2009年12月31日

1月3日2010年の週報に掲載

新年あけましておめでとうございます。

 2010年を迎えました。一昔というと10年単位のことですが、10年前には何をしていたいでしょうか? 
私は、日本で牧師をしながら、ある出版社で働いていました。そこでコンピューターの2000年問題で大騒ぎしていたのを覚えています。 その年の1月10に、光輝が誕生しましたから、まだ5人家族でした。 10年後の今、 自分たちがハワイに住んでいるということは、全く予想も、想像も出来ませんでした。
今から10年後の自分を想像できますか? もう天国だ、という方もいるかもしれませんね。 それもクリスチャンだからこそ言えることです。

 神は預言者エレミヤを通して「わたしを呼べ、そうすれは、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を超えた大いなることをあなたに告げよう。」と語られました。

 信仰生活とは、驚きに満ちたドラマです。 今年の年間聖句「悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。」エレミヤ31:13は、単に感情の変化のことを言っているのではなく、人生の回復を意味しています。 悲しみや憂いが、喜びと楽しみに変えられることを体験する、それが私たちの人生ドラマです。

 神と共に歩む世界には、こんな喜びが、こんな楽しみがあるのか! という驚きと感動を体験させていただきましょう。 理解を超えた大いなることを見させていただきましょう。 1年後の自分も、10年後の自分も、分かることは一つだけ、主は共にいて、全てが喜びに変えられたということです。

関牧師



2009年12月24日

12月27日2009年の週報に掲載

 さあ、2009年の最後の礼拝です。この年は「霊に燃えて、主に仕えなさい」(ローマ12:11)の聖句を掲げてスタートしました。

 経験した全ての出来事を通して、霊に燃やされること、主に仕えることを学ぶことが出来たと思います。

 大切なのは、起こった出来事をどのように理解し、受け留めるかということです。その時に、ただ自分の経験や知識だけに頼るのではなく、主に聴くということです。それが主との人格的関係ということです。聖書の言葉を、ただの文字として読むのではなく、神の言葉として聴くことから、その命の関係が始まります。

 自分自身の行き詰まりや力の足らなさを痛感する中で、信仰の原動力とは何か? 霊に燃やされることの必要、意味、その力を経験します。また何のために? なぜこのことをやるのか? と試される中で、主に仕えることの意味を学びます。

 出来事がただ通り過ぎるのではなく、その出来事の中に置かれている神の計画を悟るのです。私たちの目の前に置かれた聖書の言葉には、必ず意味があります。どうぞ、この一年の出来事を、このローマ書12章11節の御言葉によって振り返ってみてください。そしてこの御言葉で出来事を解釈してみてください。

 この一年間も、皆様と共に主を礼拝し、共に一つのキリストの体として歩めたことを感謝いたします。ホノルル教会は、最高に恵まれた教会です。この恵みを留めることなく、一人でも多くの方々に分かち合っていきましょう。

関牧師


2009年12月16日

12月20日2009年の週報に掲載

 前の日曜日の夜、家族みんなで庭に寝そべって流れ星を見ました。流れ星が見えるたびに歓声をあげて、さぞかし近所迷惑だったろうと思います。
 流れ星が流れている間に願い事をするとかなえられるという言い伝えがあります。とても難しいのですが、それくらいに自分の願い事を常に自覚していなさいということでしょう。
 東方の博士たちが導かれた星は、金星であったろうとか、彗星だとか、色々な説があります。当時は電気というものがありませんから、さぞかし夜空には星が一杯見えたことでしょう。

 私が今までで一番だと思う星空は、20歳の頃にサンノゼの近くにあるニンニクの産地で有名なギルロイで見た星空です。
 星屑という表現の通りに、本当に塵のように夜空一面が星だらけでした。
 皆さんは、流れ星が流れた瞬間に、何を願いますか? 今の自分に一番必要なこと、なくてならないもの、それは本当に一番にしていいものなのか?

 ソロモンの夢に現れた主は、「あなたに何でも与えよう。願え。」と言われました。どう答えましょうか?

 父なる神は、御子イエス様を私たちに与えてくださいました。神は惜しむ方ではありません。ハワイの夜空を見上げながら、自らの心を神の御前に注ぎ出してみましょう。

関牧師



2009年12月9日

12月13日2009年の週報に掲載

 街はクリスマス一色ですが、この時期にどうしても忘れてはならない出来事、それは第二次世界大戦の火蓋を切った真珠湾攻撃でしょう。それは、1941年12月7日の日曜日のことでした。日本の奇襲であると言われたり、いやアメリカは事前に知っていたとか、色々な説がありますが、重要なことは、戦争が始まったという事実です。

 ここから戦火が起こり、争いと痛みが世界中に拡がっていきました。この日が日曜日という礼拝の日であったということも、霊的には意味深いものでしょう。西洋と東洋をつなぐ、ちょうど中間地点にあるこのハワイか世界中に争いが拡がったということは、それだけ重要な位置にあるということです。その時サタンは、このハワイを世界の争いのために使いました。しかし私たちは、今こそこのハワイを悪の手から奪い返して、平和のために用いていきましょう。

 真珠湾攻撃の攻撃隊長として、自ら現場でその攻撃の指揮を取った淵田美津雄中佐、彼の機から有名な「トラトラトラ」が打電されました。

 戦後、淵田氏は、一人の女性に出会います。彼女は、宣教師である両親を日本軍に殺害されたのですが、戦後、仇である日本人のために献身的に尽くすのです。その姿を通して、敵をも愛するキリストの愛と赦しを知り、淵田氏は回心するのです。そして彼は伝道者として献身し、ハワイにも宣教師として来られています。

 このクリスマスの時期に、私たちは、まず一番身近の人から平和を持ち、そしてその平和が拡がり、ハワイから全世界にまでキリストの平和が届けられるように、心から祈る時としましょう。

関牧師

2009年12月4日

12月6日2009年の週報に掲載

 ハワイで4回目のクリスマスを迎えようとしています。サーフボードに乗ってくるサンタにも違和感を感じなくなりましたが、今年も皆さんと共に主の御降誕をお祝いできることを感謝いたします。

 先週の感謝祭は、家族とノースショアにキャンプに行きました。もう一杯で予約が取れなかったのですが、ウォークインで入れると信じて行きました。子供たちも祈ったし、多くの人が祈ってくださって、一箇所だけ空いていたキャビンに入ることが出来ました。風が強かったので、テントではなくキャビンで良かったです。お祈りを感謝します。

 ということで今年は感謝祭のパーティが出来なかったのですが、年末には、究極の3大鍋を用意しての忘年会を計画していますので、ご期待ください。

 キャンプで、子供たちが一番熱中していたのは焚き火でした。ビーチにたくさんの木切れが打ち上げられていて、それを拾ってはひたすら燃やしていました。その焚き火で炊いたご飯は、本当に美味しいです。不思議なもので、火を見ていると飽きないというか、燃える火には何ともいえない魅力があります。

 夜、羊の晩をしながら野宿していた羊飼いたち。彼らもきっと焚き火をしたいたのでしょう。彼らは、風に揺れる火を見つめながら、何を思い巡らしていたのでしょうか…。
 そこに突然の天使の出現です。焚き火の火も見えないくらいに明るい神の栄光の輝きに包まれた羊飼いたち…。 さあ、今年のクリスマス、神の栄光の輝きに包まれる、そんな時としましょう。

関牧師

2009年11月30日

11月29日2009年の週報に掲載

 感謝祭も終わり、明日はブラックマンデーです。ブラックというと暴落というイメージですが、このブラックは黒字の意味だそうです。 この時期にデパートなどでは、一年の半分に相当する額を売り上げるそうです。

 25年前サンノゼにいた時に大変驚いた光景は、プレゼントにレシートを付けて送ること。 そしてそのレシートを持ってプレゼントを交換しにデパートで行列が出来ていることでした。 そこまで割り切れるものかと、カルチャーショックを受けたのを覚えています。
 日本では、その贈り物には、その物に付随している送り手の想いというものを意識しますから、単なる物として割り切ることは難しいのだと思います。

 アフリカのモザンビークで孤児院を運営していたユキさんの話です。内戦で両親を失った子供たちの心の傷は深く、その心は石のように堅くなってしまっています。 プレゼント受け取ることも、あげることも出来ないのです。 でもある時、一人の女の子がユキにプレゼントを持ってきたそうです。 箱を開けてみると何もありません。ユキは「?…」でした。女の子は言いました。 「この箱の中に、私のアイラブユーのキッスをたくさん入れておいたの」ユキにとって最高のプレゼントでした。

 イエス様は、神が私たちに与えてくださった救い主、それは最高のプレゼントです。 この箱の中は愛で一杯です。 あなたは、この箱を開けましたか? その愛を発見しましたか? この師走の時、神からのプレゼントが皆さんに届きます。 どうぞその箱を開けてください。

関真士牧師

2009年11月20日

11月22日2009年の週報に掲載

 1620年12月26日、イギリスの清教徒たちが、信仰の自由を求めてメイフラワー号でアメリカのマサチューセッツ州プリマスに到着しました。上陸したのは102名(男78、女24)でしたが、そのうちの約半数が厳しい寒さと飢えのために命を落としました。

