2008年12月23日

12月28日週報に掲載

 さあ、2008年も終わりです。この一年の世相を漢字一文字で表すと 「変」 だそうです。 政治も経済も人の心も、常に変化するものですが、この年は、特にその変化を強く感じた一年でもありました。 もちろん良化ではなく悪化したのですが…。

 対してアメリカでは、オバマ氏が「CHANGE」を掲げて大統領の座を獲得しました。 こちらの「CHANGE」には、良く変化すること、将来への希望が託されています。

 次に紹介するのは、ドイツの牧師であるラインハルト・ニーバーの言葉です。 彼は、この祈りの言葉を第二次世界大戦の中で、最前線でクリスマスを迎えている兵士に向けて送りました。




  神よ、変えることの出来る事については、変える勇気を。
  変えることの出来ない事については、それを受け入れる心の静けさを。
  そして両者を見極める知恵を授けたまえ。


 こんな時代だからこそ、本当の知恵が必要です。ヘブル語の知恵という言葉には「舵をあやつる」という意味があるそうです。 大海原を航海するような人生の旅路において、どのように舵を切ったらよいのか? 思わず「神よ知恵を授けたまえ」と祈らずにはおれません。 

 この一年を振り返り、舵を切りそこなったということもあったかもしれません。 しかし、今一度、イエス・キリストという港に入って、一息つきましょう。 そして、新しい年に向かって、また新たに舵を切っていきましょう。 神からの知恵を頂きながら。 この人生の航海へ漕ぎ出しましょう。

関真士牧師



2008年12月19日

12月21日週報に掲載

 今年もクリスマス礼拝の時を迎えることが出来ました。クリスマスに対する思いも、人それぞれでしょう。先週お証をしてくださったとしさんは、子供の頃からクリスマスがこの世から無ければいいと思っていたそうです。それは、クリスマスが孤独と疎外の時だったからです。しかし、去年のまさにクリスマスの時に、神はとしさんを抱き上げて神の子にしてくださいました。

 今日も、共にクリスマス礼拝を捧げましたが、一人一人が今どんな思いで、この時を迎えているのでしょうか。一緒に喜べる、賛美できる、それがどれだけの恵みなのか、改めて感謝に溢れます。そして全ての人が、このクリスマスを喜べるようにと願います。その喜びは、プレゼントやご馳走の中にあるのではありません。神が人となってお産まれくださったという、この出来事の中にこそ神の愛があり、これこそ喜びの源なのです。

 マザー・テレサがニューヨークにホームを設立しました。なぜこの大都会に? という質問に対してマザーは次のように答えました。「ここには、孤独という貧困がある」と。マザーが来日した時、日本は世界で最も貧しい国だと言いました。それは最も孤独があるということです。

 本当に自分の存在を知り、耳を傾け、理解し、受け入れてくれる存在はどこにあるのでしょうか。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)
 クリスマスは、神が私たちと共にいてくださるという印です。人は誰しも孤独だといいます。しかし、イエス・キリストは、その孤独のただ中にこそ、お生まれくださるのです。

関牧師


2008年12月12日

12月14日週報に掲載

 先週の火曜日、風邪でダウンして寝ていたらKZOOから電話が入り、「先生、心に光をです!」ということで、すでに時間は過ぎており、すっぽかしてしまいました。連絡を入れれば良かったのですが、すっかり頭から飛んでいました。申し訳ありません。

 水曜日は、日本からのゲストで岡本依子さんがスタジオに来られました。岡本さんは、テコンドーのオリンピック日本代表選手で、アテネで銅メダル、シドニー、北京と3大会連続出場を果たしました。テコンドーは韓国の空手のような格闘技ですが、その関わりもあって、2年前に韓国の教会で導かれてクリスチャンになっていたのです。この2年間は、本当に平安で幸せに競技生活を送れたと話されていました。今回引退をして、これからは日本にテコンドーの道場を千箇所作り、それを通して福音を伝えるというビジョンを語っていました。素晴らしいですね。

 先日は、友人のブログを通してメジャーリーガーの田口壮選手の証しの映像を見ました。彼はアメリカに来てから、クリスチャンの夫人に導かれました。大勢の観衆の前で、キリストを証ししていました。今まで日本人のプロ野球選手でクリスチャンの人は聞いたことがなかったので、とても励まれました。その知名度を生かして、さらに大胆にキリストを証ししてほしいと思いました。

 キリストの福音は、どんな時代の、どんな国の、どんな立場の人にも、どんな状況にある人にも、まさに信じる者を救う神の力であることを覚えます、「神にとって不可能なことは一つもない」

 関牧師


2008年12月3日

12月7日週報に掲載

 ハワイも雨の季節になりました。庭の芝が青々として生き返ったようです。その代わり伸びるのが早くて、芝刈りも一仕事です。ラジオから流れるアナウンサーの「空を見上げてみましょう」の言葉につられて、ふと空を見上げると、そこには棚引く雲が彩る爽やかな空が拡がっていました。

 最近、近くのガスステーションに表示されているガス代金を見るのが楽しみになってきました。見る度に下がっていきます。それにしても、あの高値は一体何だったのでしょうか? サブプライムの問題で、投資先を失った資金が、一気に原油に流れたために起こった高値でした。実際の原油生産量などとは関係のない、まさにマネーゲームの中で起こったことでした。ゲーム大好きな人のことをゲーマーと呼びますが、世界の経済は、一部の金融のゲーマーたちによって操られていると言えるでしょう。

 適度なゲームは、とても楽しく有益なものですが、過度にゲームにはまると、現実と仮想の区別がつかなくなり、脳の機能にも様々な悪影響が出ることが報告されています。サブライムの問題も、大変に複雑な構造の中で起こっていることではありますが、基本的には単純です。そのシステムを聞けば、いずれ破綻することは素人でも分かります。

 しかし、気づいていても止められない。日本のバブルの時もそうでしたが、このゲームは負けるまで終われないのです。ギャンブルと同じです。聖書は「神と富の両方に仕えることは出来ない」といいます。何が価値あるものなのか、しっかりと見極めて歩みましょう。

関牧師



2008年11月29日

11月30日週報に掲載

 1549年フランシスコ・ザビエルが日本に上陸しました。彼らポルトガル人の宣教師たちは、神の愛を伝えるために、日本語を習得していきました。1603年には初の日葡辞書が作成されています。その中で、ポルトガル語の「愛」は、日本語で何と訳されていると思いますか?ちなみに、当時の日本語の中には「愛」という言葉はありません。

 彼らが、様々な日本語をあてはめ、最も適切であるとした言葉、それは「ご大切に」という言葉でした。神にとって私たちは「ご大切」な存在ということです。
この「大切」という言葉は「大いに切迫している」という緊急的な状況を表しています。そのような状況において、最も先に思い浮かぶもの、あるいは手を伸ばすもの、ということで「かけがえのないもの」から「愛するもの」と言葉がつながってきました。

 あっ地震だ! 火事だ! といった緊急時において、まず何が思い浮かびますか? 何に手を伸ばしますか? それが大切なものであり、すなわち愛するものとなります。
 神にとって、私たち一人ひとりの存在は「ご大切」なものです。あれも必要これも必要、大切に見えるものは多くあります。でも緊急時に、他のすべてを犠牲にしてでも、これだけは手放せないと思わせるもの。神にとって私たちの存在とは、そのようなものだということです。
 そのように大切にされている自分にとって、自分の「ご大切」なものとは何だろうか? そこに自分の心があります。

関牧師



2008年11月20日

11月23日週報に掲載

 今日は、感謝祭礼拝です。1960年12月26日、メイフラワー号に乗って、イギリスの清教徒たちがアメリカ大陸にやってきました。しかし厳しい寒さのために、102名の内の約半数が命を失いました。そこにインディアン達から助けの手が差し伸べられました。彼らから狩猟や農耕を教わり、次の年の秋には豊かな収穫を得ることができました。その時、インディアンと清教徒たちは共に3三日間の祝宴を催したのです。それがアメリカにおける感謝祭の原型です。

 この感謝祭に込められている思い、それは収穫を与えてくれた神への感謝。そして助けの手を差し伸べてくれたインディアンへの感謝です。そこにあるのは、ただ「恵み」です。収穫に必要な太陽の光も、雨の水も、それは人間の力ではコントロールできない領域のものです。ですから、それは神の恵みなのです。インディアンが見たこともない異国の侵入者を助けることも、決して当たり前のことではありません。何の取引もなく、ただ助けられたこと、これもまた「恵み」です。

 感謝は、恵みを体験する時に湧き上がってきます。あって当然と思っている時に、感謝の心は出てきません。食べることも、着ることも、住むことも、そして生きていることさえも、当然ではなく、生かされているのだと分かるときに、自分の存在そのものが感謝に変えられていきます。やがてインディアンは、その土地を奪われ、虐殺されていきます。感謝の心を忘れるとき、人間は傲慢になります。道端の名も無き花の一つでさえ、神の恵みの業なのです。神の恵みに心を向けるとき、感謝は尽きません。神の恵みが私たちを取り囲んでいるからです。

関真士牧師



2008年11月16日

11月16日週報に掲載

 先週の日英合同礼拝の朝、ホノルルアドバタイザーの朝刊に、WALUの家がオバマ次期大統領が少年時代に住んでいた家として、写真入りで紹介されていました。絶妙のタイミングに思わず興奮してしまいましたが、誰にも予想できない展開に、神を畏れつつ感謝しました。

 合同礼拝の中で、英語部のリーダーたちが先に約束献金を捧げたことが発表されました。29家族が応答して、すでに$1ミリオン以上が捧げられたことが報告されました。ハレルヤ!

