2013年12月26日

12月29日2013年の週報に掲載

 2013年最後の主日礼拝となりました。この1年間も、共に主を礼拝できたことを心から感謝いたします。イブに持たれたキャンドルライトサービスは、光輝くイルミネーションの中、新しい方も大勢来会してくださり主のご降誕をお祝いしました。

 この1年間の出来事の一つ一つを結んで、神のご計画を悟る者でありたいと思います。そしてすべてのことを益としてくださることを「知っている」と告白する者でありたいと思います。さらに、来年もすべてが益になると信じて、神を賛美する者となりましょう。

 年末祈祷会が持たれます。31日6PM~ 皆で一年の感謝を分かち合いましょう。年越しそばもあります!

 節田八江子さんが、1月2日に100歳の誕生日をお迎えになります。その時は日本に滞在していますので、また元気にハワイに帰って来れますように、先に「おめでとうございます!」と言わせていただきます。

 6名の若者がECカンファランスへ旅立ました。中川祐真兄も、日本から参加の予定です。みんなが霊に燃え、確かな恵みの体験を持って帰って来れますように祈りましょう。

 私は、つかの間のバケーションです。ゆっくりしながら、今年一年を振り返りたいと思います。

過去には感謝、今は賛美、将来には希望
皆様、主にあって良いお年を! 関真士師

2013年12月18日

12月22日2013年の週報に掲載

 神は、私たちにご自身に対する絶対的信頼を持って欲しいと願っています。

 試練に合う時、それによって心が動揺する時、自分の力では解決が出来ない時、そんな状況に直面すると、ある人はいよいよ神に近づき、神に祈り求め、神への信頼を深めていきます。しかしある人は、いよいよ神につぶやき、神から離れ、神への不信を増していきます。

 その違いは、どこにあるのでしょうか? イザヤ書7章に登場するアハズ王は後者の人でした。神のことばに耳を傾けることをしませんでした。なぜでしょうか?

 両者の違いは、神への信頼があるかないかです。もっと言うと、神への信頼は、神が自分を愛していてくださるという確信から生まれます。自分は神に愛されているのだから「大丈夫だ」と言えるのです。私たちは、自分のことを愛していない、それは関心がない、守ってくれない、共にいないと同じことです。そんな相手は信頼できません。神への信頼とは、神に愛されている確信から生まれます。

 しかし、人はその確信と信頼を持てないことがあるのです。不信仰なのです。神は、その不信仰の民に対して諦めないのです。それでもなお、「わたしはあなたと共にいる」ことを知らせようとするのです。それが、クリスマスの出来事になるのです。

 クリスマスが、不信仰の民に対して、「大丈夫だ、確かにわたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを愛している」というしるしなのです。

関真士師

2013年12月17日

12月15日2013年の週報に掲載

 南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領が天に召されました。95歳でした。度重なる脅迫、危険、27年間の獄中生活を乗り越え、大統領に就任し、アパルトヘイト(人種隔離政策)を撤廃しました。「和解のシンボル」と呼ばれたマンデラ氏は、大統領に就任し、権力を手中にしながらも、決して白人に対する報復をしませんでした。「共に座して、語り合う」ことをモットーとして、人種を超えた「和解」を実現したのです。

 マンデラ氏も、また「仕える」人でした。隣人の、国家の平和のために人生を捧げました。高い地位に就いた後も、「仕える」生き方は、変わりませんでした。

 私たちもまた「イエスの心を自らの心として」、「仕える」生き方を実践したいものです。「小さな事を大きな愛で行いましょう。」(マザー・テレサ)

 先週に続いて、今週も、チャレンジをします。この一週間、教会の中の名前を知らない人の中から最低一人を選び、名前を知り、その人のために毎日祈るのです。一言でいいです。「今日一日、**さんに平安がありますように」など。この小さな行為を大きな愛を込めて行いましょう。

 この事が実践されたら、どんなに素晴らしいことが起こるでしょうか? 仕えるという生き方を一つ実践する、このキリストの誕生の時に最もふさわしいチャレンジではないかと思うのです。

