群れとなっていくことなのです。さらに、これを導いてくださるのは、聖霊ご自身です。今、私たちの教会の中で、聖霊が働かれ、御心を行っていてくださることを信じましょう。
 英語部からの呼びかけで、日英合同祈祷会を行うことになりました。7週間に亘って、毎週土曜日の朝7時から礼拝堂に集まります。是非、主から志をいただいて参加しましょう。日語部では、すでに信仰の基礎的な学びが始められ、ミニチャーチの働きも継続されています。これらに加えて、さらに聖霊からアイディアをいただいて、信仰のさらなるリニューアルを求めていきたいと思います。もし、本気で主を求めるなら、主はご自身を豊かに現して下さいます。もっと主の愛を体験し、もっと主を愛し、主の働きに参加させていただきましょう。

関牧師



2008年3月9日

3月9日週報に掲載

 とうとう捕まってしまった。マノアロードを軽快に飛ばしていたら、20マイルオーバーで止められてしまった。ポリスに職業を聞かれたので「牧師」と答えたら、ポリスカーに戻っていったので、牧師割り引きかと思ったが、そんなものがあるわけもなく、しっかりと罰金を言い渡されてしまった。
 この罰金で何が買えただろう、などと考えていると辛いので、そんな考えはやめて、前向きに考えることにしました。これは、やはり神からの「急ぎ過ぎるな」という警告として受け取ることにしたのです。そう考えると、これも神の守りであることも分かり、感謝が湧いてきました。一昔前に「狭い日本、そんなに急いでどこに行く」という標語が流行ったことがありましたが、もっと狭いハワイで急いでもしかたない、もっとゆっくり行こうと思いました。


 日本から石川優子姉が来られて、ハープやオカリナによる賛美をしてくださいました。音楽というのは、神が人類にくださった素晴らしいギフトです。音楽は、人間の深い所まで入っていける力があり、理屈や感情を超えて、人間の魂の領域にまで直接入っていけるものです。 全身の力を抜いて、リラックスして、ハープの音色に耳を傾けると、急ぎ過ぎている体のリズムが、正常に戻るような気がします。本来のリズムを取り戻すような感じです。
 本来、急ぎ過ぎる傾向がある自分なので、ゆっくり目の妻が与えられていることも感謝です。大切なのは、神のペースということです。早過ぎでも、遅過ぎもでない、神のスピードがあります。それが一番安全で快適なスピードなのだと思います。

関牧師


2008年2月29日

3月2日週報に掲載


 「ああ気持ちい!!」 マノアの谷を吹き抜ける貿易風。毎日、毎日、感動しています。太平洋の大海原を通り、コオラウ山脈でたっぷりと緑の息を取り入れた、最高に新鮮な空気を吸わせてもらって、こんなリッチな神の恵みはないでしょう。感謝、感謝の日々です。
 ところで最近、「古きを知り、新しき夢を見る」というフレーズが頭から離れません。私たちの教会は、すでに天に凱旋された多くの聖徒たちによって築かれ、支えられて来ました。1926年、3名の結核患者が癒しを求めて決死の祈りを捧げるため、タンタラスの山に登りました。三日間の断食祈祷の結果、癒されて下山した3名を見て、多くの人がクリスチャンになったそうです。これがホノルル教会の萌芽となりました。以来、今日までどれだけ多くの神の恵みが注がれて来たでしょうか。数え切れない証しがそこにあることでしょう。そんな証しを信仰の先輩からお聴きして、私たちの立ち続けるべき信仰を確認したいですね。
 また、主の再び来られるその日まで、主の教会は歩き続けます。私たちの子供たち、孫たち、次の世代に信仰のバトンを渡して行かなければなりません。私たちは、彼らに何を残していけるでしょうか。教会の将来を展望し、夢を描いて行きたいですね。10年後、20年後、私たちの教会はどうなっているでしょうか? 私たちが今祈っているこの祈りが、この信仰が、この証しが、きっと何十年先の教会を支えているのでしょう。そうでありたいですね。
 教会のプログラムは忙しいですが、いつか「古きを知り、新しき夢を見る」そんな集いが持てれば素晴らしいですね。

関 牧師


2008年2月24日

2月24日週報に掲載

 数年前に日本にいた時、いつものようにれいに髪の毛を切ってもらっていました。バリカンで刈り上げてもらっていたのですが、突然れいが無口になり、ただならぬ緊張感が頭の上に感じられました。どうやら手がすべったらしく、どうしたらいいのか、大変な事態に頭が真っ白になってしまったのでした。
 ある程度の覚悟を決めて鏡を見ると、そこにはさっぱりとスポーツ刈にされた自分がいました。呆然としていると、すかさずれいが、「似合ってる、最高!」と必死に励ましてくれます。妻の励ましに弱い私は、その気になって、以来スポーツ刈で通して来ました。
 その事件がきっかけであるのは確かですが、もう一つスポーツ刈を受け入れた理由は、頭のてっぺんが寂しくなってきたからでした。また、何と言っても手入れが簡単で、暑いハワイにはぴったりの髪型でした。しかし、いよいよ髪の毛の数が寂しくなってくると、夢よもう一度ではないですが、何かむしょうに髪の毛を伸ばしたくなるものです。そんなわけで、最近髪の毛を伸ばしているのですが。それには、これほど深い? わけがあったのでした。
 それにしても、どれだけ多くの方が牧師の髪型に関心を持っておられるのか、よく分かりました。今の髪型に対して賛否両論が激しく、どちらかと言うと賛成派が優勢のような気もしますが、反対派も巻き返してきます。
 まあ、とにかく私の好きなようにさせてもらおうと思っています。髪の毛のある人も、ない人も、長い人も、短い人も、髪の毛の数まで知っておられる神を、今日も共に礼拝しましょう。

関牧師