 生き残った人たちは、先住民であるネイティブ・アメリカン(インディアン)に狩猟や農耕を教わり、その秋にはたくさんの収穫を得ることが出来ました。人々は教会に集い、収穫を喜び、神に感謝を捧げたのです。その集いには、恩人であるインディアンたちも招かれました。インディアンたちは、お礼に七面鳥や鹿の肉を持って来ました。そして、彼らは共に、3日間に亘って祝いの時を過ごし、神に感謝を捧げ、讃美歌を歌ったのです。これが感謝祭の始まりです。

 しかし後の時代になり、この感謝を忘れた人々は、インディアンを虐殺し、土地を奪っていったのでした。私たちが感謝の心を忘れ、すなわち「高ぶる」時に、必ず人は傷つけ合うようになるのです。

 感謝の心、それは神の恵みを理解するところから生じます。もらって当然と思っている時には、決して感謝の心はわいてきません。しかし、当然のことが当然ではないと気づかされるとき、それが神の恵みだと分かるとき、神への感謝がわいてきます。私たちは、生きているのではなく、生かされているのです。

関牧師



2009年11月12日

11月15日2009年の週報に掲載

 先週は、日英合同礼拝を持つことが出来ました。ホノルル教会は日語部、英語部と二つの部を持つユニークな教会です。私たちは一つの教会であることを意識する貴重な時となりました。

 交通の便や、チャイルドケアー、その他参加しずらい状況もあったようです。その反省も踏まえて、皆が集いやすい日英合同礼拝のあり方も考えていきたいと思っています。

 さて、今日は安藤秀世先生を迎えての礼拝です。先生はサウスベイ教会を牧会されてきましたが、70歳を過ぎてからの新たな出発をされます。由美子夫人と共に住み慣れたカリフォルニアから、日本の愛知県にある無牧の教会に遣わされていきます。世界で最も宣教困難と言われる日本で、住環境も牧師のステータスも、何かもが大きな変化です。しかし、宣教への情熱の前では、すべてがクリアーされるのでしょう。

 その教会にとって牧師を迎えることが出来る、それはどんなに大きな励ましでしょうか。その群れが強められ、宣教の働きが進められるように、私たちも祈りとサポートをもって、この宣教の働きに参加しましょう。

  もう一度確かめておこう この世から召されたこと
  闇から光 死から命へ 移されたこと
  示そうイエスの姿を 生きようイエスの命を
  その身とその心に もう彼が(イエス)が生きおられるから
       (聖別by内藤容子)           関牧師


2009年11月6日

11月8日2009年の週報に掲載

 無事に日本から戻りました。皆様のお祈りを感謝いたします。父の葬儀のこと、群馬のユアチャーチの訪問のこと、リニューアルのこと、何から書いたらいいのか迷います。

 先週の礼拝では、大きな顔の映像で失礼をいたしました。あまりに顔が大き過ぎて皆さん大丈夫だったかと案じています。

  父の葬儀では、父の同窓の渋谷牧師が司式をしてくださいました。渋谷牧師がベッドの傍らでお祈りしてアーメンと言った、その時に父の脈が止まったそうです。父の生涯もまたアーメン(真実)という、神の真実に支えられた一生でありました。

 主日は群馬にあるユアチャーチで礼拝を守り、桑原牧師と内藤さん、トリニティにお会いして、素晴らしい時を過ごしました。念願の伊香保の露天温泉にも入ることが出来ました。

 東京では、吉田文人兄に会うことが出来ました。主の器として整えられています。どうぞ彼の学びと訓練のために続けてお祈りしましょう。

 今日は、日英合同礼拝です。また思いを新たにして教会リニューアルに取り組んでいきましょう。
聖霊に心動かされ、ビジョンが与えられ、賜物を活かすなら、私たちも主の働きに参加することができます。 ますます「霊に燃やされて、主に仕える」者でありましょう。

さて、次には何が起こされるのでしょうか? 楽しみです。 


関牧師



2009年11月1日

11月1日2009年の週報に掲載

 いつ連絡が来てもおかしくないと言いながら、いざ来ると大慌てで準備に追われている今です。日本時間の水曜日午前2時頃に、父が天に凱旋しました。

 Gospel in Hawaiiが終わってから、というタイミングにも神のご配慮を感じています。これが、父にとっても、周りの全ての人にとって最善の時でありました。
 本当に思い切って会いに行って良かったと思っています。 私の中では、一つのけじめのようなものを作ることが出来ました。今回も知らせを聞いて、本当に平安です。むしろ希望に溢れます。このような思いを残してくれたことが、父からもらった最高の財産です。

 死という究極の問題に対しても、神は常に信じることを求めます。「恐れないで、ただ信じていなさい。」「信じるなら神の栄光を見る」と語っておられます。私たち人間の無力さの中でこそ、神の力が現れるのですね。

 ホノルル教会の愛する兄弟、姉妹、この神の家族に支えられていることを感謝しています。

 帰りに群馬に寄って、内藤さん、トリニティを送り出しくれたユアチャーチ、桑原義門牧師にも会ってきます。皆さんの思いを受けて、心からの感謝を伝えたいと思います。

 私の中で、何かが新しく始まったような感じがしています。私個人にとっても、家族にとっても、そして教会にとっても。

勇矢と一緒に行き、水曜日に帰ります。               関 真士牧師

2009年10月22日

10月25日2009年の週報に掲載

 Gospel & Worship in Hawaii 神さまからの最高のプレゼントでした。 内藤容子さん、音楽宣教師という名の通りに、神のメッセージを参加者の魂に届けてくれました。 トリニティー、賛美の喜びを一杯に伝えてくれました。 阿部篤志さん、永井健二郎さん、最高の演奏でサポートしてくれました。 日本から同行してくれたスタッフの一人一人も精一杯に支えてくれました。皆さん、本当に、ありがとう!

 再三お伝えしていますが、このイベントは「心を動かされた者達」のパッションから始まりました。そしてビジョンは、集められた方々が主に触れられること、主に出会うことです。
 だから、コンサートに集まった方々の心にも、主が触れてくださって、何かが動いたと信じます。 これから、どのような実が結ばれるかが楽しみです。そして刈り取りも。

 この働きのために、それぞれが賜物を活かして用い、様々な形で参加してくれました。 特に招く会として、陰に日向に奮闘された皆さん、こんなに素晴らしい機会を与えてくれて本当にありがとう! その労苦に主が、豊かに報いてくださいますように。

 皆さんの心が動くとき、そこにパッションが与えられます。そしてビジョンが与えられます。そして賜物が与えられます。 そしてイベントの内容や大小に関わらず、確かに神のミニストリーが起こっていきます。
心が動いたら、何かが始まります。 主があなたに触れているからです。
関 真士牧師



2009年10月15日

10月18日2009年の週報に掲載

 日本では紅葉が真っ盛りとなっていることでしょうね。よくハワイは常夏だからと聞きますが、私も5年近くハワイに住んで、ここにも四季があることが分かり始めました。 とても微妙な変化ですが、ああ秋だなと感じる今日この頃です。

 そんな秋の静かな夜、内藤容子さんのCD「十字架への道」を聴く。なんて贅沢な時でしょうか! 歌詞も旋律も歌唱力もどれも素晴らしい! しかし、それだけではない、何かが心に迫ってくる。 そこに確かなメッセージがあり、そのメッセージを語りかけているお方の存在を想起させるのです。

 内藤容子という人物を通して、その賛美を通して、語りかける神がそこにご臨在されるのです。
このイベントは、ただ集会を催すためにゲストを呼んだのではなく、この賛美に心を動かされた者達に、情熱とビジョンが与えられたところから始まったのです。 そして結果としてコンサートという形となったのです。

 そして、同じように、日本でも心動かされた大勢の方々が、手弁当でこの働きに参加してくださっているのです。 日本の教会から祈りをもって送り出されて来た方々です。

 私たちも、祈りと信仰をもって、この働きを受け留めましょう。 そして一人でも多くの方々の心に主が触れてくださることを期待しましょう。 この秋は、魂の収穫の秋とさせていただきましょう。

関牧師



2009年10月8日

10月11日2009年の週報に掲載

 いよいよ内藤容子さん一行がハワイに来られます。内藤さんは、最近2枚目のCDをリリースしましたが、発売と共に売り切れたと聞きました。私もかなり聴き込んでいます。音楽にはそれぞれの好みのジャンルというものがありますが、内藤さんの賛美は、ジャンルを超えて、聴き手の魂に語りかける力があります。この賛美を生で聴けるというのが本当に楽しみです。

 そして、何よりも期待で一杯なのは、まだキリストに出会っていない方々が、この賛美を通してキリストのもとに導かれるだろうということです。音楽は神が人類に賜った恵みです。その旋律は、理性や知性の壁をいとも容易に越えて、魂にまで届きます。内藤さんの賛美は、心に染み込むような美しい旋律と共に、目の前の一人に語りかけるような歌詞と御言葉そのままの歌詞、それらが一つとなって、聴き手の魂に迫ってきます。

 今回のイベントは、プログラムから始まったのではなく、この賛美で心が動かされた、というところから始まりました。「内藤容子をハワイに呼ぶ会」が結成され、それが「Gospel & Worship in HAWAII」となりました。コミットして働いている方々を中心に、多くの協力者に助けられてここまで来ました。「主にあって、あなたがたの労苦は決して無駄になることはない」と信じています。