関真士師

2013年12月6日

12月8日2013年の週報に掲載

 今日は、ホノルルマラソンの日です。今頃、皆さん一生懸命に走っていることでしょう。教会の方も、ランナーとして、あるいはボランティアやアルバイトに駆り出され、朝の礼拝に来られない方が多いですが、夕礼拝には来られることでしょう。毎年、日本からのランナーの方が、足を引きづりながら、夕礼拝に来られます。やはり主日は、礼拝を守りたいですね。夕礼拝は7PMから行っていますが、毎週10名強の方々が礼拝を捧げています。お仕事などで昼間には来れない方や、静かな雰囲気を好む方が集まっています。

 今年のクリスマスのテーマは、「仕える」です。主イエスが人となったお生まれくださったのは、「仕えるため」です。(ピリピ2:6~8)この主イエスの「仕える姿」「仕える心」を私たちの生き方とさせていただきましょう。

 仕えるとは、一つ、「人の優れた所に目を留め、喜び、支援する」ことです。その逆は「自己中心と虚栄心」です。(2:3) 自分の中に虚栄心がどれほどあるかは、人の優れた所を見た時に、喜べるか、それとも心穏やかでなくなるかで分かります。

 主イエスは、私たちの中から虚栄心を取ってくださいます。そんなものを持たなくても良いように、心を主イエスの愛で満たしてくださいます。そして今度は、私たちが主イエスのように、対する相手から虚栄心を取ってあげられるようになりたいです。私たちが相手に仕える時、その相手から虚栄心が取り除かれるのです。まず自分から、そして自分がされたように隣人へ、仕えていきましょう。

関真士師

2013年11月29日

12月1日2013年の週報に掲載

 12月7日(土)は、ハワイに住む私たちにとって決して忘れてはならない日です。1941年日本軍による真珠湾攻撃の日です。ここから世界大戦の火ぶたが切られました。

 8日は、ホノルルマラソンです。日本から2万人以上の参加者があります。時代は変わり、ハワイは、癒しの島として日本人の憧れの島になりました。

 何度もこのコラムで紹介していますが、真珠湾攻撃の攻撃隊長であり、有名な「トラトラトラ」(我奇襲に成功セリ)の暗号を打電し、一番機に乗っていたのが淵田美津雄大佐です。彼は東京裁判で被告として裁かれ、その中でアメリカに対する憎しみで心が一杯になります。そんな彼が、イエス・キリストに出会いクリスチャンとなるのです。そればかりが伝道者となり、日本から世界中に、キリストの愛と赦しを伝える者に変えられたのです。戦後、淵田牧師はハワイにも来ました。まさに彼は、キリストの証人となったのです。

 彼がハワイに来た時、テレビ出演をしてキリストの愛と赦しを語りました。それを見たある視聴者から「おまえがキリストを信じて変えられたのは結構だが、真珠湾攻撃の前に回心した欲しかった。私に息子は、あの攻撃で死んだのだ。私はテレビに向かって唾を吐いてやった」という言葉が寄せられました。

 無理もないことでしょう。しかし、それでも淵田牧師はキリストの愛と赦しを語り続けました。キリストの証人としてふさわしくない者であっても、だからこそ、そんな罪人を愛して赦してくださったキリストを証せずにはおれないのです。

関牧師

2013年11月21日

11月24日2013年の週報に掲載

 「この天下にイエスの名以外に救いはない。」なんと大胆な宣言でしょうか? よく「登る道は違っても、行く着く頂上は同じだ」と言います。宗教は色々あるけれども、目指す所は同じ、同じ救いに至るのだということです。確かに目指している所は、つまり救いを求めている事においては同じでしょう。しかし、それぞれの宗教における「どうしたら救われるのか?」「救いとは何だ?」の定義がそれぞれ違っているのです。道が違ったら、行く着く所は違います。そもそも、救いへの道は、人間が勝手に作り出せるものではないのです。

 主イエスは「わたしが道であり、真理であり、命なのです。誰でもわたしを通してでなければ父のもとに来ることは出来ない」と語られました。聖書は、明確に述べています。救いとは、主イエスを救い主として信じることによって与えられるのです。私たちは、ここを曖昧にすることは出来ないのです。

 この真理が、私たちがキリストを宣べ伝える理由となります。他に救いがあるのなら、何も命をかけてキリストの福音を伝えることもないのです。しかし、これしかないのです。ですから私たちが、教会が伝えなければならないのです。