 23日までに予算が集計され、発表される予定です。それから計画がより詳細に決められていきます。献金という形以外にも、祈りはもちろん、委員会への参加や、様々なファンドレイズのお手伝いなど、色々な形でリニューアルに参加する機会があります。これまで通り情報は常にお伝えしていきますので、皆様の参加をお待ちしています。

 日英の合同礼拝「またやりたい」という声が早くも出ていましたが、場所や予算を考えると、そう頻繁に出来るものではありません。でも新しい会堂が出来れば、そこで出来る可能性も出てきます。いずれにしても、日英が共に礼拝をし、共に聖餐にあずかり、共に奉仕すること、これこそ、まさにリニューアルの祝福の一つです。

 合同礼拝に参加で出来ない方のために第一礼拝を持ちましたが、そこにも確かな主の臨在と喜びがありました。主は、ホノルル教会を祝福してくださっています。

 合同礼拝のために、たくさんの準備と労力が必要でした。奉仕された方々に主の豊かな報いがありますように。これからがリニューアル本番です。主の計り知れない御業に期待しましょう。

関牧師

2008年10月31日

11月2日週報に掲載

 今から21年前、当時サンノゼでコックをしていた私は、念願の永住権の取得まで最後のインタビューの時を迎えていました。しかし、すでに聖書学院への入学を決めていた私の頭に「永住権を取得する時に、聖書に手を置いて宣誓する」という誰かの言った言葉が浮かびました。(実際には、そのような事はありません)その時、提出した書類に年数を偽って書いた事などが思い出され、それが心に重くのしかかりました。

 しばらくの葛藤の後、私は聖書の前で偽りを誓うことは出来ないと、その永住権を放棄しました。その時に、もし私が再びアメリカに来るとするなら、それはコックではなく牧師として来るのだから、ビザは神が用意してくださると信じました。永住権の放棄は、多くの方から大ばか者に思われました。そんな皆がやっているような小さな嘘、弁護士費用は無駄になってしまうし、なぜそこまで? と思われました。しかし私にとって、これから神に献身して生きていくのに、嘘の大小も、お金のことも関係ありませんでした。

 それから日本で牧会する中で、アメリカに来ることは全く考えていませんでした。それが日本に帰ってから17年たってから再びアメリカに来ることになったのです。牧師のビザは簡単と聞いていましたが、永住権の申請が一度却下されてしまいました。もし、ビザが降りなかったら…ふとそんなことも考えました。しかし、今回2度目の申請で弁護士も驚くほどの早さで取得することが出来ました。皆さんのお祈りに感謝します。それにしても、あの時に、手放しておいてよかったと心から思います。手放すことは委ねることです。手放せば、神ご自身が全責任をもって導いてくださいます。

関牧師



2008年10月24日

10月26日週報に掲載

 今ホノルル教会は、リニューアル一色という感じです。今は11月9日に向けてファンドレイズに焦点が当たっていますが、それ以降は、いよいよ具体的な建築内容に入っていきます。もう一度、リニューアルのことを確認したいと思います。

●リニューアルの動機。 これは場所が「狭すぎる」ということです。現在の狭さもそうですが、将来を考えてもそうです。教会の場所が狭くなる、つまり人数が増える理由はただ一つ、それは人が救われるということです。ですからリニューアルは、伝道への情熱、リバイバルへの渇望から始まります。

●リニューアルへの献身。 私たちがリニューアルに参加するのには犠牲が伴います。それでも参加するのは「あまりの喜びの」ゆえです。喜びがあるので、自ら進んで参加するのです。この喜びの根拠は、自らが「主を見て喜んだ」という復活のキリストとの出会いにあります。

●リニューアルの目的。 建物が目的ではありません。建物も大事ですが、それも中身があってこそです。新しくされた会堂の中に何があるのか? それは「神の栄光の臨在」です。これがあって初めて教会はキリストの体となるのです。リニューアルの目的は、神の栄光の臨在です。

●さあ、どうぞ「自分をしっかり持って」神の御心を全力で求めてください。今のこの時、主に一歩でも二歩でも近づくなら、それこそ私たちの求めている真のリニューアルです。

関牧師




2008年10月17日

10月19日週報に掲載

 毎週水曜日の祈祷会では、聖書通読の箇所に合わせてメッセージを語っているが、先週の箇所は使徒の働き5章であった。そこには「アナニヤとサッピラ」の事件が記されている。

 教会の草創期において人々は、自分の財産を売ってそれを教会に捧げ、教会はそこから貧しい者達に分配するということが行われていた。アナニヤとサッピラという夫婦は二人で相談の上、土地を売った代金の一部を残しておいたまま、それが全額だと偽って捧げたのである。その偽りの行為に対して、ペテロは「あなたがたは聖霊を欺いている」と語った。自らの行為が暴露された二人は、その場で息を引き取ってしまったのである。そこに神への恐れが生じ、聖霊の臨在の確かさを見た結果、さらに多くの人々がイエスを信じて仲間に加えられていったのである。

 教会に財産を捧げた者たちは、あくまで自発的にしたのである。もし代金が惜しければ、それを捧げる必要はなかったのだ。誰も要求していないのに、なぜアナニヤとサッピラは偽ってまで、献金をしようとしたのか? それは人の目を気にしたり、人からの栄誉を求めたからである。もし私たちの捧げものが、強いられて、惜しむ心で、廻りを気にしたものであれば、神はそれを喜ばない。神が求めているのは、額面ではなく、私たちの献身である。

 教会リニューアルにおける献金は、喜びから出たものでなければならない。喜びから捧げられたもの、それは種まきと同じで、何千倍に増えて刈り取ることになる。どうか、神と自分との関係をより豊かなものにして、平安のうちに種を撒いていただきたい。

関牧師



2008年10月10日

10月12日週報に掲載

 もう数ヶ月するとホノルルマラソンが始まる。私もいつかは走ってみたいと思っているが、大会が日曜日であることがネックになっている。礼拝に間に合うためには、3時間を切らないといけない。ちょっと厳しいものがある。
 マラソンに限らず、最後まで走りぬくためには、二つのことが重要になってくる。それは「動機と目的」である。動機がスタートであり、目的がゴールである。厳しい状況が迫ってきたとき、ある人は「自分は何のために、こんなことをやっているのか?」とスタート自体に疑問を投げかけることがある。あるいは「あともう少し頑張ればゴールが待っている」とゴールに目を向けて、今の厳しさを乗り越えようとする人がいる。いずれにしても、動機と目的をしっかり持っていれば、必ず乗り越えることが出来る。

 信仰の旅においても同じであろう。様々な局面の中で二つのことを明確にしておかなければならない。「何で旅を始めためのか?」「ゴールはどこにあるのか?」 動機と目的である。

 特に私たちは「神の御名」を掲げているのだから、その動機は純粋かつ聖いものでなければならない。そして、そのゴールには必ず神の栄光がなければならない。これはキリストの教会にとって絶対はずせない枠組みである。


 動機は何だろう? 単に自分たちの便利さや快適さのためなのか?

 目的は何だろう? 本当に神の栄光を現すものなのか?

 信仰の旅を歩き抜くためには、この二つを明確に持つことだ

関牧師




2008年10月7日

10月5日週報に掲載

 先週の日英講壇交換は、とても好評だったようだ。日英両語部は、普段同じ建物の中で礼拝していても、時間がすれ違いで、お互いに知り合う機会がなかなかない。これからも講壇交換やピクニックなどを通して一つの教会であることを体感していきたい。近いところでは10月31日のオールセイントイブが日英合同のイベントなる。近年ハロウィーンはとても悪魔的な様相を増してきて、凶悪な事件も多い。この日は、教会で安全で楽しい時を過ごそう。

 教会リニューアルを通して、すでにたくさんの恵みをいただいるが、日英両語部の関係が、より深く親しくなり、またお互いの理解が深まっていることは、大きな恵みであろう。ただし日英両語部の関係は、同じでいい部分と違っていい部分を見極めていかなければならない。言語が違うということは、文化や思考体系が違うということである。私たちの一致とは、お互いの違いを理解し尊重し合うところにある。もっと進むと、その違いを楽しみ、また活かすのである。日英という二つの言語と部がある教会という賜物をもっと活かしていきたい。

 本日10月5日から11月2日までの5回の聖日に亘って、教会リニューアルをテーマにメッセージを語っていく。そして11月9日は、プリセンスカイウラニホテルで日英合同礼拝となる。今回、初めての試みとして、礼拝後すぐにスモールグループの時を持つ。小グループに分かれて、メッセージにへの応答や、リニューアルへの思いを分かち合っていただきたい。お互いに思いを分かち合うことによって理解が深まっていくだろう。11:15からは通常のコーヒーアワーとスモールクラスになる。ただ本日が第一週なので、そのまま合同クラスになる。

関牧師


2008年9月26日

9月28日週報に掲載

「当真のお父さん、ありがとう!」 
私たちは親しみを込めて当真嗣栄兄のことを「当真のお父さん」と呼ばせていただいる。当真のお父さんは、9月22日6:15PM 主の御許に召された。92歳であった。昨日は葬儀が行われたが、まさに勝利の凱旋にふさわしく、神の栄光に満ちた時であった。紀代子夫人のリクエストで聖歌516番を声高らかに賛美した。「我らは常に勝利、勝利、我らは常に勝利、世に勝ちませる主ともにませば、我らは常に勝利!」当真のお父さんは、死に勝利して天国へ凱旋したのである。

 当真のお父さんは、ホノルル教会の文芸部をリードしてくださり、俳句、短歌を指導してくださった。昨年の観月会では、私も生まれて初めて和歌を詠ませていただき、お父さんの指導にあずかった。お宅に訪問させていただく時には、お腹をすかせて行った。なぜなら当真のお母さんのご馳走にあずかるからである。お父さんは、いつも美味しそうに夫人の料理を食べていた。だから92歳にして大変に恰幅の良い体であった。いつも夫婦で朝早く祈祷会をしておられ、配布されている祈祷課題に沿って祈っていてくださった。真に忠実な祈りの僕であった。お父さんはお相撲が大好きで、読み終わった相撲雑誌をいつも廻してくださった。また大変な研究家で、沖縄の歴史や戦争の歴史などに造詣が深く、私も貴重な歴史の本を貸していただいことがある。おっとまだ、返していない本が一冊あった。思い出は尽きない、しかしまた会える。今度は目を天国に向けて、希望に生きていこう。希望の向こうでお父さんが微笑んでいるのが見える。

関 牧師



当真嗣栄兄の作品
1985年、俳句
  「聖堂に賛美あふれて秋涼し」
1993年、俳句
  「主にすべて委ねて安し感謝祭」


2001年、短歌
  「草は枯れ花は萎みて散りゆくも主のみ教えは永遠に変わらじ」




2008年9月18日

9月21日週報に掲載

 とうとう牧師館の前の道路がきれに舗装された。穴ぼこだらけで、がたがただった道が全部舗装された。見違えるようなスムーズさで、滑るように車が走ってくれる。嬉しい! この日を待ち望んでいた私にとって本当に嬉れしい!

