2007年12月28日

12月30日週報に掲載

 昔は、日めくりカレンダーというものがあって、毎日一枚づつ剥がしたものだ。最初は分厚いカレンダーが、この時期になるとずいぶんと薄くなり、12月31日の最後の一枚を剥がすのが、なにか特別な行事のように感じられた。
 その日めくりの中に、必ず大安、仏滅、友引という文字が書かれてあり、子供心に何なのか分からないまま過ごしていた。大人になってから、その言葉は仏教用語で縁起を表す言葉だと分かった。
 さて、今年もカレンダーは、残す所あとわずか。31日も1日も、いつもと同じ24時間と言ってしまえばそれまでだ。しかし、やはり暦には意味がある。1年の終わりに過ぎた日を思いながら、反省したり感謝したりする。そして1年の始まりに、新しいビジョンを描いていく。
 ある日本で働く宣教師が、彼は日本語が上手なのだが、ある特定の人の日本語はどうしてもキャッチするのが難しいと言っていた。 その原因は、文章に終わりがない、ということだった。つまり「。」がなくて、ずらずらと「、」だけで話しが続けられる。そうすると、確かに「この人は何が言いたいのか?」分からなくなる。
 終わりが無いということは、始まりも無いということだ。私たちのライフスタイルに、メリハリをつけよう。1日の終わりと始まり。1週間の終わりと始まり。1年の終わりと始まり。その節目節目には、神への礼拝が捧げられる。これだけで人生はもっと分かりやすくシンプルにされる。そして物事の本質をしっかりと見分けることが出来るようになってくる。 この1年間、皆さんと共に主に仕えることが出来て感謝! 来年もよろしくお願いします。

毎日が大安の関牧師




2007年12月21日

12月23日週報に掲載

メリー・クリスマス

 私にとって3回目のハワイでのクリスマス。暑いクリスマスに、まだなんとなく違和感を感じながらも、家々のきれいな飾りつけなどを見ていると、クリスマスの雰囲気も増してくる。
 さて、皆さんは何歳頃までサンタクロースを信じていただろうか。私は、おそらく4,5歳位だと思う。朝を起きると靴下に一杯のお菓子が入っていたのを覚えている。それがどうやら両親が買って来たものらしいと何となく気がついたようだ。今でも目に浮かぶ、あのパンパンにふくらんだ靴下、それも今のような飾ったクリスマス用のものではなく、普段履いている普通の靴下だった。その中のお菓子を大切に食べたものだ。
 サンタクロースの起源は、4世紀に小アジアに実在したセント(聖)・ニコラウスという司祭にあると言われている。伝説によれば、「聖ニコラウスは3人の貧しい処女が貞操を売らなくてはならなくなったのを知って、3晩連続して窓からカネを投げ入れ、彼女たちを救った」とのことである。
 現在のサンタクロースの装束は、なんとコカ・コーラ社がイメージキャラクターとして作り上げたものだそうだ。もともと神がひとり子イエスを人類の救いのために与えてくださったのがクリスマスの意味である。しかし、クリスマスも聖ニコラウスも、その意味とは正反対の消費運動に変質してしまった。
私たちは、この世の中にあってもう一度、真のクリスマスの意味を理解し、イエスの誕生の意味を人々に伝えて行こう。 

関牧師


2007年12月16日

12月16日週報に掲載

 さて、日本では年末になると、この1年間の世相を最も現している漢字を一文字選んでいる。今年の一位に選ばれたのは、「偽」という漢字であった。肯定的でない文字なのが残念だが、確かに「偽物」が多かった一年だった。食品の産地、賞味期限、建設資材、製薬会社、年金記録、次から次へと出てきた。おそらくもっと出てくるだろう。
 どれも、利益追求、自己保身の末に出てきたものだ。皮相的な利益のために、実質を無視した結果がこれだ。しかし、一方で表面的な宣伝文句に踊らされて、実質を見抜くことの出来ない消費者側にも責任の一端があるだろう。この「偽装」問題は、単に一部の企業の問題ではなく、日本の社会全体の問題であるように思う。
 私たち人間の生き方が「偽物」であるなら、その人間が作り出すものも「偽物」が出てくるだろう。逆に、真実な生き方からは、真実なものが作り出される。表面的な宣伝文句や美辞麗句、それに対して中身の実質が伴っているかどうか。