 今回はたくさんのサポートミュージシャンも自腹で参加してくださいます。トリニティによるゴスペルワークショップ。公開リハ、アラモアナセンターステージ、KZOOへの出演、礼拝奉仕などがあります。どうぞ祈ってください、そして宣教のために参加してください。

関牧師



2009年10月4日

10月4日2009年の週報に掲載

 先週は、喜びの洗礼式がありました。朝6時、朝焼けの空のもと、アラモアナビーチに喜びがあふれました。

 洗礼は、クリスチャンになった人が、その証として受けるものです。クリスチャンとは日本語ではキリスト者です。それは、キリストを信じて、キリストにあって生きる人ということです。

 私たちは、いつの間にかクリスチャンになっていた、ということはありません。人生のどこかで自覚的に「私は、イエス・キリストを信じます」という決断と告白が必要です。ローマ書10章10節に「人は心で信じて義と認められ、口で告白して救われる。」とあるからです。

 実際に心の中では、「私もクリスチャンになりたい」と考えている方がおられると思います。その時に、何をどうしたらクリスチャンになれるのかが分からないということもあるでしょう。そのような時には次のステップをお勧めします。

 まず、信頼できるクリスチャンの友、あるいは牧師に声をかけてください。どのように祈るのかを教えます。そして、一緒にイエス・キリストを信じる祈りを捧げるのです。それが告白になります。

 その祈りの時間は短いものかもしれません。しかし、それが永遠の命への入り口となります。人生において、ただ一度だけの祈りです。 そこで、イエス様を信じた者が、その証として洗礼を受けるのです。

関 牧師


2009年9月23日

9月27日2009年の週報に掲載

 先週は、有志数人と教会に来れない高齢の方々を訪問しました。ゴードンさん静子さん夫妻は、ミスターがふらつくので礼拝に来れませんがお元気な様子でした。瀬長ルースさん95歳です。開口一番「イエス様に感謝します」と歓迎してくれました。谷戸せんさん、体調が悪く礼拝に来れませんでしたが、表まで出て来てくれました。平岡志子さん、枕辺に置いてある聖書が光っていました。お元気です。松田ルースさんはカイルアに引越しています。水谷エドナさんは、95歳です。一人暮らしをしていてとてもお元気でした。

 また時をみて、佐々木一枝さん、遠田綾子さん、前田梅子さん、米谷エドナさんの所へも行きましょう。

 堀内ふみさんは、次の日に真柴姉が訪問されました。ふみさん曰く「神さまのことを知っているつもりでしたが、動けなくなってから、さらに神さまの愛が深く分かるようになりました。いつもイエスさまから平安をいただいています。感謝です。」と語られたそうです。

 主の恵みの中に歩まれている方々には、本当に主の栄光が輝いています。「私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(2コリント4:16)と書かれている通りです。

 今朝は、洗礼式が持たれました。礼拝では転会式もあります。ホノルル教会というキリストの体に加わった方々を心から歓迎いたします。私もそうですが、ここにこの教会があったので、私たちは今の恵みを受けています。それは多くの信仰の先輩方の祈りと信仰の賜物です。この財産を受け継ぎ、私たちも共に主の恵みに預かっていきましょう。そしてそれを分かち合い、また残していきましょう。 

関牧師


2009年9月17日

9月20日2009年の週報に掲載

 私も45歳を迎えました。ちょうど40歳でハワイに来たので計算がしやすいのですが、ハワイ滞在4年半となりました。感覚的には40年くらい、ちょっと大げさですが、それくらい昔からハワイにいるような感じがしています。

 今日もマノアの風に吹かれながら、神の愛の豊かさを満喫しています。多くの方々からのハッピーバースデーを心から感謝します。

 私の誕生日は9月15日、敬老の日です。今まで教会で高齢者の方々へのミニストリー、ケアーということを常に考えてきましたが、どうもうまく機能しません。その理由は、何でしょうか? 実際的なこととして、高齢者という名前で一つにまとめてしまう所に問題があるのではないか、そのように考えています。
 高齢者の方でも、私の父のように70前半で寝たきりの方もいれば、90歳を超えてなお元気という方もいます。一人一人みんな違うのに高齢者という呼び方で一緒にしてしまうのはどうでしょうか。もちろん共通点も多くありますが、一人一人、みんな違ったニーズがあり、ケアーを必要とし、あるいはケアーをする側に立っておられる方もいます。

 教会のミニストリーは、それは高齢者に限らず、一人一人の存在をまず一人の神のかたちに造られた人間として見つめていくところから始まるのだと思います。その人生、歴史、背景、個性を尊重し、それぞれに働かれている聖霊の働きに何よりも信頼していきましょう。その中で、お互いへの愛を表現していければと思います。
関牧師

2009年9月13日

フットプリント (HCCビジョン)

2000年5月にビジョンが歌ったフットプリントです。 

2009年9月10日

9月13日2009年の週報に掲載

 朝が少し冷えるようになってきました。もともと布団をかけないで寝ているので、今朝は寝冷えしました。

 先立って持たれたミニアシュラムは、本当に恵まれました。2回の静聴の時がありましたが、2回目の時にたくさんの語りかけをいただきました。私は、いつも語られたことをその場で書き留めるようにしています。でないと忘れてしまうからです。でもそれ以上に、書き始めると、次々に語られて書き留めるのに追いつかないくらいになります。他にも、自分で語りながら、語られるということを経験します。語りながら気づかされていくのです。

 人それぞれ神からの語られ方というものがあるようです。いずれにしても、神は常に語っておられます。

 今、耳を澄ましてみてください。いくつの音が聴こえるでしょうか? 掃除機の音、子供の声、プリスクールの先生の声、車の通り過ぎる音、風の音、何かがぶつかった音、驚くくらいに様々な音があります。でも、ほとんどの音はキャッチしていません。
 聴こうとして耳を澄ませて初めて聴こえる音があります。神の御声も、聴こうとして、耳を澄ませないと聴こえません。いつもすぐそこで語っておられるのですが、こちらが聴こうとしないと聴こえないのです。神の語りかけを聴き、神に自分の言葉で語りかける、そのような人格的な関係を持つことを、神は求めておられます。どうぞこの関係を深め、いよいよ豊かなものにしていきましょう。

関牧師



2009年9月5日

9月6日2009年の週報に掲載

 礼拝で語られるメッセージは、語っている自分自身も語られていることに気づかされます。主の祈りを通して、私たちは神に「愛されている子供」なのだ、ということを学んできました。

 そんな中で、福島の父に会いに行ったのですが、私にとって「愛されている自分」を発見する旅でもありました。父は私の訪問をとても喜んでくれました。親子だから当たり前と言えばそれまでですが、私にとっては大きな出来事でした。父にとって自分の存在は、どれほどのものなのか? それを疑わせる出来事や第三者から聞いた言葉が事実あるからです。

 父と二人きりの時、父が突然手を伸ばして私の頭をなでました。ちょっと驚きました。その時は、それだけでした。しかし、帰りの新幹線の中で、その出来事の意味が心に迫ってきました。「私は、この父に愛されているんだ」と涙が出てきました。記憶の向うに、小さい頃父に頭をなでられた時のことが思い出されてきました。私は物事を美化するのは好きではありません。確かに父には足りない所もあったでしょう。しかし、父が私の頭をその手でなでた時、私の心に言葉では表現できない暖かいものがあふれました。

 天の父に愛されている子供であることが分かって、次に肉の父にも愛されている自分を発見することが出来ました。神様からのプレゼントです。イスラエルがその息子たちの頭に手を置いて祝福した記事が創世記にあります。もしかしたら、父は私を祝福してくれたのかもしれません。自分は、愛され、祝福されている存在であることを受け留めることが出来ました。キリストの癒しは拡がります。

関牧師


2009年9月3日

シャロン・フラチーム(主の愛が今)

ホノルル教会の中にシャロン・フラチームがあります。 フラの中でもゴスペルフラといって、天地創造主に向かって神の栄光を踊ります。

2009年8月27日

8月30日2009年の週報に掲載

 覚悟はしていましたが、痩せた父の姿に少なからず驚きました。言語障害があって話すことが出来ないので、文字盤を指で示すのですが、それさえもパーキンソンによる手の震えでうまくいかず、水を飲みたいということを理解するまで10分もかかりました。食事は、飲み込むことが困難で、スプーン2,3杯のどろどろの食事をするだけで1時間かかります。付き添ってくれている叔母に感謝です。

 今日は枕辺で讃美歌をたくさん歌いました。涙を流して、一生懸命に一緒に歌おうとしました。聖書を読むと、これも涙を流して喜んでくれます。御言葉の奉仕に生涯を捧げてきた父ですから、何よりも礼拝が嬉しいのだと思います。皆さんから頂いた寄せ書きを食い入るように見て、何が書いてあるのか知りたそうにするので、一人一人の言葉を読んで聞かせました。皆さんの愛が十分に伝わりました。本当にありがとうございました。

 兄弟三人が、本当に久しぶりに顔を合わせました。弟は父との30年振りの再会となりましたから感無量だったでしょう。私も叔母から父の子供、青年時代の話を聞いたりして、改めて父の存在を見なおしています。高校生くらいの時の写真は、本当に私にそっくりでした。

 今回、神様が導いてくださったことは「赦し」ではないかと感じはじめています。それぞれが負い目を持っているような、でもこの時、その負い目が一つ一つ取り去られていくようです。
 確かなことは、私たちの地上での生涯は限られているということです。そして天国には何も持って行くことは出来ないのだと、改めて本当に大切なものは何なのかを考えさせられています。