 ハワイの道路行政には一言あるが、この快適さに免じてとやかく言うまい。日本の道路工事現場で働いていた時、ここまでして道路を作るのかと、その技術に驚いたものである。まず、地盤を改良するために、特別な薬品を土にいれて地盤改良する。そして砂や砕石などを何層にも重ねて、何度もローラーで押し固めていく、さらにアスファルトを2層に、場所によっては3層にして固めていく。アスファルトの温度も決まっていて、もし温度が規定より下がっていたら使いものにならない。しかも道路を良く見ると中心線が高くなっていて、水がサイドに流れるようになっている。出来上がった道路は、一見簡単そうに見えるが、見えない所で実に手の込んだ仕事をしている。

 ハワイの道路がそこまで手をかけているかは分からないが、暑い中、綺麗に道路を作ってくれた作業員さんたちに感謝である。道路も建物もそうだが、目に見えない基礎的な部分にどれだけ手をかけているかが大切だ。特に地震や大雨が来た時に、その部分の違いが露呈することになる。

 教会は、主の前に道を備えるものだ。人々が主のもとに行けるように道を造る、神の国の道路工事人である。つまずきのない、真っ直ぐな道を造って、もっと多くの人をお迎えしよう。

関牧師




2008年9月10日

9月14日週報に掲載

 先週は、ショーン尾谷師を講師に「ミニチャーチセミナー」が持たれた。ショーン師はハワイ出身の日系4世で、現在東京の町田で宣教師として奉仕している。日本宣教17年目を迎えたそうだ。
 ホノルル教会でミニチャーチがスタートしてから、ちょうど一年が経つ。去年の同じ時期にショーン師が来られたのを覚えているだろうか。来年もまた是非お願いしたいと思う。
 この1年間で礼拝出席者は増え続け礼拝堂の椅子も一杯になりつつある。洗礼を受けられる方も、続けて与えられている。やはり、閑散とした礼拝よりも、多くの方々が集まる礼拝の方が活気が出てくる。人数が増えること、特に洗礼者が与えられることは大きな喜びである。教会が規模的に大きくなることで、より大きな影響力をこの社会に持つことが出来るし、様々なミニストりーを展開する可能性が出てくる。
 一方で常に言われることだが、教会は量ではなく、質であると。量的増加が、必ずしも教会の健全さの証明にはならない。ここに一種の緊張関係がある。質が良ければ量も増えるはずだ。しかし量が増えると質が変わってしまう。私たちが目指したいのは、質が良いから量が増える。そして量が増えても質が変わらない、ということだ。
 人数が増えたと言っても、まだハワイ在住の9割以上の日本語族の方々は教会に来ていない。まだまだ収穫は多いのだ。福音が語られているなら、人々はこれからも集まるだろう。しかし質が変わってはならない。ここににミニチャーチの存在意義がある。ミニチャーチに参加される方が一人でも増えることを願っている。 

関牧師


2008年9月3日

9月7日週報に掲載

 今日の礼拝では聖餐式が持たれます。プロテスタント教会には儀式が二つあります。それは聖餐式と洗礼式です。16世紀ドイツにおいて、信仰が儀式化し堕落していた教会に対して、宗教改革が行われました。その時に、聖書に根拠を見出せない儀式を極力排除しました。それは当時の儀式化、形骸化への反動という歴史的な必然がありました。しかし、そのような状況の中でさえも、この二つの儀式だけは、排除することは出来なかったのです。なぜなら聖書に、これらを行うことが明記されているからです。つまり、聖餐式とは、それだけ意味のある儀式であるということです。
 私たちの教会では、毎月の第一聖日に聖餐式を持っています。聖餐式には幾つかの意味があります。

  1. 公の信仰告白 聖餐にあずかることは、主イエスに対する信仰の告白です。しかも会衆が見ているわけですから公に公表することになります。つまり聖餐にあずかることは「私はクリスチャンです」というのと同じことです。
  2. 契約の更新 私たちは聖餐にあずかる毎に、主との新しい契約を結ぶのです。それは「私は、今も主を信じています」という信仰の継続を告白することになります。
  3. 教会の証明 私たちは聖餐にあずかることによって、ここに主イエスの教会があることを表します。

 聖餐式に用意されているパンと杯は、主イエスの十字架の救いを象徴しています。主の十字架の御前で、自らがどのように立つか、ここに全てがかかっています。

関牧師



2008年8月29日

8月31日週報に掲載

 先週の礼拝では、井下修養生がメッセージを語ってくださいました。井下修養生は、東京聖書学院においてインターン生として4年目を迎えています。卒業後の進路については、まだ明確な神の導きを待ち望んでいるところです。どうぞ覚えてお祈りください。
 私たちは、自分が救われた教会を「母教会」と呼びます。「母教会」は、そこから生み出された者を覚えて祈り続けるものです。私は、1984年にサンノゼにあるサンタクララ教会で洗礼を受けました。私にとっての母教会です。振りかえる時に、時にかなった母教会からのサポート、手紙、祈りが、どれだけ助けとなり、励まされたか分かりません。
 私たちは、母教会として井下ファミリーのために、覚えて祈り続けましょう。日本という困難な地での伝道牧会には、様々な戦いがあります。ホノルル教会が生み出した神の働き人のために、母教会として祈っていきましょう。
 さて皆さん、あなたは神に全てを捧げて、神の働き人として生きていきたいと思われることはありますか? 導かれるなら神学校に学び、牧師、伝道者、宣教師として、その全生涯を神に捧げようと、考えたことはありますか? もちろん全ての人が、そのように召されているわけではありません。しかし、もしかしたら、あなたは召されているかもしれません。
 クリスチャンは、一度は必ず、そのことを考えてみていいと思います。私も「自分が牧師に?!」と今でも驚いています。井下修養生もそうだと思います。まさか自分が? しかし、神は「あなたの名を呼んでいる」かもしれません。耳をすましてみましょう。


関牧師


(掲載している写真はブログとは直接関係ありません。)

2008年8月21日

8月24日週報に掲載

 本日の礼拝には、井下ファミリーをお迎えしています。井下泰文修養生は(聖書学院では神学生と呼ばずに修養生と呼びます。)は、ホノルル教会から献身して、東京聖書学院で学んでいます。現在4年目のインターン生として、神奈川県座間市のひばりが丘教会で奉仕していますが、実質的にはすでに牧師の働きをされています。
 ハワイで歯科技工士されていた中で、神の召命(コーリング)受けて、奥様と乳飲み子を連れて聖書学院に入学されました。その間に、なんと二人の女子が与えられて、今回は家族5人での里帰りとなります。
 井下修養生は、KZOOラジオの「心に光を」放送を聞いて、感動したのではなく、抗議するためにラジオ局に来たそうです。しかし、それがきっかけで、教会に導かれ、クリスチャンとなり、教会にいためぐみさんと結婚され、献身まで導かれたのです。本当に人生は、どこでどう変わるのか? 神の計画は計り知れませんね。
 実は、私は井下ファミリーとは、ちょうど入れ替わりで、まだ直接お会いしたことはないのです。アルファハウスに入った時、サーフィンのロングボードに「絶対に取りに来ます」と貼紙がされて置いてありました。この3年半の間、ガレージセールにも出されずに、このロングボードは、持ち主のお迎えを待っていました。今回の来布は、これまでサポートして来た教団と教会への挨拶ということですが、日本での牧会伝道の実際を知っている者としては、ここハワイで霊肉ともにリフレッシュして、良き安息の時を持っていただけたらと思っています。

(掲載写真は井下ファミリーが聖書学院へ入学される前の2005年にハワイで撮った写真です)

関牧師


2008年8月17日

8月17日週報に掲載

 ハワイに住んでいると、時間の流れが日本に比べて相当に遅く感じます。いわゆるハワイ時間と呼ばれるものですが、この何ともスローな感じが良くてハワイに来る人と、それが嫌でハワイに住めない人と両方あるようです。
 私は、もともとせっかちな方で、集合時間の10分前には着いていたいタイプです。ハワイに来て最初の会議の時、10分前に行っても誰もいない、部屋を間違ったかなと思っていると、10分過ぎにサンダルと短パンで人々が集まり出したのには驚きました。
 そんな私も適応力があるのか、ハワイ時間がすっかり気に入ってしまっています。何だか人間らしい生活を取り戻したようです。結局、遅れるのが嫌なのは、そこで咎められることが嫌なのだと気づきました。動機は「恐れ」です。そんなことですから、遅れてしまうことに、イライラして焦ってしまうのです。しかし一方で、ハワイでは少々遅れても、あまり咎める人もいないからと平気で遅れてしまう、というのも考えものです。
 最近のこと、ワイキキに人を迎えに行くために、私は朝の混雑を計算に入れて、何分に家を出発するか決めていました。しかし、準備がうまく行かず遅れてしまい、焦りながら家を出たのです。ところが予想外に道がすいていて、到着したのは待ち合わせ時間ぴったりでした。私は何のために焦ってイライラしたのか? と何か損をしたような気分になりました。


 時間を守ることは大切です。でももっと大切なのは、時間をも支配しておられる主に信頼することだと思わされます。

関 牧師

2008年8月8日

8月10日週報に掲載

 今日は「心に光を」講壇交換の日です。「心に光を」とは、KZOOラジオを通して月曜日から金曜日まで午後2時45分から放送されているキリスト教番組です。放送開始以来、もう27年目になります。私も参加するようになって3年が過ぎました。現在は月曜日は日本の正木茂師、火曜日から金曜日までを7名のハワイの牧師が交代で担当しています。