 そして、私たちが、キリストの愛に燃やされて、キリストを証しようとする時、どうしても、自分の力の足りなさを実感します。この一人の罪人に、キリストを証することなど出来ないと思わされます。キリストを証したい、しかし出来ない、という二つの思いに板挟みになるのです。この葛藤を打ち破る秘訣は、ただ一つ「聖霊に満たされる」ことです。聖霊の満たしを求めていきましょう。

関真士師

2013年11月14日

11月17日2013年の週報に掲載

 先週は、マキーダさんの証と賛美を通して、神様の恵みをいただきました。午後の集会では、 マキーダさんとロン・ブラウン氏、ティム・ケプラー氏の3名が証と賛美をしてくださいました。それぞれが、過去の人生を赤裸々に語りました。そして、そのドン底から救い出してくれた主イエスへの賛美を全身で表現しました。

 孤独、喪失、虐待…、どうしようもない悲しみ、怒り、憎しみ、自殺願望、そこに忍び寄るドラッグの罠。それぞれがドラッグ依存の苦しみの中で、刑務所の中で、精神病院の中で、神の御声を聴き、その神の呼びかけに応えたのです。そして人生が変わったのです。

 私たちが学ぶべき大切なポイントは、マキーダさんが語られたように、「自分の問題を明け渡すこと」です。彼女は精神病院の一室で「I surrender all」という讃美歌に出会い、それを賛美しました。 SURRENDERとは、「降伏」という意味です。それが「明け渡す」という意味にもなります。

 私たちは、何に降伏するのでしょうか? 神の愛の力に降伏するのです。神の愛の力の前に私たちは無力なのです。そこにひれ伏して、それでも自分が神に愛されていることを受け入れるのです。降伏したのですから、自分が抱えているすべての問題を、神に明け渡すのです。そこから新しい事が始まるのです。握り続けるか、明け渡すか、どちらを選ぶかで、すべてが決まります。ハレルヤ!

関真士師

2013年11月7日

11月10日2013年の週報に掲載

 ビリー・グラハム師は、11月7日に95歳を迎えます。その日に合わせ7日~10日にかけて、ビリー・グラハム師のメッセージが、テレビ、インターネットを通して、全世界に配信されます。

 ビリー・グラハム師は、アメリカの大衆伝道者として一つの時代を担いました。日本には、後楽園球場、東京ドームと、大伝道集会を開催しました。

 この度は、My Hope Americaをテーマに、約30分間の映像の中に、様々なジャンルの証し人と、ビリー・グラハム師のメッセージが語られます。従来の大規模なスタジアムでの集会ではなく、そのDVDを用いて、家庭集会などの小さなグループで見ることが出来るようにしています。この映像を通して、すでに多くの人がイエス・キリストを受け入れているそうです。
 興味のある方は、http://www.billygraham.org/ からご覧ください。

「全世界に出て行って福音を宣べ伝えよ」が主イエスの命令です。
 先週は角田兄の証を通して、「恵みを独り占めするな」のタイトルにチャンレジを受け、この福音を伝えたいという湧き上がる思いを共有しました。そして「受けるよりも、与える方が幸いです」の御言葉の賛美を捧げました。ビリー・グラハム師は95歳になってもなお宣教の情熱に燃えています。私たちも、福音を宣べ伝えることに、情熱を傾けていきましょう。

関牧師

2013年11月1日

11月3日2013年の週報に掲載

 年末に向けて、行事が多くなってきます。予定表を週報にインサートしましたので、どうぞ予定をご確認ください。

 斎藤善樹先生をお迎えしてのホノルル・リトリートも無事に終わりました。このような集会の成否は、終わった後かかっています。語られたこと、いただいて恵みをどのように心に留め、実践につなげていくかが大切です。

 礼拝では、マタイ25章のタラントの譬話から、私たちの神観について教えられました。もし私たちの神観が、過酷な神、冷酷な神、残酷な神という、間違った神観を持っていたら、その信仰生活もまったく違ったものになるでしょう。

 神は、恵みの神であるということです。いつも怒っている神、無関心な神、いじわるをする神、ではないのです。私たちのこれまでの人生経験が、神観を歪めてしまうことがあります。しかし、私たちは、主イエスを信じて救われました。主イエスを通して、真の神のお姿を知ることが出来るのです。