関牧師


2009年8月25日

コーナーストーン (ヨハネ14章6節)

20年前、ホノルル教会の中野先生による第3礼拝が行われました。 
そのうちに、日本語と英語のバイリンガル礼拝になって、その奉仕をしていましたコーナーストーンが歌っていた曲です。  
その火は燃え上がり、コーナーストーンは神戸に音楽宣教師として遣わされました。
その中でも私の好きな中の一曲です。  (松田)


2009年8月21日

8月23日2009年の週報に掲載

 9月5日(土)に「ミニアシュラム」が持たれます。アシュラムというのは、インド宣教に生涯を捧げたスタンレー・ジョーンズ師が提唱した運動で、「修養」という意味があるそうです。
 このアシュラム運動は、日本でも盛んに行われ、通常は泊まりで行うものですが、今回は半日ということで「ミニ」となっています。
そ の内容は、「御言葉に聴く」ということです。テーマとなっている御言葉を中心に、一人で静まるとき、小グループで分かち合うとき、メッセージを聴くときが繰り返されていきます。半日があっという間に過ぎてしまう濃密なときです。
 日常生活の中で、なかなかこのような時を持つことは難しいものです。どうぞこの機会を生かして、是非ご参加ください。

 また今日の礼拝後にはグレース・トキ女史を迎えての「Power oh words」の2回目です。ことばによってもたらされる祝福と呪いの力について学びます。ことばの重要さというのを改めて知ることになります。
 教会は、常に活動的です。今も「ゴスペル&ワーシップin Hawaii」の働きや、日本宣教旅行のビジョン、他にも様々な活動、宣教が行われています。その一方で、私たちは霊的な力を得ていなければなりません。アシュラムやセミナーを通して、自分自身がされに霊的に整えられ、強められ、そのエネルギーが宣教という活動に用いられていく。これが健康的な教会の営みです。全ての機会を生かして、学び、宣教していきましょう。明日から日本に行きます。お祈りと捧げものを感謝します。


関牧師

2009年8月13日

8月16日2009年の週報に掲載

 私の父は、学生の頃にイエス・キリストを信じて、その後神学校で学び、2,3年間は牧会をしていたようです。その後は、文章伝道の道に進み、キリスト教出版社で働き、30年位前に自分で出版社を起こし、数多くのキリスト教文章を世に送り出しました。
 とにかくビジョンに向かってひたすら走るような感じでしょうか、今でも、いつでも仕事が再開できるように借家に用意がされているそうです。この3月には自分で車を運転し、引越しの荷物を整え、千葉から故郷の福島に帰って来たらしいのですが、わずか5ヶ月で寝たきりの状態になってしまいました。

 神の計画は分かりませんが、もう地上での役割は十分だと、神は父を御許にお連れくださるのだと、そんな感じがします。その人生には色々あった父ですが、最期まで主のために働き続けたことだけは確かでした。そんな父を誇りに思います。

 お医者さんからは、年ではなく月単位で考えてくださいと言われています。食事も排泄も自分では出来ず、完全介護の状況です。全て糖尿から来る、脳梗塞、心筋梗塞、腎臓、目、その他の機能がダウンしているそうです。

 誰もが通る所に私も立たされていますが、「すべてのことを神の栄光のために」そんな思いでいます。皆さまからのラブオファリングを心から感謝いたします。8月24日(月)-29日(土)に行きます。最後の一泊は母の所にも寄ろうと思っています。
どうぞ祈りの内に覚えてくだされば幸いです。

関牧師



2009年8月8日

8月9日2009年の週報に掲載

 今朝は「心に光を」講壇交換です。私たちはマキキ教会の黒田先生をお迎えできることを感謝いたします。

 日本での自殺者の数がこのままいくと、過去最高を記録する勢いだそうです。毎年3万人以上の人が自らの命を断っていますが、葬儀屋に言わせると実数はその10倍だそうです。 この数字は、戦時下でもない限り出てこない数字です。日本は平和で豊かな国というのは幻想で、精神的には生きるか死ぬかという戦いのただ中にあるということです。

 私たちは幸いに、常夏の楽園ハワイに住んでいます。ハワイの風、アロハの心に触れて心が優しさで包まれます。しかし、それだけではどうすることも出来ない心の闇、傷、痛み。人間の作った楽園では、それらを解決することは出来ません。 ハワイにおいても、生きることは大変なことです。

 しかし「光は闇の中に輝いている」とあるように、この暗闇の中にあって、福音の光はその輝きを増しています。 生まれて初めて礼拝に来られた方が「こんなに感動したのは初めてです」と言われました。 礼拝前には、重苦しい顔をされていた方が、帰りには希望と平安をその顔に見ることが出来ました。 キリストに出会い、愛されている自分を発見し、赦しを体験し、明日への希望に生きるようになる。 確かに「救い」が、今ここで起こっています。 私たちは、この時代にあって、なすすべもなく立ちすくんでいる者たちではありません。 キリストの中に答えを持っている者たちです。 福音の光を高く掲げていきましょう。


関牧師



2009年7月30日

8月2日2009年の週報に掲載

 とうとう牧師館の庭のバナナが収穫できました。日本に帰る人から苗木を譲り受けてから1年以上は経ったでしょうか。緑色から黄色に見事に完熟しました。木の上で完熟したバナナの味は一際美味で、この味は日本では出会えません。
 パパイヤも大きな実をつけていますが、高すぎて届きません。もったいないのですが、鳥さんの食事になっています。アボガドもだいぶ大きくなってきましたが、実を結ぶのはまだまだ数年先でしょう。
大地は神の祝福に溢れています。

 このたびは、私の父のお見舞いのために、多くの方々から捧げ物をいただき心から感謝いたします。自分などのためにと恐縮する思いもありますが、父に会いたいという思いが勝ります。ただただ感謝して受け取らせていただきます。

 父は74歳になりますが、現在パーキンソン病になり、心筋梗塞、腎臓病、糖尿病とあり、理解力はありますが、話すことが困難なようです。幸い日本の介護保険のおかげで経済的には保護があり、今は24時間介護の施設を探している状況だそうです。
 父は若い時に献身して主のために働き、今日まで突っ走ってきたような人です。生まれ故郷の福島でゆっくり過ごすのも、主の計らいでしょう。父に会ったら何を話そう、頭の中を色々な言葉が駆け巡ります。主のご臨在の中、セピア色の時を過ごせればと思います。庭で取れたバナナは持っていけないでしょうか。
関牧師

2009年7月22日

7月26日2009年の週報に掲載

 映画「おくりびと」を観ました。とても感動しました。納棺士という職業があったことも初めて知りました。納棺の儀式における様式美、動作の一つ一つに、とても美しいものを感じました。俳優の方々の演技も、映像の美しさも素晴らしく、なるほど多くの賞を取ったのも納得です。

 納棺士は、納棺を儀式化することによって、死者への畏敬の念と、遺族への心遣い表現しています。そこに宗教的なものはなく、従って、どんな宗教にも対応できるようです。しかし現在納棺士という存在は少なく、その存在を知らない人の方が多いようです。

 日本で葬式を執り行うことがありましたが、ある葬儀屋さんの、ご遺体をただの物体として扱うかのような仕草に、大変不愉快になったのを覚えています。一概に言うことは出来ませんが、特に日本人は、目の前の遺体に対して、ただの物体であるかのような割り切り方は出来いようです。

 日本には、他にも死化粧士という方もいるそうです。またアメリカにも遺体を綺麗にする仕事があります。しかし、その納棺を儀式化し、そこに様式美を加えるというのは、日本ならではの感覚でしょう。

 日本人への宣教を考える時に、この感覚を理解する必要があるでしょう。もう天国へ行ったのだから、遺体には何の意味もないとして、ぞんざいに扱うようなことがあってはならないと思います。ご遺体やお墓などの軽視が、日本人にキリスト教へのつまずきを与えことは事実であると思います。相手の心を大切にすることです。

「おくりびと」を観て、そんなことを考えました。

関牧師

2009年7月17日

7月19日2009年の週報に掲載

 家を留守にしている間に、庭の草木が伸びていました。さっそく草刈に精を出しました。教会のI兄が手伝ってくださり、さっぱりときれいになりました。芝を刈ったあとの青々しい匂いがなんともいえません。
 LAでサンファナンド教会の鍵和田先生が、モハビDesertに連れて行ってくれました。荒野です。ハワイや日本では決して見れない光景に圧倒されました。枯れた光景を見ているだけで喉が渇くような気がしました。先生は、よくこの荒野に祈りに来るそうです。人工的な音が一切ない、風の音さえも煩わしく感じるという、それほど静かな所です。
 古の聖徒が聖さを求めて荒野に修道院を建てたのも分かる気がします。何よりイエス様が、しばしば荒野に退かれて祈られた姿が思い浮かびます。
 荒野は、決して人に優しくはありません。むしろ人を寄せ付けない厳しさがあります。途中でガスのランプがついてしまい、思わずここで車が止まったらどうしようと考えました。本当に荒野の中では、人間の無力さを痛感させられます。
 しかし、聖書は語ります。キリストの救いを得ることは、荒野に水がわくようなものだと。神の恵みは、荒野を旅する者たちにこ注がれるものです。