 初めて番組に出た時、その後、多くの方から「聞きましたよ」と声を掛けていただき、この放送の影響力を肌に実感しました。実に多くの方々が聴いてくださっています。それでも何度かやっていると、うっかり放送時間をミスしてしまったこともありました。そんな時は、携帯電話で出演したこともありました。放送終了と同時に局に電話が入り、あの聖書の箇所はどこ? というレスポンスをいただくこともあります。初めてお会いする未信者の方に、いつも楽しみに聞いてます、と言われることもあります。

 ホノルル教会にも「心に光を」を通してキリストに出会った方がたくさんおられます。今神学校で学んでいる井下先生は、放送に文句を言うために訪れて、そこからクリスチャンになり、今は牧師になる学びをしています。この放送は、ながらく神戸のクリスチャンの方々のサポートを受けてきましたが、25周年を期に、ハワイの放送として自立することになりました。放送を維持するためには、それだけの経済的サポートが必要です。どうぞ献金を通して、この尊い働きに参加してくださるように、ご協力をお願いいたします。

 「心に光を」の生みの母、北村光餘子姉に感謝を込めて。
(KZOO放送局2003年の写真)

関牧師

2008年8月2日

8月3日週報に掲載

 昨日は、タンタラス山頂祈祷会が持たれた。この文を書いている今は、まだ登る前ではあるが、信仰によって、素晴らしい祈祷会であった、みな無事に守られた とあえて過去形で書かせていただきたい。

 3名の結核患者の命がけの信仰、生きている神を体験するという、これが私たちホノルル教会のルーツである。それぞれの教会には、家風ならぬ教会風というものがある。それぞれ雰囲気や特徴、賜物が違う。そして、その教会風というものは、年数が経ち、メンバーが変わり、牧師が変わっても、やはり変わらないものらしい。たまに、ルーツが教会分裂であったり、否定的な状況から教会がスタートする場合もある。そうすると、不思議と同じトラブルを繰り返す傾向がある。しかし、それも悔い改めることによって、祝福に変えられる。

 さて一転、目を将来に向けてみよう。そして幻を見よう。聖書には「幻のない民は滅びる」とあるが、幻・ビジョンを神から頂いて進んでいこう。タンタラスの山頂から、ワイキキのビル群を眺めた時、どんな幻が見えただろうか? イエスは、神の都エルサレムを見ながら涙を流された。そんな主の思いが伝わってくるようだ。混沌としたこの世界に主の愛が注がれて、人々が真の神に立ち返ることが出来るように。そのために私たちが聖霊に満たされて、今も生きているイエス・キリストを大胆に証しすることが出来るように。

 相変わらず繰り返される日本での事件、通り魔が後を絶たない、学校の教室で先生を刺し、子供が親を殺す、子供への虐待も増える一方だ。イエスは「出て行って福音を宣べ伝えよ」語られた。目を外に向けよう。あながたの光を机の下に隠してはならない。

関牧師

2008年7月26日

7月27日週報に掲載

 「なぜ山に登るのか?」「そこに山があるからだ」どこかで聞いたセリフです。8月の会報に詳しく書いているが、私たちの教会のルーツである「タンタラスの祈り」。なぜ3人の結核患者は、タンタラスの山に登ったのだろうか? なぜ山なのだろう? そこに山があったから・・・というわけではないだろう。
 聖書において「山」とは、特別な意味があるようだ。アブラハムがイサクを捧げたモリヤ山、モーセが十戒を頂いたシナイ山、エリヤが神の声を聴いたホレブ山、イエスが昇天されたオリーブ山など。人は神を求める時、しばしば山に登る。あるいは神ご自身が山に人を呼ばれる。
 もちろん、神に出会うのに、山も盆地も関係ない。山でなければということは決してない。しかし、神を求める行動の一つとして、山に登ろうとすることは、人間の本能なのかもしれない。3人の方々も、神を求めて山に登ったのだ。
 8/2(土)私たちは、なぜタンタラス山頂祈祷会を開催するのだろうか? どこで祈っても同じではないか、確かにそうだ。しかし、私たちが、本当に神を求めていること、この街の救いを求め、神のリバイバルの御業を求めていることを、行動によって現すことも意味のあることだと思う。一方で参加出来ない方、山には登らなかった丹治兄の信仰に心を留め、登る者のために祈っていただきたい。山の上で、山の下で、心を一つにして祈ろう。聖霊が大雨のごとくに、私たちの上に注がれるように。リバイバルの教会とされるように。多くの方々が救われるように、共に祈りましょう!

関牧師

2008年7月18日

7月20日週報に掲載

 いよいよ待望の男性によるフェロシップが始まります。かねてから男性の集会を持ちたかったのですが、なかなか実現には至りませんでした。やはり「神の時」というものがあります。毎週水曜日6:30PMから教会の2階でスタートします。
 たまに例外はありますが、教会は女性の方が男性より多い傾向があります。もともと女性ばかりの集まりに、男性は入りにくいものです。逆もしかりでしょう。幸いにして、私たちの群れにも男性が増えてきて、活躍の場面も目立つようになってきました。この流れを大切にして、ますます男性の集まる(もちろん女性も)教会でありたいと願います。
 現在は、男性であることの意味が問い直されている時代です。本当の男らしさとは? 強くタフな男性とは? サンフランシスコでは30代以上の男性の8割がゲイだと言います。今こそ神が、人間を男性と女性という異なった性を持った存在として創造されたことの意味が問い直される時ではないでしょう。
 男性が、家庭でも、職場でも、地域社会でも、そして教会においても、充分に活躍できるために…。聖書に基づいた確固たる価値観を身につけること。プライドを正しく扱うこと。性的誘惑に打ち勝つこと。心を開き、自分に正直であること。仲間を造ること。これらがとても大切になってきます。

 鍵は男性が握っています。この男性の集会が祝福されて、そこに救い、癒し、解放が起こるように、どうぞお祈りください。


関牧師

7月13日週報に掲載

 先週の礼拝では、森久保姉が証しをしてくださいました。神の栄光あふれる素晴らしい礼拝であったと聞きましたが、言われるまでもなく、そうに違いないと信じていました。主の完璧な計画と、計り知れない恵みに感動し、主の御名を心から賛美いたします。
 ホノルル教会の礼拝は本当に素晴らしい。喜びにあふれ、何かが起こるという期待感があり、心の底から泉が湧ていくる。神の栄光の臨在に満ちた、素晴らしい礼拝です。礼拝の中で、聖霊に触れられる。平安と喜び、暖かいものに包まれて、思わず涙があふれます。
 せっかくの日曜日なのに、どれだけ犠牲が伴っても、来ずにはおれない。この礼拝の場で、イエス・キリストの愛を体験するからです。そして天地の創造主なる神を礼拝する中で、自分の存在の意味と目的が発見されるのです。使命感を持って生きる人生が始まるのです。このお方に全てを捧げて従って行こう、この素晴らしい福音を一人でも多くの方々に伝えていこうと思うのです。
 私たちの教会は恵まれています。もっと恵まれましょう。この恵みは、分かち合っても減りません。逆にもっともっと増えてきます。たった12日間ですが、ハワイを離れてみてハワイの良さがもっと分かりました。ホノルル教会から離れてみて、私たちの教会の素晴らしさがもっと分かりました。それに妻や子供たちの素晴らしさも、もっと分かりました。

 今日も、私たちの救い主イエス・キリストを心から賛美しましょう。神の栄光をほめたたえましょう。あふれるばかりに注がれる、神の愛と恵みを全身で受け取りましょう。

関牧師

7月6日週報に掲載

 抜けるような青空、ハワイに比べてここカリフォルニアは空が高く見えます。先ほど鈴木先生ご夫妻と一緒にドライブして無事に修養会の会場に着いた所です。部屋で一息つきながら、この文章を書いています。とても静かです。普段が賑やかな中にいるので、何だが落ち着きません。でも最近、身体の方が「休みが欲しい!」と訴えているので、しばらくの間、霊肉共に休ませたいと思います。しかし、家族そろっての参加者を見ると、すでにホームシックにもなっていますが・・・。
 確かに、ここサンタバーバラは、保養地だけあって空気もきれいで素晴らしい環境です。しかしLAでは、茶色がかったスモッグが街を覆っていて、抜けるような青空とは言えません。盆地になっているのと風向きの関係で、スモッグが流れずに溜まってしまうのだそうです。マノアから見る新緑のような山々と、造りたてのような新鮮な空気、何という贅沢をしているのかと改めて思いました。
 今年の修養会は講師にマキキ教会の黒田師をお迎えしています。ご夫妻とも先ほど元気に到着されました。ハワイの牧師とまたここで会えるのも何だか嬉しいです。今晩から始まる恵みの宴の時、心から期待して楽しみにしています。
 聖霊は風のごとくに・・・とありますが、心に溜まるスモッグも、聖霊の風に吹き飛ばしていただいて、いつもすっきりフレッショでありたいですね。ホノルルの礼拝も、キリストの栄光が証しされた素晴らしい礼拝となっているでしょうね。私はサンファナンド教会でご奉仕します。お祈りください。