 イエスの廻りに居たパリサイ人は、イエスに「白く塗った墓」「偽善者」と呼ばれた。彼らはの生き方は、表面を正しく見せ、中身は恐れで一杯だったのだ。この表面と中身の違い、本音と建前の違いが問題なのだ。


 偽善者という言葉の響きは「ドキッ!」とさせるものがある。あまり聞きたくない言葉だ。私のように言葉を発する務めをしていると、なおさら「偽善者」という言葉が怖い。しかし、自分が本物であるかどうか。それは、本当の自分を見つめ、神の御前に正直になれるかどうか。それが出来るのは、ただ神が愛であることの実体験だ。

関牧師

2007年12月9日

12月9日週報に掲載


 一年ぶりにジョシーがハワイに来てくれた。今回はバケーションのはずが、連日連夜、求める人に応えてくれてミニストリーをしてくださった。ジョシー、本当にありがとう!
 今回は、肉体の癒しが多く起こった。70年間右耳の聴こえなかった人の耳が癒されて、聴こえるようになった。他にも50名以上の方が癒しを体験している。
 全てがイエス・キリストの恵みである。神に感謝と賛美を捧げよう。
 この祝福に応えるために二つのことを伝えたい。
  • 聖霊の賜物について。1コリント12:27、28を参照。教会はキリストの体であり、私たちはその器官である。各器官の持つ能力が聖霊の賜物と呼ばれるものである。ジョシーは自分に与えられている聖霊の賜物を生かして用いた。その結果癒しが起こったのである。私たちにも、それぞれに異なった賜物が与えられている。それらを皆が共に生かして用いる時に、教会はキリストの体として健康に成長していける。一部の賜物が極端に'強調されたり、逆に無視されたりすると、健康は成長は出来ない。あなたも賜物を生かして用いよう。
  • 全てが神のご計画の中にある。ハワイリバイバルミッションを通して滝元順先生が霊の戦いの祈りをしてくださった。アプローチは、ジョシーとは違うが、神は決して一つだけ、一人だけを用いるのではない。それぞれの働きがキリストの名の元で一つとされるのである。神は教会を用いられる。それがチーム・ミニストリーと呼ばれるものだ。
                                 関 牧師

2007年12月3日

12月2日週報に掲載


『わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』(ヨハネ14章3節)

 母が、天に住まいを用意され、御国に迎えられた日、私はアラモアナビーチにいました。その日はとても不思議な日で、目を閉じると、母の笑顔、母の手、全て感じられました。私は、たくさんの『ありがとう』を日本にいる母に伝え、ここハワイで、母を天に見送りました。母は、皆さまの祈りと、愛と、時が満ち満ちて、主に迎えられたのだと、今日まで祈り支えてくださった皆さまに、心から感謝しています。
 先週の感謝祭礼拝では、西村兄姉夫妻のいやしの証があり、今、天にある、涙も傷も痛みもない癒しを頂いた母を思うとき、神様がくださるいやしの業は完全であることを思わされ、神の栄光を仰ぎました。

 母の死は、私の心の目を天に向けさせ、神様の、高くて広くて長くて深い愛を知らせてくれました。悲しみに勝る平安が、私の心に広がっています。そして、今、ここにある永遠に希望を置くことが出来ます。
 もう一つ、皆さまに一緒に喜んで頂きたいことがあります。それは、75歳を迎える父が、母の死を通して、名ばかりであったクリスチャンとしての生き方を一掃して、残された締めくくりの人生を神と人とに捧げて、教会を支え、仕える者になりたい、と知らせがあったのです。そして、それは、母の、地上での生涯の使命でもあったことも知らせてくれました。神様は、なんという麗しい方でしょうか。一つの命を通して、神に向く者の心になさる業は、何という素晴らしさでしょう。父の献身は、私に大きな慰めを与えてくれました。そして、天に確かな希望を持ち、私も、このハワイで、前進してゆく勇気を得られました。 主の御名を賛美します!! ハレルヤ!!
                                    関れい  