聖霊の大雨が降るときに、荒野はサフランの花咲く所に変わります。

関牧師


2009年7月9日

7月12日2009年の週報に掲載

 サンタバーバラ修養会も恵みのうちに終了し、私は今はLA郊外のお宅にお世話になっています。月曜日には、さらに郊外のキャンプ場で二泊し、水曜日に車でサンフランシスコ近郊のサンロレンゾ教会にまで行く予定です。今回の旅行は、全部で5箇所に宿泊するというスケジュールですが、鈴木先生、松田兄、真理姉と共に、楽しい道中を過ごしています。
 この週報が届く今日には、元気に皆さんと顔を合わせているはずです。今からお祈りをありがとうございます、と言わせていただきます。

 今回の修養会では、講師の藤本満師を通して、深い御言葉の解き明かし、心に迫る鋭くも、暖かいメッセージをいただきました。心深く探られて、また心熱く燃やされ、恵みの座に進み出ました。

 この4回のメッセージは、教団のウェブにアップされますので、どなたでも視聴が可能です。またCDで欲しい方は、受付にお伝えください。

 また私の賛美リードと聖書講義の奉仕も無事に守られました。多くのレスポンスを頂き、務めを果たすことが出来たと感じています。皆さんのお祈りを感謝いたします。聖書講義も同じくCDでお分けすることが出来ます。

 教団総会も終わり、私は改めてホノルル教会に任命を受けているはず! です。新しい年度が始まりました。教会がいよいよキリストの体として成長し、毎回の礼拝で主の栄光の臨在を体験し、キリストがこの世界に向かって証しされていきますように。心を一つにして歩んでまいりましょう。

関牧師


2009年7月5日

7月5日2009年の週報に掲載

 このコラムは、いつもより早めに書いています。皆さんの目に触れている今は、私は修養会も終わり、サンファナンド教会で礼拝を守っている最中だと思います。

 まだハワイにいる今から、最高に恵まれ、感謝で一杯ですと、報告させていただきます。ホノルルの礼拝も、ウィルソン美代子さんの証しを通して、神の恵みが溢れている様子が目に浮かびます。

 さて、ハワイ聖会はすでに終わりましたが、神の言葉がより深く心に迫ってきました。参加できなかった方は、是非CDをお聴きください。特に3回目の集会で、教会にとって、クリスチャンにとって、魂の救いにまさるものはない。福音を伝えるという、この務め以上の働きはない、と明確に語られました。
教会は、何のために存在しているのか? それはこの世に向かって、イエスを証することです。この第一の目的を見失ってはならないことを改めて強く思わされました。

 さらに、この目的遂行のための妨げが、実は私たち自身の中にあるのではないか? 宣教の壁は教会自身が作っているのではないか? という語りかけは、大きなチャレンジでした。私たちの都合や、状況や、面子や、文化など、つまりどうでもいいものが、最も大切なことを妨げているのではないか? 

 今一度、私たちは、本当に最も大切なことのために、つまり福音宣教のために、自らを捧げているだろうかと、聖霊が語ってくださったようにう思います。ブレイクスルー! 壁を打ち破りましょう。                       

関牧師

2009年6月29日

6月28日2009年の週報に掲載

 珍しくマノアの芝生が枯れているのが目立って、庭も茶色になっていました。最近、ようやくマノアらしい雨が降り、芝生も生き返ったように、緑を取り戻してきました。草木が喜んでいるのが聞こえるようです。
 あまり枯れていると、ちょっとした雨ではどうにもなりません。大雨が降らないと生き返りません。

 ハワイ聖会が昨日から持たれています。このコラムを書いているのは、金曜日ですから、まだ聖会前です。しかし私は、気象予報士ならぬ、聖霊降臨予報士になって、聖霊の大雨を予報します。魂が渇いて、聖霊の大雨が必要な方、必ず傘をもって、いえ信仰をもってお集まりください。

 イスラエルでは、乾季の期間は茶色の光景が雨季の到来と共に緑一面に覆われるそうです。まるで命一つ無いような光景の中にも、実は種が撒かれていて、雨が降るのを待っているのですね。

 私たちの内にも、神の言葉の種が撒かれているはずです。聖霊の大雨と共に、花を咲かせ、実を結びましょう。荒野に花が、荒地に川が、喜びの季節がやってきました。

関牧師



2009年6月18日

6月21日2009年の週報に掲載

 夜7時からの第3礼拝が始まりました。先週は11名の参加者のうち、昼間に参加出来なかった方が6名でした。本当に思い切って始めて良かったと思います。

 皆さんは私の体力的なことを心配してくださいましたが、リズムに慣れれば大丈夫でしょう。まだ若いですから。
 確かに肉体的に無理をしていけないと思いますが、礼拝を捧げることによって、身体の内側から力が溢れてくるような感覚があります。今まで熱があったり、体調が悪くても、たいていの場合は賛美とメッセージの中で癒されています。悪化したことはありません。

 賛美すればするほど、語れば語るほどに、力が溢れてきます。これは、聖霊の力なのでしょう。ただし体力には限界があります。生身の人間ですから、「心は燃えていても、肉体は弱い」と言われたイエスの言葉にも耳を傾けねばなりません。

 先週は「心に光を」の担当でしたが、火曜日だったでしょうか。頭痛がひどかったのですが、ラジオで思いっきり語ったらすっきりと癒されていました。やっぱりこれが一番の薬なんだなと思いました。

 霊肉共に健やかであるためには、やはり神を礼拝することが一番でしょう。首や背骨は健康にとても影響するらしいですが、ちょっとでもずれていると、どこかしら痛くなります。私も首がちょっとずれている所があります。神を礼拝することは、そのずれが真っ直ぐになるような感覚でしょうか。神への礼拝は、私たちの人生を真っ直ぐにし、健やかな人生をもたらします。今日も心から主を礼拝しましょう。

関牧師

2009年6月10日

6月14日2009年の週報に掲載

 もう20年くらい前に親知らずを抜いて以来の抜歯でした。火曜日にあまり歯が痛いので歯医者に行ったところ、根の専門の歯医者に廻り、そこで、6年前に根の治療をした所がもうだめになっていて抜歯しかないと診断されて、別の抜歯の歯医者に廻って抜歯ということになりました。
 ドクターいわく、私のあごの骨がとても丈夫らしく、抜くのにも骨を割るような感じで、口の中で道路工事をしているようなものでした。3針くらい縫合してなんとか収まりましたが、永久歯を抜いたのは初めてです。皆さん、私のことをしきりに若い若いと言ってくださいますが、確かに若いのですが、髪の毛も歯も、だんだん抜けていくし、目と歯だけは良かったのですが、今回は歯、そして目も近いところがぼやけてきたし、ということで人生の後半に入ってきたなと感じています。

 20代で牧師になって、常に若く見られないようにと意識して、ひげをはやしたこともありました。最近は、逆に若く見られることの方が嬉しくなり始めました。しかし、自分は自分、その歳にあった味を出せれば、それでいいのだと思っています。

 土曜日には結婚式の司式をしました。新婦は私が神学校を出たばかりで初めて洗礼を授けた子供でした。私たちの結婚式のフラワーガールもしてくれました。その子供が、今や新婦として目の前に…、年月の過ぎたのを感じながらの感激です。

 時間は過ぎていきます。今しか出来ない事、今だから出来ること、「今は恵みの時」です。この今の時を大事に歩みましょう。

関牧師



2009年6月5日

Arms of Love (LAホーリネス・ユース1998)

Arms of Love と 栄光主に

1998年にLAホーリネス教会とその近くの教会が一緒になってユース・クワイアを結 成し、ハワイ、日本で公演しました。 その時に行われたものです。 

Stomp (LAホーリネス・ユース 1998)

Stomp
1998年にLAホーリネス教会とその近くの教会が一緒になってユース・クワイアを結 成し、ハワイ、日本で公演しました。 その時に行われたものです。 

6月7日2009年の週報に掲載

 これで3台目になりますが、携帯電話を水に落としてしまいました。1台目は海の中へ、2台目は川の中へ、そして3台目はトイレの中へ。その携帯を何とかしようと車に乗ると、今度は車が動かないではありませんか。それもちょうど、住民説明会の前のことでした。
 イヤー参ったな、という感じでしたが、何か大きな祝福の前触れのような気がしました。別に根拠はないのですが、出来事を肯定的に考えることが出来るというのは、神の計画の中に生きている者の特権だと思います。

 水曜日に持たれた住民説明会には、本当に大勢の教会の方々が集まりました。何人かの住民から、おもに駐車場についての問題が指摘されました。結局日を改めて、今度はCITYが主催する公聴会が開かれることになりました。

「神、その道は完全」(詩篇18:30)

 私も奇跡的に住民の納得が得られて、建築への道が開かれることを期待していきました。しかし結果は、そうではなく、明確な反対の意志を聴くことになりました。しかし、こんな時でも、神の計画を知る者にとっては、残念であると共に、どこかに楽観的な部分があります。それは、神の計画は完全である、という信頼があるからです。
 むしろ、これから神はどのような道を開かれるのか、そこへの期待感が心に膨らんでいきます。
結局、携帯電話を乾かしていたら次の日の朝には復活していました。車もバッテリーを交換して事なきを得ました。神の最善の計画に信頼して、祈りつつ、私たちも最善を尽くしましょう。

関牧師

2009年6月3日

For You (LA Holiness Youth 1998)