 神は、怒るのに遅く、恵みに満ちています。私たちの人生に最善の計画を持っています。私たちと常に共にいてくださって、私たちの人生のすべてに関わってくださいます。

 聖書から、正しい神観を知り、神との正しい、親しい関係をさらに豊かなものにしていきましょう。

関牧師

2013年10月25日

10月27日2013年の週報に掲載

 先週のメッセージより

 誰もが求めているのは「真実な交わり」です。嘘、偽りのない、本音で受け入れ合うことのできる場があったら、誰だって居たくなります。聖書は「真実を語り合いなさい」と語ります。

 私たちは、意識的な嘘を付くことはあまりないでしょう。あったとしても、それは本人が嘘と自覚していますから、悔い改めのチャンスがあります。

 むしろやっかいなのは、無意識の嘘、善意の嘘です。京都では、「お茶をもう一杯いかがですか?」と言われたら、それは「お帰りください」という意味だそうです。言葉通りに受けとめて、「もう一杯」と言ったらいけないのです。これは、嘘を付いているのではなく、相手を傷つけないための言い回しなのです。

 しかし、それはお互いがその言葉の本当の意味を理解している場合に成り立つコミュニケーションです。もし「もう一杯ください」と言って、後で「なんてずうずうしい人か」と言われたら、それは「嘘を付かれた」と受け取られても仕方ないでしょう。

 心の中の思いと言葉が同じである、それが真実ということです。安心して相手の言葉をそのまま受け留めることが出来る、それが真実な交わりです。私たちも自らの言葉が真実であるように、そして言葉の裏も表もない、本音の交わりでありますように、そのような交わりを保っていきましょう。

関牧師

2013年10月18日

10月20日2013年の週報に掲載

 「礼拝の後に、交わりの時間がありますので、お残りください」と言うことがあります。この「交わり」という言葉は、教会用語です。初めて来られた方には「交わり…?」という感じかもしれません。

 「交わり」とは、ギリシャ語では「分かち合う、共有する」という意味です。つまり、「交わり」とは、単にお茶を飲みながらの雑談や、会話を楽しむことではなく、何かを分かち合うことなのです。

 それで問題になるのが、何を分かち合うかです。それは「互いに愛し合いなさい」という御言葉の通りに、「キリストの愛」を分かち合うのです。その愛は、赦し、受容、癒しなのです。

 聖書は、「交わりを保ち」と語ります。交わりを一時持つのは簡単です。しかし保つことは難しいのです。人は、お互いを知れば知るほど、近づけば近づくほど、仲が良くなることは稀です。むしろ関係を保つことが難しくなります。それは人の中にある罪のゆえです。この現実の中で、交わりを保つことが出来るとするならば、それは「赦し」なしにはあり得ないのです。

 交わりを保つ秘訣は、ただ一つ、「私が主の十字架の前に立つ」ことです。主の十字架を仰ぎ見ることによってのみ保たれる交わりなのです。それが教会のコイノニアです。そして、それこそ人々が求めてやまない、ありのままで居られる交わりの実現なのです。

 共に、主の十字架を仰ぎ見て、交わりを保ちましょう。
関牧師

2013年10月17日

10月13日2013年の週報に掲載

 たった一泊の訪日でしたが、梅村尚之兄を賛美と祈りをもって送ることが出来ました。どうか奥様のすみ姉に上に、主の慰めと希望が豊かにありますように、お祈りいたします。

 6日の礼拝の中で、私たちは心を一つにして祈りましたが、ちょうどその少し前でしょうか。尚之さんは天に召されていきました。

 生前に尚之さんにお会いできなかったのは残念ですが、神のご計画は、この地上に残された者への「神の慰め」を届けることにあったのだと思います。皆様のお祈りを感謝いたします。

 先週で「礼拝」についての話を終え、今日から「交わり」に入っていきます。礼拝とは、常にこの世界に向かってオープンです。サマリヤの女性が、自分の町に帰っていき、「来て、見てください」と告げたように、真の礼拝とは、「来て、見てくださ」と言える者たちの集まりです。「来て、見てください」「何を?」「救い主がここにおられるのです。」これを言える礼拝が、真の礼拝です。