2007年11月23日

11月25日週報に掲載

 毎年、この時期になるとズボンがきつくなって困る。七面鳥の丸焼きと言えば、私の小さい頃には、マンガの中でしか見たことのない夢のごちそうだった。しかし、7,8歳の頃だったと思う。あるパーテイーで、なんと七面鳥の丸焼きが運ばれて来たのだ。私は2歳上の兄と、大興奮した。しかし、お皿に乗ったのは、たった一枚の薄い肉だった。あまりのショックで兄としばし目が点になっていた。まさか丸焼きのまま、自分の皿に乗るわけがないのだが、子供心に描いていた、丸焼きにがぶりつく、という夢はかなわなかった。
 それが、19歳の時に渡米して、感謝祭、クリスマスと、たて続けに七面鳥にお目にかかり、感激したのを覚えている。さすがにがぶりつくことが出来なかったが、思う存分食べたのを覚えている。おまけに先だって教団総会で訪れた北カリフォルニアでは、宿泊した家の前を野生の七面鳥の家族が仲良く歩いていた。こうして私の七面鳥に対する想いも、充分に満たされたのだった。
 小さい頃の満たされない欲求は、その人の人生に大きな影響を与えることがある。特に人間は、「愛されるために生まれた」。それは言い方を変えれば、「愛されないと生きられない」ということだ。あなたは充分に愛された生きて来ただろうか。それとも、もっと愛されたいという夢を追いかけているだろうか。
 私は、同じく19歳の時に、イエス・キリストを信じた。そして求め続けていた本当の愛に満たされた。1984年のクリスマスに洗礼を受けたのだが、私にとってその年は、お腹も、魂も満たされた素晴らしい年であった。

11月18日週報に掲載

 1620年9月2日  イギリスの清教徒たちは、信仰の自由を求めてメイフラワー号に乗りアメリカ大陸へやってきました。男性78名、女性24名、合計102名です。ボストンの地に上陸した一行は、冬の厳しい寒さと慣れない環境の中で半数が死んでしまいました。その有様を見たインディアンたちは、彼らにコーンやカボチャの育て方などを教え、種を分けて与えてくれました。
 次の年の11月、収穫の秋を迎えることが出来ました。そこで清教徒たちは、インディアンを食事に招き三日間かけて感謝の祝いを持ったそうです。その時の食事が原型となって、カボチャ、トウモロコシ、サツマイモ、七面鳥を感謝祭において食するようになりました。やがてリンカーン大統領の時代に、11月の第4木曜日を感謝祭と定めて今日に至っています。 
 初めての感謝祭、それは半数の愛する同胞を失った痛みと悲しみ、さらにこれから厳しい寒さを迎えようとしている状況の中で行なわれました。この厳しい過去と未来を結ぶ「今」という時に、彼らは神に感謝を捧げたのです。感謝は過去に向って癒しを、未来に向って希望を与えるものなのです。
 神に感謝を捧げることは、神の支配、神の計画、神の最善の導きに対する信仰告白なのです。そして全ての感謝の源は、イエスによって救われたという恵みの体験にあります。

2007年11月22日

11月11日週報に掲載

 今日は子供祝福式。子供は、特別に神の祝福を受けるべき存在である。しかし、神から離れているこの世において、子供は祝福どころか、もっとも虐げられている存在となっている。

 今世界では、一日に2万5千人が飢餓のために死んでいる。その中でも5秒に一人、子供が飢餓のために死んでいる。ある国では、子供は売買の対象とされ、売春、兵士、労働力として売られている。

 一方で先進国と呼ばれる国では、捨てるほどの食糧があり、物質的には豊かである。しかし、「都市には、孤独という飢餓がある」(マザー・テレサ)と言われるように、心がまさに飢餓状態だ。マザー・テレサは次のようにも言っている。「先進国に住む私たちの心の飢餓が世界の飢餓をつくり出している。」 

 世の中の矛盾、歪みは、いつも社会的弱者である子供たちに向けられる。子供が祝福されていない社会は、それがどんなに物質的に豊かであっても、本物ではない。子供は社会の成熟度のバロメーターでもある。私たちは、先進国に住んでいる。しかし、心は満たされているだろうか。子供が祝福される社会、家庭であるためには、まず自分自身が満たされていることだ。飢えた者に分け与えるだけのパンを持っているだろうか。心の飢えに苦しんでいる者に、分け与えるだけの愛を持っているだろうか。

 今日は子供祝福式だ。皆で子供たちを祝福しよう。神が、この子供たちを祝福し、イエス様の僕として成長させてくださるように。私たちも、ますます満たされ、もっともっと分かち合っていこう。