For You
1998年にLAホーリネス教会とその近くの教会が一緒になってユース・クワイアを結 成し、ハワイ、日本で公演しました。 その時に行われたものです。 

2009年5月28日

You Raise Me Up

5月23日(土)にハワイ日本語キリスト教会連盟が主催する、賛美フェスティバルへ行きました。 そこで歌われた賛美をユーチューブへ載せました。



5月31日2009年の週報に掲載

 ハワイ聖会 6月27日(土)、28日(日)、3回に亘って開催されます。この聖会は、ただのイベントとは違います。私たち自身が、信仰的に成長する大きなチャンスです。

 お時間がありましたら、とは言いません。時間を作って参加しましょう。(それでも無理な方、神は、あなたにも同じ恵みを備えてくださいます)
 今回の聖会は、ホノルル教会の現在の流れの中で、とても重要なポイントになりそうです。自らを聖霊に満たされる器として、聖めていただくチャンスです。

聖会に臨むにあたって幾つかの備えを述べます。
 *出来るだけ3回続けて参加する。3回のつながりがあります。
 *課題をもって参加する。自分の個人的な課題です。
 *主に応えを求めて参加する。
 *飢え渇きをもって参加する。主に何がなんでも応えてくださいという思いをもって。

 教会はキリストの体です。聖会における恵みは、参加できなかった方の上にも流れていきます。
参加できる方は、万難を排して、祈りそなえていきましょう。講師は、LA教会の溝口俊治師です。講師のためにも覚えて祈りましょう。
 さあ、空の器を主の御前に差し出しましょう。聖霊の満たしを心ゆくまで受け取りましょう。          

関牧師


2009年5月21日

5月24日2009年の週報に掲載

 先週は3回目の賜物をセミナーを行いました。皆のPassionを分かち合いましたが、驚くほど多くのことが出されました。今度は、これらをどのように実行、実現するかということになります。

 ミニストリー・レターを発行して、教会で行われているミニストリーを紹介したり、新しいミニストリーを呼びかけたりしながら、みんながキリストの証人として活躍できるようにしたいと思います。

 さて、しかし状況を整えただけで、私たちはキリストを証できるのでしょうか? 状況やプログラムがキリストを証するのではありません。それらは器です。大切なのは、この器の中に聖霊が満ちておられるか、ということです。なぜなら私たちは、聖霊に満たされる時に初めてキリストを証できるからです。

 しかし、確かに今ホノルル教会に聖霊が働かれています。だからこそ、賜物セミナーということが実現し、参加された方たちは実に楽しそうに、またあれだけのPassionが出たのは、聖霊によって一人一人にキリストの心が与えられているのです。
 この世にあってキリストを証しすること、これは最大最高の働きです。それだけに戦いも多くなります。勝利の秘訣は、自分自身がいよいよ聖霊に満たされることです。

「能力によらず、権力によらず、私の霊によって」(ゼカリヤ4:6)

 6/27.28に亘ってハワイ聖会が持たれます。期待しましょう。この聖会を神の与えてくださった機会として、さらに聖められ、満たされる時しましょう。是非、是非、都合が良ければではなく、都合をつけて、参加しましょう。それだけの価値ある時です。

関牧師



2009年5月16日

5月17日2009年の週報に掲載

 今私は男性向けの「Daer to be You」に参加しています。4回のセッションの2回目が終わりました。今一度、自分と父なる神との関係、赦しについて深く考える機会となりました。
 普段は、教える側が多く、いつの間にか教えるために学ぶようになってしまいがちです。今回は、頭で理解していることと、本当に自分のものとなっていることを見極めて、今一度自分を見つめてみたいと思います。

 昔は、自分を知ることは怖いことでした。本当の自分の弱さや欠点などを出来るだけ見ないようにして、理想的な自分を一生懸命に演じていました。でも、父なる神を知ってから、自分を知ることが怖くなくなりました。それどころか、自分の弱さや欠点、罪深さが分かるほど、神の愛と赦しの深さが分かるようになりました。

 自分で自分のことは分からないものです。牧師館のバスルームにある横長の鏡は、真正面と端横では映る形が違います。顔が太かったり、痩せたり見えます。痩せたいときは、端っこで自分の顔を見ると安心できる便利な鏡です。
 でも実際の自分の顔はどちらが正しいのだろうか? よく考えると私たちは本当の自分の顔を知らないのかもしれませんね。鏡やビデオに映っている姿は実際とは違うことがあります。

 どの自分が本当の自分なのだろうか? それは他人の目でも、鏡に映る自分でもなく、神の目に映っている自分です。神の目にどう映っているのか、それが本当の自分です。わたしの目には、あなたは高価で尊い。

関牧師



2009年5月8日

5月10日2009年の週報に掲載

 母の日の起源は、1900年代のアメリカヴァージニア州にあると言われています。1905年5月9日、アンナ・ジャービスという人の母親が亡くなりました。やがて彼女は、「亡き母を追悼したい」という想いから、1908年5月10日、フィラデルフィアの教会で白いカーネーションを配りました。これがアメリカで初めて行われた母の日だそうです。

 この風習がアメリカのほとんどの州に広まりました。そして1914年、その時のアメリカ大統領だったウィルソンが5月の第二日曜日を母の日と制定しました。

 ちなみに日本で初めての母の日を祝う行事が行われたのは明治の末期頃で、1915年(大正4年)に教会で祝われ始め、徐々に一般に広まっていったと伝えられています。 母の日の本質は「感謝」にあります。数ある感謝の中でも、自分という命を産み出してくれたことへの感謝、これが最大の感謝だろうと思います。ですから母に感謝することは、自分がここに存在していることへの感謝にもなります。

 当たり前のように母に感謝できる人は幸いです。しかし、母に感謝することが難しいという人が実は多くいます。様々な事情があるでしょう。しかし、今あなたがたここに存在していること、つまり、母から産み出されたことを思い感謝を捧げましょう。

関牧師



2009年4月30日

5月3日2009年の週報に掲載

 先週は、賜物テストを実施しました。自分でも何が出るか楽しみでしたが、私のい場合はだいたい予想通りでしたが、何だと思いますか? まだ受けておられない方、いつでも受けられますので声をかけてください。

 先日、久しぶりに軽くジョギングをしました。予想以上に身体が重く感じましたが、これを機に運動量を増やしていきたいと思います。肉体の健康は、供給と消費のバランスが重要です。 私の知り合いの高校生の息子はマラソン選手で、毎日相当の距離を走りこんでいました。一度食事を共にした時、彼は酢大豆をポリポリかじりながら、とても健康的な食事をしていました。
 しばらくして、彼が栄養失調で倒れたと知らせを受けました。びっくりしましたが、あれだけの運動量には栄養が足りなかっただろうなと、妙に納得がいきました。
 逆に栄養を摂るばかりで、運動をしなければメダボになって、お腹に脂肪がたまり、血圧も、血糖値も上がって、言わずと知れた成人病になってしまいます。

 教会はキリストの体です。私たちの霊的な健康も同じことが言えます。恵みを十分にいただくことと、宣教の働きをすることと、両者のバランスが大切です。あなたのバランスはどうですか? やせ過ぎだと思う人は、働きよりも恵みに満たされることを求めて、太り過ぎと思える人は、宣教の働きに参加することを考えてみましょう。
 そのために、賜物を発見して、自分がどのような場で賜物を活かして働くことが出来るのか、求めてみましょう。


関牧師



2009年4月23日

4月26日2009年の週報に掲載

 今日から「最高の人生」というテーマのもとに、賜物を発見し、それをいかに用いていくかについてのセミナーが始まります。グレース・トキ女史がセミナーを導いてくださいます。

 私たちの思いが形になるためには、人、賜物、計画が必要です。主の愛に触れられて、満ち溢れる喜びを持っている「人」。そして、それぞれに与えられている「賜物」。さらに、違う賜物が組み合わされて一つの働きとなるための「計画」。それらが揃ってはじめて、思いが形となります。

 私も、神学校に入った1年目の時、21年前の事ですが、あまりに福音を伝えたいという情熱に燃えて、新宿の街角で一人聖書を持って「主イエスを信じましょう!」叫んだことがあります。しかし、情熱は分かりますが、かえって道行く人に「変な人」に思われてしまい、かえって躓きを与えてしまったのではないかと思います。

 福音グッドニュースを走ってでも知らせたい、この思いは今でも変わりませんが、一人よがり、では良い実は結ばれません。聖書が語るように、私たちは「キリストの体」として、それぞれの賜物が組み合わされて、チームで働くことが必要です。

 今日から3回に亘ってのセミナーの中で、まず賜物の発見テストを行います。その結果はとてもエキサイティングなものになるでしょう。次にその賜物をどのように活用し、一つの働きとして実現していくかについて学んでいきます。
「共に走る」方々、どうぞご参加ください。           関牧師

2009年4月18日

あふれる命

イースター礼拝に子供たちと一緒に賛美しました。 その時の様子を載せました。

2009年4月16日

4月19日2009年の週報に掲載

 十字架、復活と続き、次に何が来るのでしょうか? ここで止まってしまうと、この素晴らしい恵みが個人の内面で留まってしまいます。主の復活を知ったマリヤたちは、次ぎに何をしたのでしょうか?彼女たちは「走って」他の弟子達に復活の事実を知らせに行きました。
 そうです「知らせる」、つまり福音の宣教が始まるのです。このグッドニュースは、主の十字架と復活を経験した者たちの内側から、大きな喜びと共に溢れ流れてくるものです。