 これを言い切れる者たちでありたいと思います。その原動力は、喜びの泉です。神に愛され、救われた自分の内側から湧き上げるものです。サマリヤの女性は、その湧き上がる喜びがあったので、自分を差別し、自分を信用しない者たちの所に行っったのです。伝えたいという思いを留めるものは、この喜びの前にはなかったのです。この土曜日に「礼拝刷新を考える会」を開催します。どなたでもご参加くださって、真の礼拝について考えましょう。

関真士牧師

10月6日2013年の週報に掲載

 「礼拝」とは、神を崇めることです。ですから私たちが普段の生活の中で、神を崇めていることが、礼拝者として生きることです。  この礼拝者が、特定の曜日、時間に集まって捧げる礼拝が「礼拝式」と呼ばれるものです。

 ですから私たちは、日曜日の礼拝式に参加したから礼拝者になったのではなく、礼拝者が集まったので礼拝式が成立するのです。

 ヨハネ4章23,24節には「真の礼拝者」とあります。さらに真の礼拝者は「霊と真によって礼拝する者」ということです。

 霊によってとは、霊的であることです。ローマ12章1節にあるように、それは「捧げる礼拝」です。私たちは、賛美を捧げ、祈りを捧げ、礼拝を捧げるために集まっています。そして何よりも、自分自身を「聖なる生きた供え物」として捧げるのです。

 真によってとは、真実な心でということです。捧げると言いながら、実は自分の肉の欲を満たすための形だけの礼拝であるなら、それは偽りです。偽りをなくすには、本当のことを言うだけです。自分を真の礼拝者に見せる必要はありません。肉の欲を持っている自分の姿を神に前にさらけ出すことです。そしてその自分が、主イエスの救いのゆえに聖なる者とされたということです。そう考えると、真の礼拝とは、主イエスの十字架の救いを通らなければ捧げることが出来ないものだと改めて分かります。

関真士牧師

2013年9月26日

9月29日2013年の週報に掲載

 嬉しいお知らせがあります。熊本キリスト教会で牧会している吉田文人先生のお母様が、イエス様を信じて洗礼を受けることになりました。ハレルヤ! 文人先生のご両親は栃木に住んでいますが、11月の始めに熊本で洗礼を受けられるそうです。自分の母親の洗礼に立ち会うとは、どれだけの喜び、感謝でしょうか。共に主の聖名を賛美しましょう。

 最近、2通のお手紙を受け取りました。お二人とも、日本の教会で洗礼を受けるという内容でした。ハレルヤ! お二人とも、ホノルル教会の礼拝に参加したのが、大きな転機になりました。一人の人の救いのドラマに、ホノルル教会が用いられたことを本当に感謝します。

 「ここにホノルル教会があってありがとう、これからもあり続けてください」と言ってくださった方がおられます。これからも、私たちがここにあり続けるために、主の栄光を現すことの出来る群れとして成長していきたいと願います。

 教会は、一人一人の「人の集まり」です。まず自分からさらなる成長を求めていきましょう。その成長をサポートするために、「ホノルル・リトリート」が開催されます。ホノルル教会が、ホノルル教会のために、集う一人一人のために、あなたのために開催するものです。日本から特別ゲストとして斎藤善樹先生をお迎えしています。今から祈り備えて、是非、参加をしましょう。

関 真士牧師

2013年9月20日

9月22日2013年の週報に掲載

 先週は、敬老のお祝いの中で、私の誕生日のお祝いしてくださって、ありがとうございました。49歳になりました。洗礼を受けたのが、1984年20歳の時でした。今年で、神の子供として生まれ変わって、29年経ちました。まだ29年、もう29年…来年は50歳、洗礼記念30年となります。

 と自分の思いに浸っているのも変ですが、ここで、もう一度ビジョンを語りたいと思います。50歳までに本を書く! 最近、雑誌の連載の機会をいただいたり、トラクトの文章を書かせていただいたり、書く機会が与えられています。いい感じです。

 本を書く理由は、第一に必要を感じるからです。教会に集うお一人お一人に、信仰の大事な所をお伝えしたいのです。神さまが私に与えてくれた賜物は「伝えたい」という賜物なのだと最近思うようになりました。とにかく伝えたいのです。