11月4日週報に掲載


 先だって持たれたオールセイントイブは、本当に楽しかった。一昨年は寿司職人の武岡兄と寿司を握り、昨年はイカ焼き、今年は焼き鳥、ここまで来ると来年はやはり焼きソバあたりになりそうだ。日語部伝統のタコ焼き、恒例となったクレープと共に、来年も楽しくなりそうだ。皆さんからの新たな参加も大歓迎である。

 私の趣味は料理である。しかし、こう言えるようになったのも最近のことである。変なプライドがあって、自分は料理のプロだと思っていたので、趣味とは言えなかった。コックを辞めて10年以上経ってからやっと「趣味です」と言えるようになった。

 趣味というからには、好きであり、ストレス解消になり、楽しめるものであるはずだ。私の場合もこの3点を満たしている。しかも料理の場合は、食べていただく人がいるわけで、数ある趣味の中でも、かなり実益を兼ねたものだと思う。

 趣味は料理であり、本職は御言葉の料理人、というのもなかなかいい感じである。礼拝メッセージは、まさに御言葉の料理だ。基本は素材を生かす。つまり御言葉を大切にする。素材の味を引き出すようにする。素材によって料理の加減を変える。難しいい素材は充分に料理して、食べやすいものはあまり手を加えないで。何よりも食べる方のことを考えて、という具合に料理の基本を説教に譬えると共通点がたくさんある。

 御言葉の料理人としては、まだまだ修行中だがさらに精進していきたい。皆さんの趣味は何ですか? 趣味もまた神の働きのために用いられたら素晴らしい。神を第一とすると、全ての経験が生きるのだ。

10月28日週報に掲載

ハロウィンの起源

 ハロウィンの起源は、2000年以上前の古代ケルトにのぼります。古代ケルト民族は一年の終わりを10月31日と定め、死者の祭りとしたのです。死者の霊が親族を訪れる夜とし、悪霊が横行し子どもをさらったり、作物や家畜に害をなす夜でもあったため、死者の霊を導き、悪霊を払うために焚き火が不可欠でした。日本で言うところの、お盆と大晦日が一緒になったような日だったようです。

 ハロウィンに必要不可欠なカボチャはアイルランドの伝説がもとになっています。「けちんぼジャック」と呼ばれた男が、彼を黄泉の国へ連れて行こうとした悪魔をうまいこと騙しました。ジャックは死後、生前の悪事のせいで天国に行けず、悪魔とのいきさつのせいで地獄にも行けず、明かりを灯したカブを持たされ、 罪を償うためにあの世とこの世を行き来しつつ、暗い道をさまよい歩き続けるという話です。もともとはカボチャでなく、カブでした。ハロウィンがアメリカに渡った際にカボチャでカラフルなランタンを作ったそうです。
  • ハロウィンの世界観は、聖書の世界観とは全く異なります。私たちは悪霊に対して勝利しています。恐れる必要はありません。またカボチャを持って罪の償いの旅をする必要もありません。私たちはイエス様の十字架によって救われました。ハロウィンの日には、悪魔的な格好をする人が大勢いますし、悪魔的な犯罪が起こります。その起源を知ると「なるほど」と思います。私たちは、救いと勝利を信じ、十字架の福音を高く掲げましょう。 


 ハロウィンの夜は、安全な教会で過ごしましょう。


10月21日週報に掲載

 ハワイ・リバイバルミッションも大きな祝福のうちに最終日を迎えた。1年以上前から準備がされ、今日で大会は終了となる。しかし、全ては今日から始まる。ここからが本当の勝負だ。ミッションのスタッフの方々、メッセンジャーの先生方は、最後まで全力でハワイのために奉仕してくださった。あとはハワイにいる私たちの責任だ。

 まず、これからもいよいよ福音宣教に励もう。伝道の喜びは、実際に伝道しなければ分からない。一人の人がイエス様を信じて救われる。その時に沸き起こる天国における天使の喜びの声。これを一度体験すると、もうやみつきだ。ミッションを通して多くの福音の種が蒔かれたのだから、一粒も無駄にせずに刈り取ろう。