 最近、何でもいいですが、大きな喜びをもって伝えずにはおれない、というメッセージを持ったことがありますか? 一分でも一秒でも速く「走って」伝えたいというものです。そのようなメッセージを持つことが出来ること自体、本当に幸せなことですね。伝える自分自身が一番恵まれます。
 鈴木先生が「自分の足で立つ」というテーマで11年間ホノルル教会を牧会してくださいました。それを受けて私は「自分の足で歩く」というテーマを掲げました。これは信仰の自立に関わることでした。今回、次のテーマが与えられました。それは「共に走る」です。
 マリヤたちは、あまりの喜びのゆえに走らずにはおれなかったのです。私たちも、自分の足で立って、歩いたら、今度は仲間と一緒に、このグッドニュースを知らせるために、共に走り出しましょう。私たちは、それほどの喜びを頂いているのですから。
 そのために、賜物を発見し、活用し、チームを結成し、溢れる命の源となりましょう。福音が語られるなら、素晴らしいことが起こります。 こんな喜びの人生はありません。最高の生き方です。

関牧師


2009年4月8日

4月12日2009年の週報に掲載

今日は復活祭! 主の復活を心から喜びましょう。

 私たちの信仰、宣教の実質は「復活」の歴史的事実にあります。

「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のもになります。」(Ⅰコリント15:14)と記されている通りです。

 復活など神話に過ぎない、と言う人はいつの時代にもいます。しかし、復活が事実であるかどうかを一番知っているのは使徒たちです。人は偽りのために命をかけることは出来ません。使徒たちは全員が殉教しました。あの臆病なペテロにしても、イエスが生きている時でさえ裏切った者たちが、ましやてやキリストの死後、復活という嘘のために命をかけることはあり得ません。

 彼らは、確かに復活のキリストに出会ったのです。その手とわき腹に、十字架の傷跡を見たのです。だからこそ、復活の証人として最後の一息までキリストの福音を宣教したのです。

 キリストの十字架の死と復活は歴史的事実です。私たちの信仰は、単なる神話や言い伝え、人が作り出した教理に立っているのではありません。また自分の感覚や体験、感情の起伏に立っているのでもありません。キリストが、私のために死なれたこと、そして復活して今も生きておられること、この事実に立っているのです。

 パウロは、もし復活がないのなら、自分はすべての人の中で最も哀れなものだ、と言いました。それはそうでしょう、ありもしない偽りのために命を懸けているのですから。しかしパウロは、キリストは死者の中からよみがえった! と高らかに宣言しました。主は今も生きておられます。 これは歴史的事実です。 

関牧師


2009年4月1日

4月5日2009年の週報に掲載

 今日から受難週に入ります。10日の金曜日はグッドフライデー、そして主日は復活祭へと続きます。この8日間は、主の苦しみの極みから復活の歓喜へと向かって行く、まさにキリスト教の真髄が現れるような日々です。
 しかし、街中はいつもと変りません、日常生活が流れています。いつものように、仕事に行き、学校に行き…。でもそんな日常の中で、主は絶えず語っておられます。決して山奥の静寂の中だけではなく、雑踏と騒音の直中にも主はおられます。
 この受難週の期間、YOUTUBEでバッハのマタイ受難曲を聴いて黙想してみるのもいいでしょう。ヘンデルのメイサヤもいいでしょう。黙想のしおりも是非用いてください。グッドフライデーの集会では聖餐式もあります。是非ご参加ください。
 中には、静まる余裕のない方もおられるでしょう。一日の5分間でも、主の御前に静まって、主の十字架に想いを向けることが出来ればと思いますが、心に余裕がなければその5分間さえも持てないものです。

 しかし、もともと私たちは自分の想像力で主の十字架のもとにいくわけではありません。聖霊によって初めて、あの主の十字架のもとに導かれるのです。聖霊は永遠のお方です。ただ私たちは、これまでより一歩でも近く、主のもとに近づきたい。言い伝えによると使徒ヨハネは、主の十字架から流れ落ちる血潮を、その手に受けたと言われています。それくらいに、主の近くに導かれたいと思います。


一人一人が聖霊に導かれて この受難週を過ごしましょう。

関牧師



2009年3月25日

3月29日2009年の週報に掲載

 ここ2週続けて牧師館でパーティが持たれました。皆が集まって、美味しい食事をいただき、笑顔で交わり、子供たちが駆け回り、わいわいと楽しい一時でした。 

 ハワイの牧師はバーベキューが出来なければ勤まらないと、某牧師が言っていました。料理ならお手のもの、バーベキューも大歓迎です。しかし今回は、鍋奉行ならぬ、バーベキュー奉行もあることを知りました。火をおこす所から、焼く順序、焼き方まで、全部自分が仕切らないと気がすまない、ということです。

 そう言われれば、確かに自分は、まず鍋奉行であることは間違いない。年末の鍋パーティでは3種の鍋を朝から準備して、具材を入れて、取り分けるまで、全てを仕切っているし、それが実に楽しいのです。ただし、自分の段取りと違うことが起こると、機嫌を損ねるという厄介な存在でもあります。
 この度は、ある方からバーベキュー奉行の名前も頂戴いたしました。喜んでいいのか、悪いのか…。でも皆が美味しいと言って食べてくれるのが何よりです。
 バーベキューを見て、いつも思い出すことがあります。ある時、主の祭壇に自分自身を捧げる、という聖化の話をしていた時のことです。ある方が、自分の古き人、肉なるものは、じわじわと弱火でなく強火で一気に焼き尽くして欲しいと祈りました。自分の肉の性質が取り扱われるときは、時間をかけないで、一気にやって欲しいということです。その気持ち分かります。バーベキューで肉を焼く度に、自分の肉性もこのように聖霊の火によって焼かれるのだと…、霊的なバーベキュー奉行なのであります。

関牧師

2009年3月18日

3月22日2009年の週報に掲載

 ダビデ・マーチン宣教師 彼は1924年生まれ、1951年に宣教師として来日して以来、9つの教会を開拓し2月10日に天に召されました。 このニュースを知って、しばし感慨に浸りました。私がマーチン先生と初めてお会いしたのは、幼稚園の頃のようですが、その時のことは、ほとんど覚えていません。

 記憶にあるのは、病院のベッドの側で祈ってくださった姿だけです。
 当時の私は、17歳だったと思います。3人を相手に喧嘩でぼろぼろに負けてしまいました。丸太でめった打ちにされて、足の骨も折られ、救急車で病院に運ばれました。全身の痛みで動くことが出来ず、痛みで唸っていました。パンチパーマの友人がベッドを囲んでいる時、マーチン先生が入って来られました。ひげもじゃの大男でした。
 私は、その人が母に連れて来られたキリスト教会の人だということがすぐに分かりました。心底を嫌な気持ちになりました。頼むからかえって欲しいと思いました。しかし、動けない状態で何も抵抗が出来ませんでした。
 マーチン先生は、ただベッドにひざまずいて祈られました。私は友達の手前もあり、恥ずかしいやら頭に来るやらで、とにかく帰って欲しいとだけで思っていました。

 その後、私は高校を卒業しコックの道に入りました。19歳で渡米し、20歳で洗礼を受けました。そして23歳の時に、牧師になる決心をして帰日しました。聖書学院に入る前、私はマーチン先生と再会しました。まさか、あのどうしようもない青年が、献身して牧師になるとは!先生も驚いておられました。涙をもって蒔いた種は、喜びと共に刈り取る、神の約束は確かです。

関牧師


2009年3月10日

3月15日2009年の週報に掲載

 「人生は出会いで決まる」と言われます。出会いがあれば、別れもあります。今日は、吉田文人兄のホノルルでの最後の礼拝になります。4月から東京聖書学院の神学生となります。張ファミリーも1年間の滞在を経て3月一杯で日本に帰国されます。別れの寂しさを感じている中で、3年前にハワイから米本土に越された武岡ファミリーが戻って来られました。
 特に日本人教会では、人の出入りが目立ちます。先日聞いた話しですが、シカゴのある日本人教会では、30人もの人が日本に帰るそうです。不景気を反映して、クリスチャンの駐在員が一気に引き上げるようです。

 私がハワイに来て4月で4年になりますが、たくさんの出会いと別れを経験しました。出会いは嬉しいものですが、分かれはいつでも寂しいものです。慣れるということはありません。それでも、引っ越した先で教会につながっているという報告を聞けば、本当に安心します。

 今は受難節です。イエスは十字架にかかる前夜、弟子たちに「わたしが去ることは良いことだ。助け主(聖霊)が与えられるからだ」(ヨハネ16:7)と言われました。

 また「わたしは、あなたがたを捨てて孤児とはしない」(14:18)とも言われました。イエスが十字架で死なれること、それも別れでした。しかし、その別れは、決して悲しみと失望で終わるものではなく、将来に希望を与えるものでした。私たちの別れも、前に進むために、希望に向かうために必要な神の計画です。そしてイエスは復活され弟子たちに再会したのです。別れと再会、今日は素晴らしい日です。

関牧師



2009年3月4日

3月8日2009年の週報に掲載

 すでに教会の暦では、先週から受難節に入っています。今年は4月10日がグッドフライデー、12日が復活祭となります。毎年、この時期は、特に十字架の主を想う期間としてアピールしています。 

 この期間、ある教会では肉類を断ったり、お酒を控え、あるいは祈りに集中するために断食の時をもったりと、それぞれの過ごし方があります。私たちの教会では、特別な規定を設けてはいませんので、過ごし方は各自の自由です。しかし、大切なのは、十字架の主を想う、ということです。

 何もこの時期だけのことではありません。十字架の主は、常に私たちの信仰の中心です。十字架のキリストに対して、自分自身がどのように相対するかが全てです。そこで、何を聴き、何を見て、何を感じ、何を決めるか、それが私たちにとって最も重要な体験、選択となります。ここが曖昧だと、信仰の全てが曖昧になります。

 私たちが十字架の主に相対するとき、聖霊は次のことを私たちの心に問われます。「イエスを十字架につけたのは誰か?」この問いの重要性は、とても言葉で表現できません。永遠の命がかかっている、究極の問いかけです。この問いかけに対して、どう応えるか…?