関牧師


2008年6月28日

6月29日週報に掲載

 ある日突然、玄関がドンドンと叩かれる。誰かが外で叫んでいる。今まで何回となく繰り返されている日常の一コマである。そう愛犬ラキが脱走したのだ。今週も近所のおばさまに連れられて、次の日にはおじさまの車に乗せられて我が家に無事帰還したのだった。
 すでに近所で有名になっていて、あのビーグル犬はLowrey aveの白い家の犬だと誰もが知っているようだ。今回の脱走劇は、床下の隙間から逃げていたものだと判明した。それにしてもラキには、何度走らされたかた分からない。ある時は熱を出して寝込んでいる中、フラフラしながら追いかけた。良い運動と言えば確かにそうだが・・・・。
 先週のこと、家の前に立っていたら、道の向こうからラキが走って来た。一瞬の出来事だった。いつの間にか脱走していたラキが自分から帰って来たのだ。脱走するのは、よほど居心地が悪いのかと思ったりするが、戻って来るのを見ると、ここが自分の帰るべき家だと分かっているようだ。
 それにしても何食わぬ顔で、受け入れられて当然の顔で帰って来たのを見て、叱る気にもならず、やけに可愛くなってしまった。自分が受け入れられるかどうか心配で帰って来た放蕩息子とはかなり違う。しかし、私たちには帰る家がある。だから脱走しても、旅に出ても、必ず帰ってくる。

 ハワイ聖会の講師だった大倉信先生は、生きる意味と目的を求めて放浪の旅に出た。そしてインドのガンジス河のほとりでイエスの言葉を聞き、その足で聖書学院に入学したのだった。イエスのもとに帰ったのだ。どんな自分であっても、イエスのもとに帰る者は必ず受け入れられる。イエスこそ、私たちの永遠の家である。

関真士牧師

2008年6月20日

6月22日週報に掲載

●会堂建築は未来のために●

 1926年ワイアラエの黒田フイ宅で始まった家庭集会が萌芽となり、1929年正式に教会が誕生する。1932年モイリリ地区に会堂をリースする。以後1946年、1952年と移転を繰り返し、1959年に現在のマノア地区に落ち着く。1981年、現在の教育館が$630,00で建築される。この費用は全額が献金で支払われ、銀行からのローンはなかった。この出来事は当時の新聞にも取り上げられるほどの快挙であった。

 それから27年が経った。現在私たちが取り組んでいる「教会リニューアル」会堂建築のプロジェクトは、この教会の歴史の流れの中にあることに心を留めたい。現在1981年の教育館建設を体験した方は、本当に少なくなった。ある方は召され、ある方は高齢のために教会に来ることが出来ない。私たちが現在使用している教会施設は、当時の方々の大きな信仰と犠牲の上にある。それを私たちは感謝をもって使用させていただいている。

 私たちが取り組んでいる会堂建築は、今の私たちに必要であるかどうかも大事だが、30年後、ホノルル教会で活躍しているであろう方々のためでもある。先輩の聖徒たちが現在の私たちのために残してくれた建物に感謝し、同時に私たちの子供、孫たちの将来のために、今の私たちの信仰と犠牲が教会の未来を拓くものとなる。


関牧師



2008年6月13日

6月15日週報に掲載

 今日は、父の日ですが、現在「父の学校」という運動が韓国の教会で始まり、それが全世界に広がっています。ウェブページから文書を転載します。

 「父親は家庭の大黒柱です。また、家庭は社会の基です。多くの家庭が崩れつつある今日の社会において、「父の学校」は、お父さんたちが父親の使命と役割を認識し、家庭のあり方と大切さを悟り、本来の家庭を蘇らせることをサポートをします。「父の学校」の学びを通して、父親ご自身が成熟していくことにより、家庭、そして社会が変わることが経験できます。 変化と成熟は赦しと癒しから始まります。父の学校には、赦しと癒しがあります。赦しと癒しは関係の回復です。すべての関係の始まりは私たち、父親です。お父さんたちよ、真の休息と平安がある家庭を作っていきましょう。」

 ハワイでもこのような「父の学校」が出来たら、真っ先に受講したいなと思います。現代社会を回復させる大きな鍵を持っているのは、父親です。しかし、その父親自身が迷いと痛みの中にあります。まず父親が赦しと癒しを経験することです。そのためには、父親自身が心を開き、適切なサポートを受けることが必要です。

 私たちには3つの父があります。天の父なる神、血縁の父、父としての自分。この3つの関係が正しく結ばれる時、父という存在がこの地上で輝くことが出来ます。世の中の父親が、自らに誇りと自信が回復し、神を父とする正しい父親像を取り戻し、家庭を築き、守り、妻と子供たちを愛していくのです。お父さん! 立ち上がりましょう。

メッセージは ここをクリック

関牧師

2008年6月8日

6月8日週報に掲載

 教会が活動していくためには、様々な働きが必要ですが、私たちは、その働きを「奉仕」と呼びます。それは、教会での働きは、神と人とに仕えるものだからです。世の中の働きは、自らの生活のため、キャリアのため、名誉のため、色々あります。多くの場合は、仕えることより、仕えられる立場を目指して頑張ります。

 しかしイエスは「仕えられる者ではなく、仕える者になりなさい」と言われました。だから私たちは、あえて「奉仕」と呼びます。教会の中では、仕えられる者ではなく、仕える者が神の目に尊ばれます。

 先週の礼拝後に奉仕者フェアーがありました。教会の様々な奉仕の報告、証がありました。目立つ奉仕、目立たない奉仕、様々です。その報告や証を聞きながら、ここに「キリストの教会」があると確信しました。それぞれが神から与えられた賜物を活かして奉仕している姿を見て、心から主に感謝しました。

奉仕の心得が幾つかあります。

 まず仕える心を持つことです。それは相手の益のために、必要のために、自らを喜びをもって捧げることです。会堂に入って、ごみが落ちているのを発見し、近くの方にそれを伝えるか。それとも自分で拾うかの違いです。

 報いは主にあることを知ることです。誰の目に触れなくても、評価が得られなくても、ただ主の報いがあります。天に宝を積むことです。賜物に応じて奉仕することです。一人一人に必ず賜物が与えられています。その賜物を用いることが大切です。

関牧師

2008年6月1日

6月1日週報に掲載

 ここのところ、常夏のハワイにも、季節の変わり目というものがあるのだと実感しています。暑さと雨が降らないために、マノアの牧師館の庭の柴も枯れてきました。ああ夏が来たんだなと感じましたが、ハワイで夏を感じるというのも不思議なものです。

 たまにマノアの谷を山沿いに歩いて散歩します。色々な家や庭を見るのがとても好きで、特に木造りの古い家が大好きです。おまけに木の電信柱が立っていて、そんな中を一陣の風が吹き抜けます。風にも色々あって、時には晩秋の風、初夏の風などなど、懐かしい匂いがしたり、そんな風に吹かれると、ふっと子供の頃の気持ちや、夕暮れ時の町並みなどが思い出されます。

 ハワイに来て、風を感じることが多くなりました。今私が受けているこの風は、どこを旅して来たのだろうか? 太平洋の大海原を通って、その前は? そしてこれからどこへ行くのだろうか? 目を閉じて、両手を広げて身体一杯に風を受けると、太平洋の大海原に一人立っているような感覚になります。全ての風が、自分に向かって吹いているようです。自分も「千の風」のような詩が書けるのではないかと、一瞬詩人になった気分です。

 神の恵みも風に乗ってくることがあります。「風は、思いのままに吹く」とイエスは聖霊のことを表現しました。聖霊の風に乗って、神の愛、平安、希望が吹いてきます。心を一杯に広げて、全身でこの風を受けましょう。この風の中で、すべてが癒されていきます。
風を感じられる生活、いいですね。

関牧師

2008年5月26日

第7回賛美フェスティバル 「ただ信ぜよ」

5月24日(土)2008年
ハワイ日本語キリスト教会連盟主催でオアフ島にある日本語キリスト教会が集まって賛美フェスティバルを開催しました。 
その時、ホノルル教会が賛美した様子を動画で紹介します。



ごゆっくりとお楽しみください。


2008年5月23日

5月25日週報に掲載

 最近「グリーフ ケア」という言葉が注目されている。「グリーフ」とは「悲嘆」という意味である。悲嘆の原因として、愛する対象との別れという「喪失体験」が考えられている。もちろん愛する人が亡くなるという喪失を筆頭に、可愛がっていたペット、思い出のある家を火災で喪失した、引越しなどで人間関係を喪失した、あるいは健康を喪失した、という様々な喪失体験があります。
 どれにも相応の「悲嘆」が伴います。ここで明らかにしたいことは、悲しむことは人間として自然な反応だということです。しかし、幾つかの誤解があります。「信仰の強い人は悲しまない。愛する人を失っても天国の希望があるから笑顔でいられるはずだ。悲しんでいるのは、信仰が弱いからだ」これは全くの誤解です。あるいは「男は泣くな」と言われますが、どんな理由でも悲しむことを禁止されたり、否定され、充分に悲しむことが出来ないということは、とても辛いことです。あるいは、生きていくためには、悲しんでなどいられない、という状況の中で涙をぐっと堪えて生きて来た方もいるかもしれません。
 だからこそ、イエスの「悲しむ者は幸いだ」という言葉が心にしみます。悲しむべき時に悲しめる、涙する時に涙を流せる、それは幸いなことなのです。ですから立場を変えて、私たちは悲嘆にある人に接する時にも、悲しみをなくそうとしないで、充分に悲しませてあげることが大切です。そうすることで、喪失を乗り越えて生きる力が出てくるのです。

「イエスは悲しみの人」であると聖書に記されています。だからイエス様は悲しむ人を慰めてくださるのです。

関真士牧師

2008年5月17日

5月18日週報に掲載

 今日は窓の外が曇っています。白い霧がかかっているように見えますが、おそらく火山の影響でしょう。心なしか太陽の光も鈍くなっているようです。
 北国のロシアでは冬季うつ病というものがあって、太陽が見えず鉛色の空が続くと、気分が滅入ってしまいます。そんな時に、どんな治療をするかというと、光を身体全体に照射するのだそうです。私たち神に造られた人間は、身体にも心にも、光が必要です。天地創造の最初に神は「光よあれ」と仰せられて、最初に光を創造されたのは意味深いことです。人間は、光に照らされて生きる者です。
 ただ興味深いのは、光が創造された後に、太陽が創造されたということです。つまり、この光は、太陽の光ではなく、もちろん電気などではありません。この光の光源はまったく別にあります。たとえ、太陽が沈み、全てが暗闇に閉ざされても消えない、輝く光です。
 イエスは「私は世の光です」と言われました。この光の光源は、イエス・キリストです。聖書には「明るみに出されたものは、すべて光となる」と書かれています。光は、時に私たちの心の隅々、人生の隅々までも照らし出します。だからあまり明る過ぎても困ります。泥棒さんのように、暗い方が好きという場合もあります。
 しかし、イエスの光は、裁き、咎める光ではありません。暗闇を光に変える光です。どんな濃い暗闇も、光に触れるなら一瞬で光に変えられます。イエスの光は、愛と赦しの光です。この光を全身に浴びて歩んでいきましょう。