 次に、教会が聖められることを求めていこう。イエス様を信じた方々をしっかりと受け留めて行けるように。教会は、この世にありながら、この世のものではない。聖別された存在である。なぜなら教会は、組織でも建物でもない。教会はキリストの体であるからだ。この世では味合うことの出来ないものが教会にはある。それはキリストの臨在だ。皆で心を一つにして主イエスを見上げ、賛美を捧げよう。

 さらに、ビジョンを拡げよう。ミッションを通してハワイという地が特別な使命を頂いていることを知った。ハワイは、アメリカと日本の中間に位置し、世界大戦の発火点になった。今度は、ハワイがアメリカと日本の双方にとって祝福の発火点になれるように。ハワイにある、特に日本人教会の存在はとても意味のあることだと思う。

 宣教への情熱、教会の聖化、ビジョンの拡大。私たちのミッションは始まったばかりだ。  「勇気を出して」前進しよう。


10月14日週報に掲載


 あるテレビ番組の中で、人々の絶叫シーンが特集されていた。遊園地にある垂直に落ちる絶叫マシーンや、高いビルやがけの上から足にロープをつけて飛び降りるバンジージャンプが紹介されていた。なんで、あんな恐ろしいことを自ら進んでお金を払ってまでするのか、私には全く理解できない世界である。

 15歳くらいの時に、友達と豊島園という遊園地に行き、初めてジェットコースターに乗った。それは、まるで地獄の底に落ちるような恐怖感体験であった。二度と乗るまいと決心して以来、ジェットコースターは乗ったことがない。子供たちを遊園地に連れて行く時も、パパは絶対にジェットコースターには乗らないと念を押してから行く。

 私は、どちらかと言えば気が小さい。名前の真士は、詩篇45篇から「真理の勇士」という意味で付けられたのだが、勇士からは程遠い性格だった。だからなおさら、自分を強く見せることにこだわった。それは気の小さい自分が嫌いだったからだ。しかし、自分を勇士に見せようとすればするほど、気の小さい自分の姿が目に付いてしまうのだ。

 無理に自分を勇士に見せることはない。むしろ神の力は弱さの中にこそ現されるのだ。本当の強さとは、自らの弱さを直視できることだ。なぜなら、その人は神の力に頼らざるを得ないからだ。神の力を帯びる時、私たちは真の勇士となるのだ。さあ、勇士として立ち上がろう。

10月7日週報に掲載


 さて、いよいよハワイ・リバイバルミッションが目の前に迫ってきた。10月19日(金)~21日(日)の三日間に亘って、ワイキキシェルを会場として開催される。

 この大会の目的は、第一に「伝道」である。一人でも多くの方にイエス・キリストの福音を聴いて頂きたい。そして一人でも多くの方にイエス・キリストを信じていただきたい。これが最大の目的である。 そのために、日本を代表する伝道者である滝元明師がメッセンジャーとして奉仕してくだる。そして一流ミュージシャンたちの演奏、地元の教会からゴスペルフラや演奏など盛りだくさんのプログラムが用意されている。

 さていきなり話題が変わるが、今の時代は「探し物の時代」と言われる。多くの人が、自分探し、母親探し、父親探し、居場所探し、幸せ探し、などなど、いつも何かを探していて、しかもなかなか見つからない。おまけに一つだけではなく、幾つもの探しものをしている。 まるで何処にあるか分からない宝島探しの冒険をしているようだ。なかなか旅が終わらない、もうこれで大丈夫だと安心できない。何かが足りない、何が足りないんだろう、あてもなく探し続ける。

 探しても探しても見つからない時、案外と目の前にあったりするものだ。遠い国まで冒険の旅に出る必要はない。詩篇46:1「神は、苦しむ時、そこにある助け」とあるように、本当にあなたが探しているものは、すぐ目の前にある。神はあなたと共にいるからだ。

 どうか、一人でも多くの方が、このイエス・キリストの福音、すなわち罪の赦し、永遠の命、新しい人生、神との関係を回復していただきたい。そして探しものの旅を、ここで終わりにしよう。

9月30日週報掲載

 ハワイに来てからベルトの穴が二つ増えた。はけなくなったズボンがたくさんある。来た当初は、食べ物が「甘い! しょっぱい!」と言っていたものが、最近では普通になってしまった。これまずいと、最近妻と歩き始めた。なんといってもマノアバレーは最高の散歩道である。マノアの山から吹き降ろす貿易風を受けながら、時に雨に濡れながら歩く道は本当に気持ちがいい。