 しかし、独りよがりではいけませんので、以前、講談社で編集のお仕事をされていた方に、勇気をもって書いたものを見ていただきました。厳しいお言葉をいただけると覚悟していたのですが、「とにかく書きまくるように、あなたは書けば書くほど良くなる。多作にまさるものはない」とのことでした。その言葉に大きく励まされました。すでにだいぶ書き溜めてはいるのですが、神の許しと、時が満ちるなら、その機会も与えられるだろうと、信じて書き続けています。どうぞ祈りの一端に加えていただけたら幸いです。

関真士牧師

2013年9月13日

9月15日2013年の週報に掲載

 2020年の東京オリンピック開催が決定しました。賛否両論色々ありますが、私にとっては、感慨深いものがあります。私はちょうど先回の東京オリンピックの年、昭和39年(1964年)に生まれました。しかも誕生日は敬老の日(9月15日)の今日ということなので特別な思いに浸っています。

 それはさて置き、教団総会も無事に終わり、今度は「ホノルル・リトリート」に向けて意識を高めていきたいと思います。そもそも、このリトリートを持つ目的は、ホノルル教会が「癒しの教会」として成長するためにあります。そのためには、まず私たち一人一人が、癒され、癒され続け、御霊の実を結び、その実を他者に食べていただける、そんな自分でありたいと願います。

 「癒しの教会」と標榜するからには、癒しを必要としている人が教会に送られて来ます。まさに主イエスの教会としてふさわしい姿でしょう。しかし、癒しを必要としている者は、傷ついた者であるということです。教会の癒す力が弱ければ大変です。

 そこで共に確認したいことは、私たちが癒すのではなく、癒し主はイエス様だということです。私たちの務めは、そのイエス様の霊である聖霊が教会でご自由に働いてくださる環境を作ることです。人々を癒しに導こうとされる聖霊の働きを妨げないことです。互いに愛し合うこと、赦し合うこと、真の礼拝と祈りがあること、決して隣人を裁かないこと、偽りの噂や中傷をしないこと、口から出る言葉を清めること…など、まず自分からです。

関牧師

2013年9月9日

OMS教団バンクエット2013での賛美

OMS教団バンクエット2013がホノルルで行われました。その時の様子です。

ココをクリックしてください

2013年9月5日

9月8日2013年の週報に掲載

 教団総会も今週で無事に終わり、8日の聖日礼拝は、多くのゲストをお迎えします。 特に、細見剛正先生は、1969年から1981年までホノルル教会の牧師としてご奉仕くだいました。 先生は、KZOOラジオの前身であるKOHOラジオから福音放送を始められています。 戦後のホノルル教会の礎を築いてくださった先生を礼拝にお迎えすることが出来て心から感謝いたします。

 また1949年、英語部の初代牧師として奉仕されたアーネスト・キルボルン先生も来られます。 先生は92歳の今も、宣教の最前線で活躍されています。

 この聖日礼拝では、メッセンジャーとしてLA教会から溝口俊治先生をお迎えてしています。 聖霊に満たされた熱きメッセージを語ってくださいます。ご期待ください。

 日語部の礼拝に続く、英語部の第二礼拝(10:45AM)では、キルボルン先生のメッセージがあり、日本語への同時通訳もあります。どなたでもご出席ください。

 私たちの教団が、またホノルル教会が、今日まで存在するためには、積み重ねられたきた歴史があります。 歴史とは過去の出来事です。 しかし、それは単なる過去の記録に留まるものではなく、今を造るものであり、さらに、将来の道を指し示すものでもあります。 これまでの歴史に感謝し、今を喜び、将来を待ち望む者たちでありましょう。

関真士牧師

2013年8月29日

9月1日2013年の週報に掲載

 今週は、教団総会があります。10年に一度のハワイでの開催になります。教団所属の17の教会から牧師と代議員、引退牧師が来布されます。今週の金曜日、土曜日と、ホノルル教会を会場に開催されます。

 今回から総会のあり方がガラリと変わり、内容がセレブレーションとなり、共に集まり、主に賛美と感謝を捧げる時となります。

 ホノルル教会日本語部の代議員は、石井真澄兄、角田利光兄、松田塩美姉の3名です。オブザーバーとしてどなたでも参加できますので、どうぞ私たちの教団の様子を見にいらしてください。

 金曜日の夜のバンケットには、1921年ロスアンジェルスで教団の最初の洗礼者となった吉原武一兄の子孫が来られます。またホノルル教会の創始者である平野俊雄師の息子デイビッド平野師(セントラルユニオン教会牧師)も招待されています。平野俊雄師は、ホノルル教会を退任後、オリベット教会、パールシティ教会も創立しています。