 すべてが、ここから始まります。もしクリスチャンであっても、この問いかけに応えていない人がいたら、本当の意味での恵みと祝福には、まだあずかっていないでしょう。フルコースの匂いをかいだようなものです。十字架から与えられる祝福は、全世界を天秤にかけても、余りあるほどの祝福です。 この時期、十字架の主の前に一人立ち、それぞれが聖霊に導かれ、素晴らしい体験をされますように。


関牧師



2009年2月26日

3月1日2009年の週報に掲載

 先週は、LAから溝口先生が来布してくださり、教団の機構改革の説明会を開いてくださいました。1950年以来の機構改革ということですが、ここまで来るのに7年間かかっているとのこと。組織を変えるということは、大変な労力が必要です。

 改革の必要ない完璧な組織というものは有るのでしょうか? どんなに完璧に見えても、時代の変化の中で絶えず改革が求められるでしょうし、むしろ組織というのは、人、状況、ビジョンに合わせて変わるべきものでしょう。

 そこで重要なのは「何のために?」という動機と目的となります。それは、「各地域教会がキリストの体として成長し、キリストの働きを充分に行うために」というものです。それが私たちの動機であり目的です。そのために、ふさわしい組織形態を考えているのです。これさえブレなければ大丈夫です。そのために常に、より良い形を求めていけばよいのです。

 今は健康ブームですが、教会も、怪我をしたり、病気になったり、動脈硬化のようになったりしたら、思うように動くことが出来ません。教会がキリストの体として常に健康であるようにと願います。機構改革は、さながら身体全体のバランスを整えることでしょうか。骨、血管、内臓、筋肉、神経、各器官、そして心、全てがバランスよく動くように。

 キリストが教会の頭です。ですから、キリストの御心を充分に行うことが出来るように、これが私たちの存在意義であり、目的です。このための改革であることをしっかりと持ち続けましょう。

関牧師


2009年2月19日

2月22日2009年の週報に掲載

 目を閉じて、ふと耳をすませてみる。子供たちの歌声、泣き声、誰かの大きな笑い声も聴こえる。車の走る音、バイクの音が聴こえた。あれは空を飛ぶ飛行機の音だろうか? 鳥の鳴き声がした。ピアノの音も鳴り出した。最後に時計の秒針の刻む音があることに気がついた。

 教会の2階のオフィスにいる3分間で聴こえた音です。実に様々な音があるものだと感心しました。でも、心を落ち着けて、耳を開いて聴こうとしなければ、ほとんど聴こえないものばかりです。秒針の刻む音なんて、目の前で鳴っているのに全く聴こえていません。

 でも、全ての音が聴こえたら、きっと疲れてしまうでしょう。音って気になったら、水道の蛇口から垂れる水滴の音でも気になって眠れなくなることがあります。心が向くと、どんな小さな音でも気になってしまいます。逆に心が向いていないと、目の前の音でも気にならないものです。

 最近、もっともっと神の御声を聴きたいと強く思います。聖書には「細き御声」とありますが、神の御声とは、耳をすませて、心を傾けないと聴こえない声なのですね。イエスは「耳のある者は聴きなさい」と語られました。よく「あの人は、聴く耳を持たない」と表現することがありますが、耳は持っていても、聴く耳は…?
 神の御声を求めている人、意外と目の前に、その声はあるのかもしれませんね。今日もマノアの優しい風に吹かれながら、風の中に「細き御声」を探している自分がいます。

「主よお語りください。しもべは聴いています。」    関牧師

2009年2月15日

HCC賛美 - rinato



ゴスペル歌手、内藤容子さんのCDを聴いた3人がぜひこの曲を紹介したいと言って礼拝で始めて賛美してくださいました。 その3人が作ったグループの名前が「rinato」イタリア語でReborn(新しい人生、新しく生まれ変わる)です。 ぜひ聴いてください。

2009年2月12日

2月15日2009年の週報に掲載

「新しいぶどう酒は、新しい皮袋へ」教団機構改革に際して


 人の集まりには、必ず組織というものがある。たまに組織やルールが無い集まりを標榜する集まりもあるが、それは、組織がないという組織であり、ルールを作らないというルールである。


 さて、組織とは、そこに属する人たちが、その目的を遂げるために、働きやすくするためにある。だから、常に人の動きに合わせていかなければならない。それが逆になる、つまり組織のために人を合わせ始めると、本来の目的のために動くことが出来なくなる。

 教会にも組織がある。それは私たちが、主の宣教命令に応え、キリストの体を建て上げるという目的を遂げるためのものである。教会は常に組織を最適なものにする必要がある。


 教団の機構改革とそれに伴う地域教会の組織の変化は、必然的なものであり、教会が成長する上で欠かすことが出来ない。組織とは、現場に合わせて常に変化するものである。現場の変化とは、社会の変化ではなく、教会における聖霊の働きであり、成長のことである。10名の開拓教会と、100年を経た300人の教会と、組織が同じであるわけがない。


 私たちホノルル教会も、その成長に合わせ、また成長を見越して、組織を常に新たにする必要がある。組織は変化するのが当たり前、という考えだ。


 そこで大切なのは、より良く変わらなければ意味がない、改悪ではいけない。変わることを否定するのではなく、どのように変わるのかを考えることが大切であろう。


関牧師



2009年2月4日

2月8日2009年の週報に掲載

 日本を代表する名優であった俳優の緒形拳さんが亡くなられた。彼の最後の作品となった「風のガーデン」というテレビドラマがある。倉本聡脚本の北海道富良野を舞台にした名作だ。

 緒形拳が演じるのは、終末医療を地域で実践する医者である。その息子は、都会の大学病院で活躍する麻酔医である。この息子は、女ぐせが悪く、そのために彼の妻は自殺をし、二人の子供は祖父になる緒形拳が育てている。
 ある時、その息子は自らが末期がんであることを知る。彼は、自分の人生を振り返りながら、父と子供たちの元に帰っていく。しかし、父には勘当され、子供には自分が死んだことにされている。そんな中で、息子は父の近くまで来るのだが、なかなか父に会う勇気がない。

 おっと、ストーリーは、ここまでにしておこう。脚本の倉本氏は、クリスチャンではないと思うが、内容は聖書の「放蕩息子」そのものである。彼の前作「優しい時間」というドラマも、内容的に全く同じ設定である。彼が一連のドラマを通して訴えているのは「赦し」である。それだけ、現代に生きる人々は「赦し」を求めているのだろう。

 しかしドラマを見る限り、話しがうまく行き過ぎる、という感想は否めない。そんなに人は人を「赦す」ことが出来るのだろうか? 逆に、やはりドラマだからと思われてしまうような感じが残る。聖書の放蕩息子は、まさに無条件で赦される。しかし、この赦しは許しではない。その赦しの根拠は、十字架におけるイエスの身代わりの死という事実がある。罪の裁きがなければ、赦しは成立しない。神の赦しは、十字架の裁きを経た赦しである。だから確かなのだ。

関牧師


2009年1月29日

2月1日2009年の週報に掲載

 今朝は吉田文人兄の証しがあります。彼は4月から東京聖書学院という神学校に入学します。牧師としての生涯に足を一歩踏み出します。井下泰文先生の卒業と入れ替わりとなります。ホノルル教会から献身者が起こされることは、教会にとっても大きな喜びであり祝福です。

 基本的には献身とは、クリスチャンにとって標準のことですが、教会では特に牧師になる人のことを献身者と呼ぶことがあります。全てを神に捧げて従って行く決意を明確にした、その結果神が牧師として召してくださったということです。

 日本では牧師が足りません。牧師はいくらでも必要です。確かに楽な仕事ではありません。しかし、人生をかけるのにふさわしい仕事であると信じています。最近では、早期退職した方々が、神学校で学び牧師になるケースもあると聞きます。クリスチャンの方は、一度は神に自分はフルタイムの牧師、伝道者、宣教師に召されているのではないかと問うとみるべきだと思います。

 賜物を与え、召される方は神ですから、人が勝手に決めることは出来ません。皆が牧師になるわけではありません。しかし、神の召しに耳を傾けることは大切なことです。それぞれが、与えられた場で、賜物を生かして、神に仕えることです。

 私が聖書学院に入学したのは1988年23歳の時でした。その時の頃を思い出し、献身を新たにしているところです。これから吉田兄の学びと訓練が祝福されますように。日本に帰国するまでに必要の全てが与えられ整えられますように、お祈りしましょう。

関牧師