 道を歩いていると、車で通っている時とはまったく違う景色が広がる。ここにこんな道や家があったのか、と新しい発見が尽きない。一軒一軒の家に、それぞれ住人がいて、そこに生活があり、人生があると思うとそれだけで何とも言えない気持ちになる。車で走り過ぎたのでは見えない世界がそこにある。

 今の時代は、とにかくスピード化の時代。日本では、いつの頃からかエスカレーターでも歩きながら上るようになった。たまに空港にあるような歩く歩道があっても、やはり歩きながら、歩く歩道にのっている。しかし、これだけ物事がスピーディになったのに、それだけ時間が増えたという実感がない。むしろ、ますます時間がなくなったような、忙しくなったような気がする。

 人生、何かに追い立てられるように急ぐより、たまに立ち止まったり、ゆっくり歩いてみたり、そうすると今まで見えなかった世界が見えてきて、新しい発見があるかも。毎週の日曜日の礼拝も、人生を立ち止まり、リセットする良いチャンスである。ある方が「Stop and smell roses」という言葉を紹介してくださった。ついつい通り過ぎてしまうバラの前で、立ち止まって、その麗しい香りをかいでみよう。

9月23日週報掲載


 教会にとって最も嬉しい時は、洗礼式だ。聖書には、「一人の罪人が悔い改める時、天において天使の間で大きな喜びがある」と記されている。本当に天にも地にも喜びが溢れる時である。

 9/30の洗礼式では6名の方が洗礼を受けられる。それぞれが皆違った人生を歩んで来られたが、今がまさに神の時であり、神の御手の中で最善である。

 私は1984年12月に洗礼を受けた。その時は若干20歳。サンノゼでコックをしていた私は、自分の人生の将来を全く想像できなかった。職場の旅行でハワイに観光に来たのが約20年前、その時には中野先生の家で食事をいただいたのを覚えている。まさか23年後にハワイで牧師をし、その家に自分達が住むことになるとは夢にも思わなかった。

 クリスチャンになってからも、色々なことがあった。もちろん、それが人生である。しかし、神の計画ということを知ってから、人生がよりダイナミックになった気がする。特に、献身(神に人生の全てを捧げる)を決心をしてから、神は私の人生を確実に導いてくださっているのが分かる。神学校で妻のれいに出会い、そしてこれまでの教会の奉仕においても、全ての道で神を認めることが出来る。

 何が苦しいかと言えば、今自分が立っている道は、本当に神の御心にかなっているのか? という疑いである。神が良しとされた道なら、それがどんなに苦労することであっても乗り越えていける。しかし、それが分からなければ、どうやって前に進んでいくのだろうか。

 イエスを信じてクリスチャンになる、それは、人生の全てを神が全責任をもって導いて下さるという人生だ。神と共に歩んでいこう。

9月16日週報掲載


 毎週の礼拝の時、自分はいつも一番前の席に座っている。そうすると廻りの人が目に入らないので、ただ一人で主の御前に出ているような気になる。そうすると主に向かって心を集中できるのがいい。一方で、賛美の時などは、背中にみんなの賛美の圧力を感じて、なんだか1万人の会衆の中で賛美をしているような気になって、それも素晴らしい。情報と映像が氾濫している時代、たくさんの心を煩わせるものに囲まれている時代だからこそ、礼拝の時には、ただ主にのみ心を向けていきたい。

 以前、ある賛美のコンサートで、雰囲気が盛り上がってきたので、思わず立ち上がってしまった。そこで廻りの人たちもつられて立ってくれたら良かったのだが、誰も立たなかった。ふと気が付くと自分1人で立っている、なんだか寂しいような、恥ずかしいような気になった。その廻りを気にするあたりは、まさに日本人である。

 昨日は12時間連続賛美祈祷があった。このコラムを書いている今は、まだ明日のことだが、きっと素晴らしい恵みを頂くに違いないと思っている。ZAWAMEKI代表の滝元開師が語っていたことだが、日本各地でコンサートする中でアンケートを取ると次のような言葉が多いと。「何だか分からないけど、心が安らいだ」「何だか分からないけど、涙が止まらなかった」など、「何だかわからないけど」という言葉が多いそうだ。