 私たちは、普段ハワイに居ますと、教団を意識することが少ないでしょう。教団の名前を全部言えるでしょうか?
Oriental Mission Society Holiness Church of North America日本語では、“東洋宣教会北米ホーリネス教団”となります。

 この機会に是非、教団の歴史やビジョンに興味を持っていただければと思います。

関真士牧師

2013年8月22日

8月25日2013年の週報に掲載

 ある時、弟子たちが主イエスのもとにやって来て「祈ることを教えてください」(ルカ11章1節)と願いました。

 弟子たちは、ユダヤ人ですから、生まれた時から常に祈っていました。というより祈りは生活の一部でもありました。その弟子たちが、まるで祈りを知らない人のようにして、「祈ることを教えてください」と言うのです。しかも、「祈りについて」のセミナーではなく、「祈ること」そのものを教えてくださいと願ったのです。  弟子たちは、いつも主イエスの祈る姿を見ていました。同じ「祈り」と呼べる宗教的行為なのに、自分たちの祈りとは全く違う何かを見ていたのです。それは何でしょうか?

 まず、主イエスが神を「アバ父」と呼んでいることです。神を父と呼ぶということは、当時の弟子たちには考えられないことでした。また、自由な言葉で祈っていることです。決められた祈祷文を繰り返すのではなく、自分の言葉で祈っているのです。

 そこには、ただの宗教行為としての「祈祷」ではなく、神との人格的関係というものがあったのです。祈る対象は? 祈る内容は? それらすべてにおいて主イエスの祈りは人格的であったのです。私たちの祈りも、それが天の父との人格的関係でありますように。祈りの結果も大切ですが、それ以上に祈っていること自体が最高の価値なのです。なぜなら神と交わっているのですから。

関真士牧師

2013年8月15日

8月18日2013年の週報に掲載

 今年もラジオ放送「心に光を」講壇交換の時期です。ホノルル教会には、IJCC教会から冬木友博牧師をお招きしています。

 この講壇交換は、「心に光を」の活動支援へのアピールを目的としています。このラジオ放送は、すべて有志による献金で成り立っています。どうぞ、皆様のご支援をよろしくお願いします。

 「心に光を」は、毎週月曜日から金曜日まで、2:45PM~ AMラジオ1210 KZOOから放送されています。現在7名のハワイの牧師と、正木茂牧師(毎月曜日)が順番に担当しています。

 この放送の目的は、明確です。キリストの福音を宣べ伝えることです。ただ、直接信仰の決心を迫るような内容ではなくて、教会に行ってみたいなと思っていただけるような内容を心がけています。

 この放送を通して、どれだけの人が教会に、そしてキリストの元に導びかれた事でしょうか。日本では「福音放送を聞いています」という人に会ったことがありませんでした。しかし、ハワイでは、驚くほど多くの方々が、この放送を聞いてくださっています。今日の礼拝にも、この放送を通して教会に来てくださった方が何人もおられます。福音を伝えることを考えると、こんな恵まれた手段はありません。これからも「心に光を」放送を継続してまいります。それには皆様の尊い献金が必要です。どうぞこの働きを共に支援してください。そして共に神の御業に参加できる喜びを共有してまいりましょう。

関真士牧師

2013年8月9日

8月11日2013年の週報に掲載

 8月6日は広島に、9日は長崎に原爆が落とされた日です。そして8月15日は終戦記念日です。

 毎年8月が来ると、この日を思い出します。もちろん私は「戦争を知らない」世代ですが、戦争の悲惨さ、愚かさを忘れてはならないのです。

 私の母は、昭和8年生まれ、今年で80歳です。東京の両国は、旧国技館の向いに家があり、隣には横綱双葉山の相撲部屋があったそうです。まさにちゃきちゃきの江戸っ子であったのですが、そこはまさに3月10日の東京大空襲の爆心地でした。

 私たち家族がハワイに来る前に、母と家族みんなで、母が大空襲の中を逃げた道を辿るということをしました。下町のわりには、道路が広く、街並みが整然としているのは、空襲で焼け野原になったからだと聞きました。学校に逃げた人は全滅、母は駅に逃げたので助かったということでした。