関牧師

2008年5月9日

5月11日週報に掲載

 今日は、「ペンテコステの日」であると同時に「母の日」でもあります。「母の日」に対して「父の日」もあるわけですが、女性と男性という異なる二つの性が一つとなるときに、神のイメージが浮かんできます。
 母なる存在とは、母なる河とか、母なる大地という言い方をするように、無条件に全てを包み込んでいく「無償の愛」を象徴しています。それは受容であり、赦しであり、包含です。
 対して父なる存在の特徴は「断ち切り」です。善と悪を分け、正義と不義を明らかにし、そこに自立をもたらします。
 誰かが何か失敗したとします。女性的な人は、まず励まして、赦して、支えようとします。男性的な人は、何が悪かったのかを明らかにし、次に同じ失敗をしないように教えます。そしてぺネルティを与えます。
 もし、どちらか一方だけのアプローチしかなければ、それは甘えか、拒絶か、いずれにしても偏ったものになってしまいます。私たちは、励ましと赦しを必要としますが、物事の正しい道筋を知ることや、責任を刈り取ることも必要です。
 男性も女性も、母も父も、異なった性質を持っています。それが衝突したり、一方が否定されるのではなく、お互いが補い合うことが出来れば、それは人生に素晴らしい祝福をもたらします。
 母なる存在、それは父なる存在に支えられた存在です。逆もしかりです。聖霊の助けによって、母にも父にも祝福がありますように。


関真士牧師

2008年5月3日

5月4日週報に掲載

 さて今年もペンテコステの日が近づいて来ました。ペンテコステとは、ユダヤの祭りの名前で、おもに収穫の感謝の祭りです。この祭りの時に聖霊が降ったので、教会では、聖霊降臨記念日とか、ペンテコステの日などと呼ぶようになりました。
 キリスト教が国教のドイツなどでは、この日は国民の休日となっているくらい、教会にとって大切な日です。それもそのはず、この聖霊が降った時に、教会が目に見える形でこの地上に誕生したからです。ですからペンテコステは、教会の誕生日と呼ばれます。
 最近はスピリチュアルブームで、霊の世界が身近になってきているし、霊的なことは、もはや迷信ではなくて、現実のものとして受け入れられています。しかし、霊的な世界に対する免疫がないので、霊だと何でも信じてしまう傾向があるのを危惧しています。Ⅰヨハネ4:1に記されているように「霊だからといってみな信じてはいけない。その霊が神からのものかどうかを試しなさい。」という言葉は、本当に重要だと思わされます。
 私たちはスピリチュアルブームの危険性や落とし穴について教えていかなければなりません。しかし、それ以上に聖霊なる神の素晴らしさを伝えて行きたいと思います。確かに霊の世界はあります。だからこそ、それが聖霊なのか、悪霊なのかを見分ける必要があります。
 聖霊なる神は、キリストの霊です。天地を造られた神の霊です。悪霊は人間の肉欲を満たそうと誘惑しますが、聖霊は私たちの魂を満たしてくださいます。そして神に造られた人間として、真に生きるべき道に私たちを導いてくださるのです。

関牧師

2008年4月27日

4月27日週報に掲載

 まだ身体のあちらこちらがガクガクしています。先日のソフトボールの試合では記録的な点を取られて無念の一回降板となりました。なんと18点も取られて、しかもピッチャーで…。しかし、負け惜しみではないが、とても楽しかった。身体を動かして、大声を出して、スポーツはいいですね。
 今回は、マキキ、IJCC、ホノルルの3教会合同チームと、サンライズレストランのお仲間チームとの対戦でしたが、皆で集まって共に汗を流すというのは、実にいいですね。また継続してやりますので、次回のリベンジに向けて、皆さん身体を鍛えておきましょう。
 私が、これまで一番熱中したスポーツといえば、バレーボールでした。背が高くなりたいという一心でバレー部に入り、セッターに廻されたので、背は伸びず、指が短くなっただけでした。しかし、めちゃくちゃ練習して、1年生からレギュラーを取って大活躍?しました。
 私の時代には、まだスポーツ根性物語が優勢で、巨人の星やキャプテンなどの漫画にずいぶん影響されたものです。泥と汗にまみれて、立てなくなるまで練習をするという世界がなぜか好きでした。こんな練習の仕方には賛否両論あって、今ではもっと科学的根拠に基づいた練習が行われているようです。根性だけではだめなようです。
 もちろん信仰は、根性で維持するものではありません。恵みの世界ですから。しかし終末の時代にあって、根性のすわった信仰も必要でしょう。根性というより忍耐と言った方がいいかもしれません。何があっても「イエスは主」と言える者でありたいですね。その志を持つ者にこそ、聖霊の助けはあるのです。

関牧師

2008年4月18日

4月20日の週報プログラムに掲載

堀内政行兄 91歳 天国へ凱旋

 まさに「凱旋」という言葉がふさわしい聖徒の死でした。天においては、天使たちが最敬礼をもって、堀内兄を迎えていることでしょう。 堀内兄は、1944年4月9日に受洗されています。当時の牧師は福田吉郎師でした。ちなみに、ふみ夫人の方は少し早く1939年11月26日同じく福田師より洗礼を受けておられます。
 お二人の信仰人生は、そのままホノルル教会の歴史と言えるでしょう。長い歴史の中では、嵐の吹く時もあったことでしょう。とりわけ第二次世界大戦は大きな試練の時であった察します。しかし、堀内兄を始めとし、多くの聖徒たちがその信仰を守り通し、礼拝を守り続けて来てくださいました。召される前の礼拝まで、ふみ夫人と二人で礼拝を捧げている姿は、それだけで、私たちに多くを語り、信仰の何たるかを示してくだいました。
 ふみ夫人が語られました。「ハズバンドは、言葉数は少ないけれど、祈りの勇者だった。私も子供たちも、ハズバンドの祈りで支えられて来たのです。」また、私たちも、教会も、この勇者の祈りによって支えられてきたのだと思います。教会の祈祷課題を見て、いつも祈っていてくださったそうです。
 私が堀内兄を病院に訪ねた時、最後に聴いた言葉は「アーメン」でした。とても力強く特別な「アーメン」でした。この一言が堀内兄の信仰人生の全てではなかったと思いを巡らせています。「アーメン、賛美と栄光と知恵で感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン」  黙示録7:12

関牧師


2008年4月6日

4月13日プログラムに掲載

 教会の歩みの中において、会堂建築は最も大きな出来事の一つです。 本日の教会総会において、その是非が問われることになります。
 私たちが物事を決める時、二つの視点が必要です。まずは、会堂が建った時の状況をビジョンとして見ることです。次に実際に目に見える現状を直視して、目的達成のためには、どれだけの犠牲が伴うのかを見極めることです。 そして神の御心を求めることです。私たちクリスチャンは、状況を直視しますが、状況で判断しません。 なぜなら神が良しとされるなら、どんなに状況が悪くても、必ず成るからです。
 神の御心ならば、どんな難事業も必ず成ります。しかし、御心でなければ、石ころ一つでも動かすことは出来ません。私たちが状況を直視するのは、信仰が現実的であるためです。ひと時の感情や勢いは、状況の変化に影響されます。 しかし、現状を直視した上で与えられた信仰は、状況の変化にも影響されません。
 だからこそ、私たち一人ひとりが神の御心を悟ることが必要なのです。 本日の教会総会の選挙では、一人ひとりが自分の意志をしっかり持って投票してください。 そして、その一票が教会の将来に大きく関わるのだという自覚をもって投票にのぞみましょう。 総会の中では、質疑応答も持たれます。 「?」があればどんなことでも質問してください。 大切なのは、一人ひとりがコミットメントを持って教会と関わり、自らの確信に応じて投票することです。そのように投票されるならば、その結果は、神の御心と呼ぶことが出来るからです。

関牧師




2008年4月5日

4月6日プログラムに掲載


 ゴールデン・シャワーツリーの鮮やかな黄色が、街を華やかにしている。毎年、この燃えるような黄色の花を見ると、皆さんに出迎えられてホノルル空港に降り立った時のことを思い出します。ちょうど3年前にハワイに赴任した時に、初めて目に映った花でした。
 今自分たちがここにいることの不思議、そして神の計り知れない導きに感謝するばかりです。この3年間の間で、主任牧師としての就任、そして現在の新会堂の建築計画と、大きな出来事が続きます。教会という所は単なる建物でもなく、ただの集団ではありません。それはキリストの体です。ですから命があります。命のある所には躍動があり、成長があります。成長には変化が伴います。教会は常に、躍動し、成長し、変化し続けるものです。私たちは、教会の営みの中で、いつも気づかされること、いや常に知るべきこと、それは教会のかしらはキリストである、ということです。
 ちょうど教会の聖書通読でヨハネの第三の手紙を読みました。そこには、教会の中でかしらになりたがっている人物がトラブルを起こしていることが書かれていました。教会の歩みの中で、最も大切なことは、誰がかしらなのか? ということです。牧師ではありません。役員でもありません。かしらはキリストです。キリストを差し置いて、自らがかしらになろうとすると、必ずトラブルになります。
だからこそ、教会のメンバーの一人一人が、このかしらであるキリストに結びついて、そこに人格的な関係を持っていくことが大切です。そして、いつでもかしらなるキリストの御心を求めて、従っていくのです。教会はキリストの体であり、かしらはキリストです。