 まさに、そこが聖霊の働きだ。特に音楽は人間の理性を超えて、直接魂に届く力を持っている。賛美は、直接人々の魂に語りかけるものだ。何だかわからないけど、聖霊が人間の一番深い所に触れてくださっている。今日も、心から賛美を主に捧げよう。

9月9日週報掲載

 先週の就任式中で、安次富先生が語ってくださった言葉が心に留まっている。「キリスト教の証明」は何か? それは「変革」であると言われた。確かに、キリスト教は、教理だけではない、その真理が事実として、出来事として起こるということが一番の証明であろう。福音を語っているなら、その福音によって人生が変えられた、ということが福音の確かさを最も証明することではないだろうか。

 先日、ハワイ・リバイバルミッションの関係で素晴らしいコンサートに行ってきた。超一流ミュージシャンが揃って最高の演奏であった。その中で、現在アメリカでソウルの女王と呼ばれているマキーダさんが賛美と証詞をしてくださった。

 マキーダさんは、11歳の時までに何度も性的虐待を受けてきた。続けて、最愛の祖父が亡くなり、父親が実の父ではないことも分かり、死ぬしかないと思うようになった。自殺は罪であることが分かるので、神が自分の命を取ってくれるように願った。自分の人生を終わりにしたかった。精神病院に入っている時、おもちゃのピアノで弾かれている賛美歌を耳にした。その時、聖霊が彼女の心に語りかけた。「カイヤ」(ヘブル語で命、生きるの意味)。聖霊は彼女の心に「死んではならない、生きなさい」と語りかけた。彼女は、もし生きよと言われるなら、この心の痛みを取ってくださいと祈った。二日後、マキーダさんは癒されて退院することが出来た。彼女は、それ以来、神を賛美し、喜び踊っているのだ。本当に魂の底から湧き上がるような賛美だった。今もイエスは、私たちを変えてくださる。悲しみを賛美と喜びに変えてくださるのだ。「人生が変革」されること、これこそが福音の確かさだ。そして福音の力だ。共にイエスの十字架を見上げよう!

9月2日週報掲載

 今日も大きな虹が見えた。Manoa のマックやスタバには、昔のManoa地区の写真が掲げてある。草原の中に、わずか数件の家屋が見える。もちろん今とは全く様子が違う。しかし、Manoaの山々、谷に向かう斜面、ManoaBreezと呼ばれる貿易風、それらは今も昔も変わらない。

 教会にとって新しい牧師が就任することは、最も大きく重要な出来事の一つであろう。大きな変化だ。しかし、教会は昔も今も変わらない。主イエスが教会のかしらであり、教会はキリストの体であること。教会の使命、教会の務め、何も変わらない。牧師が代わっても教会の務めは変わらない。私たちは、主イエスから託された宣教命令に応えるために、これからも古の聖徒たちと同じように、主の業に励むのだ。 

 私は、日本で2年、2年、8年と三箇所で牧会をした。今回ホノルル教会が4つ目の教会となる。それぞれに遣わされた必然性というものがあった。このホノルル教会に遣わされたのも、神の必然がある。今この時、ここでなければならない、偶然ではない、神の必然である。

 今日の礼拝後に牧会方針を発表させていただくが、簡単にここにも記させていただく。


 牧会理念:「自分の足で歩く」。クリスチャンとしての生き方は、人格(神のかたち)の回復に鍵がある。そこから人格的な神との関係が育ってくる。

 牧会方針:最高の礼拝を捧げるー礼拝の充実。光の交わりを持つーミニチャーチの充実。喜びをもって主に仕える―宣教の充実

8月26日週報掲載


 さて、今日の午後には「ミニチャーチ 特別セミナー」がある。「スモールグループ入門」の著者ショーン尾谷師が講義してくださる。尾谷師はハワイ日系4世で日本で宣教師として働いている方だ。

 以前から度々、ミニチャーチの素晴らしさ、必要性について語ってきた。学び会も続けて来たが、いよいよこのセミナーを最後の仕上げとして、実際にミニチャーチの活動をスタートしていきたい。まずはリーダーとして立ってくださる方がいる。何人かは分からないが、皆さんの中から聖霊に心を奮い立たされて、「やろう!」と言ってくださる方が必ずいることを信じている。