関牧師



2008年3月28日

3月30日プログラムに掲載

 先日、ラジオで聞いたフレーズが心に残ります。「他人と過去は変えられない。しかし、自分と未来は変えられる。」確かにそうだと思いました。変えられないものを変えようとすると行き詰まります。変えるべきものを変えないと、何も変わりません。キリストとの出会いは、変わるべきものが、変えられる時となります。

 先日は、日本から宮田ファミリーがハワイまで来てくれました。夫婦で洗礼を受けてから丸一年が経ち、その洗礼を受けた3/18に再び来られました。洗礼を受けてからの様々な経験をシェアーしてくれましたが、どんな中にあっても一心に主を求めている姿に感動しました。確かに主の恵みが、このファミリーを捕らえてくださったのだと、また一年後に会うのが楽しみです。
 宮田夫妻は、日本に帰る最後の日曜日に洗礼を受けました。その2日前ほどにお会いして、お二人の信仰の告白を聞かせていただきました。洗礼を受ける、クリスチャンになる、ということは一大決心です。それは大きな変化を伴うからです。変化の度合いは個人差があるでしょうが、特にクリスチャンの背景のない中で生きて来た方にとっては、相当に大きな変化になります。お二人もクリスチャンになったがゆえの生き方、価値観の変化の中で、戸惑いつつも、しっかりと変えられた自分を生きています。

「誰でもキリストの内にある者は、新しく造られた者である。」(Ⅱコリント5:17)

 実際に人間は、他人と過去だけではない、自分と未来だって変えられない。ただキリストの内にある時だけ、すべてが変わる。勇気をもって、キリストの下さる変化を受け入れよう。

関牧師




2008年3月22日

3月23日プログラムに掲載

◆主イエス・キリストの復活をお祝いします。◆

 最近、嬉しくも困ったことがあります。携帯電話がよく鳴るのです。ミスコールが5コ、6コということもあります。正体は、まあやちゃんです。私の携帯電話の番号を暗記したらしく、学校が休みということもあって、続けざまに何度も携帯が鳴ります。これは、困ったと思いながらも、やはり嬉しさが増します。 電話の向こうで娘の声が聴こえると、思わず顔がゆるくなってしまいますある子供の施設でのことです。
 先生が子供たちに、お金の価値を教えていました。1円玉、5円玉、10円玉、100円玉、500円玉を並べて、一番価値があるのは500円玉だと説明します。そして「一番価値のあるのはどれ?」と質問するのですが、一人の子供だけは、何度教えても10円玉を指すのです。ある時、聞いてみました。「なぜいつも10円玉をとるの?」生徒は「この10円玉でお父さんに電話をかけるの」と答えました。この子供にとって、最も価値あることは、お父さんと話せることだったのです。
 時代は変わり、公衆電話から携帯電話になっても、子供の気持ちは同じだろうと思います。そして父親の気持ちも同じだろうと。その子供のお父さんも、きっと顔をゆるめて電話を待っていたのだろうと思うのです。 復活祭、それは主は生きておられるという喜びの日です。一日の内に何度も何度も主に電話しても、主はきっと喜んで、あなたからのコールを待っていてくれるのです。時にはイマージェンシーコールということもあるでしょう。10円玉ならぬ、復活の主を信じる信仰を握って、今日も復活の主にコールしましょう。

関牧師




2008年3月21日

3月21日プログラムに掲載

「グッドフライデーを迎えて」 

 受難節(レント)の最終日は、イエス・キリストが十字架にかかった日、つまりグッドフライデーとなっている。主の十字架を想う時、それは自分のための十字架でもあり、イエスと共につく十字架でもあり、また負うべき十字架でもある。今日のグッドフライデーの時、私たちは共に「負うべき十字架」について考えてみたい。
 十字架とは、迫害であり、抑圧、痛み、苦難のすべてである。そのような十字架を負うなどということは、現在の世の中においては、あるいは教会の中においてさえも、疎まれるメッセージであるかもしれない。
 しかしイエスは次のように語られた。「自分の命を捨てる者は、それを得る」。本当の命、本当の愛、本当の勝利は、十字架を通った、その先にある。十字架を通らなければ決して見えてこない世界がある。
 私たちが負うべき十字架は、自らの罪のゆえではなく、イエスに従うがゆえの十字架である。イエスに従うなら、十字架を負わなければならない。イエスのように愛するがゆえに、傷つき、痛み、苦しむのだ。 しかし、それは尊いことだ。イエスのために苦難をも共に出来るのなら、幸いなことだ。
 しかし生来、私たちは出来るだけ十字架を負わないようにと考え、生きてきた。ある意味で正反対の生き方だ。そんな私たちが、どうして主の十字架を負うことを願うのだろうか...。 この魂の底から湧き上がるような願いは何なのだろう。痛みと苦難があると分かっていても、それでも主に従おうとする。そして数え切れない聖徒たちが、主のために喜んで命さえも捨てて主に従ったという歴史の事実。
  なぜ…? それは「喜び」のゆえだ。十字架の向こうにある喜びを見るからなのだ。その喜びは、救いの喜び、天国の喜び。この喜びがあるからこそ、十字架を負ってまでも主に従いたいと思わされるのだ。

関真士牧師




2008年3月15日

3月16日週報に掲載

 健全な信仰生活というのは、常に実生活に根ざしているものです。この世から隠匿した世界ではなく、人生の現場で実が結ばれるものです。目に見えない信仰の世界と、目に見える実生活とは常に一つであります。これを切り離すと、信仰は健全さを失ってしまいます。
 私たちの教会は、今新会堂建築のプロジェクトを進めています。しかし、目に見える会堂のリニューアルを求めるなら、同時に目に見えない信仰のリニューアルも求められます。会堂のリニューアルと、信仰のリニューアルは同時進行に進んで行きます。新会堂のプロジェクトは単なる建物のことではなく、神の栄光に関わることなのです。

 それではリニューアルとは、何でしょうか? それは教会全体が、そしてメンバーの一人一人が、主との関係をより豊かなものにすることです。そして、主への献身と従順がより深められ、喜んで主に従う者たちの群れとなっていくことなのです。さらに、これを導いてくださるのは、聖霊ご自身です。今、私たちの教会の中で、聖霊が働かれ、御心を行っていてくださることを信じましょう。
 英語部からの呼びかけで、日英合同祈祷会を行うことになりました。7週間に亘って、毎週土曜日の朝7時から礼拝堂に集まります。是非、主から志をいただいて参加しましょう。日語部では、すでに信仰の基礎的な学びが始められ、ミニチャーチの働きも継続されています。これらに加えて、さらに聖霊からアイディアをいただいて、信仰のさらなるリニューアルを求めていきたいと思います。もし、本気で主を求めるなら、主はご自身を豊かに現して下さいます。もっと主の愛を体験し、もっと主を愛し、主の働きに参加させていただきましょう。

関牧師



2008年3月9日

3月9日週報に掲載

 とうとう捕まってしまった。マノアロードを軽快に飛ばしていたら、20マイルオーバーで止められてしまった。ポリスに職業を聞かれたので「牧師」と答えたら、ポリスカーに戻っていったので、牧師割り引きかと思ったが、そんなものがあるわけもなく、しっかりと罰金を言い渡されてしまった。
 この罰金で何が買えただろう、などと考えていると辛いので、そんな考えはやめて、前向きに考えることにしました。これは、やはり神からの「急ぎ過ぎるな」という警告として受け取ることにしたのです。そう考えると、これも神の守りであることも分かり、感謝が湧いてきました。一昔前に「狭い日本、そんなに急いでどこに行く」という標語が流行ったことがありましたが、もっと狭いハワイで急いでもしかたない、もっとゆっくり行こうと思いました。


 日本から石川優子姉が来られて、ハープやオカリナによる賛美をしてくださいました。音楽というのは、神が人類にくださった素晴らしいギフトです。音楽は、人間の深い所まで入っていける力があり、理屈や感情を超えて、人間の魂の領域にまで直接入っていけるものです。 全身の力を抜いて、リラックスして、ハープの音色に耳を傾けると、急ぎ過ぎている体のリズムが、正常に戻るような気がします。本来のリズムを取り戻すような感じです。
 本来、急ぎ過ぎる傾向がある自分なので、ゆっくり目の妻が与えられていることも感謝です。大切なのは、神のペースということです。早過ぎでも、遅過ぎもでない、神のスピードがあります。それが一番安全で快適なスピードなのだと思います。

関牧師


2008年2月29日

3月2日週報に掲載


 「ああ気持ちい!!」 マノアの谷を吹き抜ける貿易風。毎日、毎日、感動しています。太平洋の大海原を通り、コオラウ山脈でたっぷりと緑の息を取り入れた、最高に新鮮な空気を吸わせてもらって、こんなリッチな神の恵みはないでしょう。感謝、感謝の日々です。
 ところで最近、「古きを知り、新しき夢を見る」というフレーズが頭から離れません。私たちの教会は、すでに天に凱旋された多くの聖徒たちによって築かれ、支えられて来ました。1926年、3名の結核患者が癒しを求めて決死の祈りを捧げるため、タンタラスの山に登りました。三日間の断食祈祷の結果、癒されて下山した3名を見て、多くの人がクリスチャンになったそうです。これがホノルル教会の萌芽となりました。以来、今日までどれだけ多くの神の恵みが注がれて来たでしょうか。数え切れない証しがそこにあることでしょう。そんな証しを信仰の先輩からお聴きして、私たちの立ち続けるべき信仰を確認したいですね。
 また、主の再び来られるその日まで、主の教会は歩き続けます。私たちの子供たち、孫たち、次の世代に信仰のバトンを渡して行かなければなりません。私たちは、彼らに何を残していけるでしょうか。教会の将来を展望し、夢を描いて行きたいですね。10年後、20年後、私たちの教会はどうなっているでしょうか? 私たちが今祈っているこの祈りが、この信仰が、この証しが、きっと何十年先の教会を支えているのでしょう。そうでありたいですね。
 教会のプログラムは忙しいですが、いつか「古きを知り、新しき夢を見る」そんな集いが持てれば素晴らしいですね。