 ここで改めてミニチャーチの必要性について記してみたい。


  • 交わりの場。教会の規模が大きくなればお互いの距離も遠くなる。そこで、キリストを中心として、より近く、親しく、深い交わりを保つために、ミニチャーチが必要である。

  • 分かち合う場。誰でも心の中のことを分かち合いたいと求めている。お互いに心の中にあることをシェアーできる場である。

  • 受け入れられる場。心の中をシェアーしたことが、理解され、受け入れられる場である。

  • 祈り合う場。お互いに祈り合うことは、最高に素晴らしい特権だ。しかし、日曜日だけの出会いでは、中々そのような時を持つことが出来ない。それを可能にする場である。

  • 他にも多くのことを言えるが、教会が真に教会として在るためには、ミニチャーチは不可欠なものだ。教会の将来のために、どうか一人でも多くの方が、ミニチャーチに参加していただきたい。


8月19日週報掲載


 今日はハワイ・リバイバルミッション(以下HRM)の講壇交換である。ホノルル教会には、カリヒ教会から敬愛する藤浪義孝先生がご奉仕に来てくださる。この講壇交換の目的は、各教会のHRMへの意識を高めるために行なわれる。現在の活動状況など、なかなか情報が浸透していない面もあるので、思いつくことを以下に書き記してみた。

 日本では滝元明先生を中心に、日本全国の教会を巡ってHRMをアピールし、祈りと献金を要請している。すでに沖縄、北海道、九州、北陸、関東と、100以上の教会を巡っている。また米本土の教会をも巡ってくださっている。特に日本の小さな教会が捧げてくださっている献金は、どれだけの価値があるだろうか。

 HRMの予算は、$7千万を計上。ハワイで持たれている集会の席上献金はHRMのために用いられるが、基本的にハワイの教会側からHRMのための経費は支払っていない。事務経費など全て日本側が負担している。しかし今回、ハワイでも主体的に経済的な重荷を負わせていただこうと、初めて各教会において献金の時を持たせていただくことになった。どうぞ喜びをもって捧げていただきたい。

 現在、日本の多くの教会と米本土の教会がハワイのために祈っている。ハワイは太平洋の真ん中で祈りの挟み撃ちに合っているわけだ。これほどハワイのために祈りが集中することは、めったにないことだ。何かが起こらないわけはない。ハワイは、かつて世界戦争の発火点となり、日米を引き裂いた地だ。しかし、今度は、リバイバルの発火点となり、日本とアメリカ双方に神の祝福を与えていくことが出来るようになるのだ。今この時にHRMが開催されることの意味は、当初思っていた以上に深いものがあるようだ。祈り、捧げ、参加しよう!

8月12日週報掲載


 クリスチャンの生き方の一つとして「仕える」」ということが挙げられる。イエスが弟子達の足を洗ったように、私たちも互いに足を洗い合いなさい、というのが聖書の教えである。「仕える」ということは、リーダーシップと対立するように感じるかもしれないが、「サーバント・リーダーシップ」という言葉を聞いたことがあるだろうか。「仕える僕としてのリーダー」ということだが、仕えることこそ、正しいリーダーシップであるということだ。
 私が2年前に、ホノルル教会の副牧師として赴任した時のことを思い出す。若いとはいえ12年間あまり牧師をしてきて、また副牧師として奉仕することにチャレンジを感じた。なぜなら日本の副牧師という立場は、神学校を卒業したての研修生というイメージがあるからだ。しかし主が私に、この時期にもう一度、一歩下がって仕えることを学ばせようとしていると悟ったので、感謝をもってホノルルに来た。そして「仕える」こと、特に主任牧師である鈴木先生に仕えることを最も大切なこととして考えていた。
 しかし、この2年間は仕えるどころか、やりたいこと、言いたいこと、何でも受け入れられ、鈴木先生、弘子先生に、甘えっぱなしであった。その反面、鈴木先生はどれだけ忍耐と信仰をもって、私を見守っていてくださったのかを思う。「仕える」などと意気込んで来た私だったが、仕えてくださったのは鈴木先生の方であった。

 教会の将来を考え、つまり最も大切なことのために、自らを捧げ切てくださった、その姿に真の牧会者としての生き様を見せていただけた。確かに私は「仕える」ことを学ぶことが出来た。私も鈴木先生の後ろ姿に倣っていきたいと思わされている。