関 牧師


2008年2月24日

2月24日週報に掲載

 数年前に日本にいた時、いつものようにれいに髪の毛を切ってもらっていました。バリカンで刈り上げてもらっていたのですが、突然れいが無口になり、ただならぬ緊張感が頭の上に感じられました。どうやら手がすべったらしく、どうしたらいいのか、大変な事態に頭が真っ白になってしまったのでした。
 ある程度の覚悟を決めて鏡を見ると、そこにはさっぱりとスポーツ刈にされた自分がいました。呆然としていると、すかさずれいが、「似合ってる、最高!」と必死に励ましてくれます。妻の励ましに弱い私は、その気になって、以来スポーツ刈で通して来ました。
 その事件がきっかけであるのは確かですが、もう一つスポーツ刈を受け入れた理由は、頭のてっぺんが寂しくなってきたからでした。また、何と言っても手入れが簡単で、暑いハワイにはぴったりの髪型でした。しかし、いよいよ髪の毛の数が寂しくなってくると、夢よもう一度ではないですが、何かむしょうに髪の毛を伸ばしたくなるものです。そんなわけで、最近髪の毛を伸ばしているのですが。それには、これほど深い? わけがあったのでした。
 それにしても、どれだけ多くの方が牧師の髪型に関心を持っておられるのか、よく分かりました。今の髪型に対して賛否両論が激しく、どちらかと言うと賛成派が優勢のような気もしますが、反対派も巻き返してきます。
 まあ、とにかく私の好きなようにさせてもらおうと思っています。髪の毛のある人も、ない人も、長い人も、短い人も、髪の毛の数まで知っておられる神を、今日も共に礼拝しましょう。

関牧師




2008年2月16日

2月17日週報に掲載


 先週の礼拝では、クライブ宣教師のメッセージがありました。「赦し」というテーマで、とても考えさせられる内容でした。クライブ&マーヤ宣教師夫妻は、以前福岡で宣教師活動をされ、現在は再び日本に宣教に行くための準備をしています。受け入れ先教会や、経済的なサポートなど、様々な準備が必要です。
 日本から見て海外で働く者にとって、日本宣教に重荷を負ってくださるということは、本当に感謝で一杯です。日本は「宣教師の墓場」と言われるほどに宣教困難な地です。私も以前に牧会していた教会では、ドイツ人の宣教師と一緒に働いていました。彼の同僚は、アフリカに宣教に行っていました。彼らの属する宣教団体には毎年活動レポートが送られるわけですが、アフリカからは何十、何百人と洗礼を受けた、教会堂が建った、神学校が出来たとレポートされます。しかし、私の同僚は、受洗者ゼロ、今年もゼロ、経済的なサポートの要請も変わらず、何年経っても自立できない。
 宣教師にとって、ジャングルの奥地や、イスラムの国へ伝道に行くことも困難ですが、日本もまた最も困難な宣教地の一つです。そんな国に、誰が好んで行くでしょうか。それをあえて、日本を愛し、日本のために人生を捧げてくださる。ただ感謝です。
 私が高校生の頃、喧嘩に明け暮れ、とうとう袋叩きで全身打撲で入院しました。そのベッドに一人の宣教師がやってきて祈りを捧げました。嫌で嫌でしかたなかったのを覚えています。そんな若者が、やがて牧師になりました。確かに困難です。しかし主は生きておられます。日本も愛されています。必ず日本にもリバイバルが起こります。

関師


2008年2月10日

2月10日週報に掲載

「受難節を迎えて」

 さて、先週の2/6(水)より、教会暦によると受難節(Lent)が始まっています。これは、復活の日からさかのぼって46日前より始まるものです。この期間は、イエスの十字架の受難に思いを向けていくための期間になります。2/6の水曜日を「灰の水曜日」と呼び、「灰」とは悔い改めを意味しています。3/16の日曜日は「棕櫚の主日」と呼ばれ、イエスが子ロバに乗ってエルサレムに入城した日を思う時となります。その時に群集が、棕櫚の葉を道に敷いてイエスを迎えたからです。
 そして棕櫚の主日(3/16)から3/22(土)の一週間を受難週と呼びます。その週の3/21(金)がグッドフライデーと呼ばれ、イエスが十字架にかかった日を思う時となります。3/23(日)は復活祭です。グッドフライデーの日は、毎年ホノルル教会で特別集会を持っています。今年は、7:30PMよりサービスを行います。是非ご参加ください。
 受難節の過ごし方は、教会によって様々ですが、断食をしたり、肉類や好物を断ったりする事もあります。ちなみにカーニバル(謝肉祭)とは、受難節の前にたくさん食べて楽しんでおこうというのが始まりです。ホノルル教会では、特に受難節の過ごし方を決めていませんが、いずれにしても、イエスの十字架への道を黙想し、より深い十字架理解、体験へと導かれることが、受難節を設ける目的です。そのために各自が、それぞれの方法でイエスの十字架に近づいていきましょう。 最後の受難週には、黙想のテキストを配布します。共にイエスの十字架への道程を辿りましょう。そして復活祭には、歓喜にあふれて、復活の主を礼拝しましょう。

関牧師




2008年2月1日

2月3日週報に掲載

 先週は、牧師リトリートのためにLAのパサデナに行ってきました。カトリックのリトリートセンターで持たれたもので、教団所属の日英の牧師が一同に集まりました。普段はメールでのやりとりですが、やはり顔を見合わせての交わりは恵まれます。無事にハワイに戻ってきました。皆さんのお祈りを感謝いたします。
 今回のリトリートでは、文字通りのリトリート、神の御前に静まることが出来ました。その施設の広い庭には、イエスが十字架にかかるまでの受難の行程に合わせて、14箇所のレリーフがあります。それを1番から順番に、祈りつつ廻りました。今回は、イエスの十字架の意味を、また新たに知り、体験することが出来ました。教会暦の上では、受難週が近づいてきましたが、共にイエスの十字架をさらに体験させていただきましょう。
 今回のリトリートには、アーネスト・キルボルン師が参加されていました。現在88歳です。ホノルル教会の英語部の初代牧師として1950年に赴任されたと聞きました。キルボルン師が2度メッセージをされましたが、その魂は熱く燃え、聖霊に満たされている姿を見て、本当に感動しました。午後のブレイクの時には、なんと4時間に及ぶ山登りに行かれ、同行した若手の牧師たちが、その健脚ぶりに驚いていました。
 一年に一度のリトリートでしたが、神の御前に静まることの大切さを再認識しました。

静まって、わたしが神であること知りなさい

(詩篇46)

静まれば、神を知ることが出来ます。教会でもリトリートをしたいですね。

関牧師


2008年1月25日

1月27日週報に掲載

 先週の火曜日には、連盟の活動の一環としてクワキニ病院のデイケア慰問に行ってきた。
一年に一度ホノルル教会に担当が廻ってくるのだ。プログラムは、シャロンフラチームによるフラ、真柴姉による日本の童謡、松田兄によるジェスチャーゲーム、牧師のメッセージという内容であった。
 30人くらいの高齢者の方々と共に過ごした1時間弱のひと時。最初は緊張感もあったが、段々と暖かいものに包まれ始め、お一人お一人の上に、神の愛が注がれているのを感じた。この方々は、どのような人生を歩んで来られたのだろうか。皆さん、あの戦争を体験され、戦後の社会を築いて来られた方々だ。この方々の前に立った時、若輩者が何をお伝えすることが出来るだろうと思った。しかし、目の前に座っているお一人お一人の存在が、どれだけ尊いものであるか、何か心に迫るものがあった。
 心を込めて、導かれるままに語った。普段からメッセージを語っていると、しばしば語っている言葉が聞き手の心の中に入っているという感覚を体験する時がある。まさに今回は、そのように言葉が聴衆の心の中に入っていると感じられた。心と心、魂と魂が触れ合うような感覚だ。それは、聖霊のお働きによる。
 プログラムの最後に、お一人お一人と共に、握手をさせていただいた。ひときわ笑顔の素敵なおばあちゃんがいたが、その方はクリスチャンだった。やっぱり! と嬉しかった。握手をするごとに、こちらの方が満たされていく。何とも素敵なひと時であった。
来年は、是非、皆さんもご一緒しましょう。

関牧師

2008年1月18日

1月20日週報に掲載

 先週の合同クラスでは、私と妻のために、皆さんからたくさんの励ましの言葉をいただき、本当に感謝で一杯だった。出席できなかった方のために説明すると、皆で輪になって座り、一人一人が牧師夫妻のために、励ましの言葉を語ってくださったのだ。
 このような企画は聞いたことがない。お別れパーティーならあるだろうが、普段ではまずないだろう。声を大にして、私たちの教会は、牧師夫妻にこんな素晴らしい事をしてくださるのだ!と叫びたい気持ちだ。これだけ励ましていただいたら、力が湧いて来ないはずがない。同時に、牧師夫妻の与える影響の大きさも痛感し、やる気倍増の中にも、牧師職の務めに対する厳粛さも感じている。
 あるカナダ人の牧師の話しである。彼は日本が好きで千ピースの富士山のパズルに挑戦したそうだ。999ピースまで完成した所で、あと1ピースが足りない事に気がついた。紛失したのか不良品なのか、いずれにしても1ピースが足りない。しかし、せっかく作ったのだからと思って、1ピース足りないまま額に入れて飾っておいた。ある友人が彼の家を訪ねて来た時のこと、そのパズルを見て第一声、「おかしい!1ピース足りない!」と言ったそうだ。
 私たちは、当然のように、999ピース有ることよりも、1ピースが無い、ということに目が向くようだ。私もれいも、1ピースどころではない、何ピースも足りない。それでも、そのままの自分を見せて行こうと思っている。なぜなら皆さんは、無いものよりも、有るものに目を留めてくださるからだ。もし、ピースが足りなければ、それは他の方が埋めてくださるのだ。これからもお互いに有るピースを持ち寄って、素晴らしいホノルル教会のパズルを完成させよう。

関牧師