 約10万人が死んだという東京大空襲、母の同級生は、母を入れて二人だけが生き残ったそうです。母は戦後、なぜか宣教師の家で働き、それがきっかけでクリスチャンとなりました。子供の頃、夜寝る時に、大空襲の話をよく聞かせてもらいました。

「平和を造る者は幸いです。その人は神の子と呼ばれるからです。」(マタイ5:9)

関真士牧師

2013年8月1日

8月4日2013年の週報に掲載

 洗礼式ほど、教会が喜びに満ちる時はないでしょう。天にも地にも喜びが溢れています。

 洗礼とは、新しい歩みのスタートです。神のかたちに造られた人間としての本来の生き方を取り戻すのです。本来の生き方とは、神を愛し、自分を愛するように、隣人を愛することです。愛するために生きるのです。それは、神に愛されている自分があってこそ始めることが出来るものです。

 ハワイには衣替えはありませんが、日本では季節ごとに服を入れ替えますね。主イエスを信じて新しくされた私たちも、衣替えをします。聖書は「古き人を脱ぎ捨て、新しい人を着なさい」語ります。

 クリスチャンになる前の、今となっては「古く」なった考え方、価値観、行動、悪癖などなど、「古い人」はもう似合わなないのです。惜しまずに捨ててしまいましょう。そしてイエス・キリストという新しい人を着るのです。愛と赦しと癒し、希望に満ちた新しい服を着るのです。そして新しい人は、ますます新しくされ続けるのです。

 すべてが分かったら洗礼を受けるのではありません。ただ主イエスを救いとして、神として信じ受け入れた者が洗礼を受けるのです。             

関真士牧師

2013年7月26日

7月28日2013年の週報に掲載

私たちの信仰は、「神のことばを聴く」ことから始まります。「はじめにことばがあった」とあるように、すべてに優先して「神のことば」があります。

私たちの人生に起こるすべての出来事を、また私たちの思考を、常に神のことばに結ぶ付けて考えるのです。「私はこう思う、こうする」の前に、まず神のことばに結び付けるのです。それはすなわち、神の御心を悟ることなのです。

よく「人のことばに振り回される」ことがあります。人のことばに影響され過ぎて自分を見失ってしまったり、人のことばが心に刺さってしまうこともあります。確かに、人のことばに影響を受けないことはないでしょう。しかし、神のことばにしっかり繋がっていると、振り回されることはなくなります。

まず神のことばを聴き、神のことばに導かれていくなら、私たちの歩みは揺るぎないものになるでしょう。

まだ神のことばを聴くことがよく分からない方は、どうぞ霊の心と耳が開かれるように求めていきましょう。これは修行した特別な者だけが得られるものではありません。信仰によって得られるものです。幼子のような素直な心で、ありのままに心を開いて、「主よ語ってください」と求めていきましょう。「神のことばを聴く」ことから、すべてが始まるのです。

関真士牧師

2013年7月17日

7月21日2013年の週報に掲載

 今年に入って「わたしは、この岩に上に教会を建てます」(マタイ16:18)の御言葉に導かれて「On This Rock」シリーズとして礼拝メッセージを語ってきました。さらにシリーズは続きます。今朝から「5つの鍵とキーホルダー」を元にして、聖書と祈りをキーホルダーとして、5つの鍵、礼拝、交わり、奉仕、伝道、献金のテーマでメッセージを語る予定です。

 すべては、ホノルル教会が「癒しの教会」としての使命を果たすことは出来るようになるためです。

 「癒し」とは、「神の意図した生き方が出来るために、それを妨げる全ての傷が取り除かれる」ことです。それは、聖化そのものです。神の意図した生き方とは、「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することです。」人の罪によって、傷つけられ、傷つけ、その結果私たちは愛することが出来なくなってしまうのです。 癒しとは、その罪と、罪の結果である傷が取り除かれて「愛する」という生き方を取り戻すことです。それを実現してくださるのが、聖霊の働きであり、十字架の救いなのです。
 教会が、愛において、赦しにおいて、成長しますように。愛することが出来る者へと変えられていきますように。

関真士牧師

2013年7月12日

7月14日2013年の週報に掲載

 このたび、角田利光兄が献身することになりました。献身とは、クリスチャンが、神に全生涯を捧げることを意味します。また同時に、フルタイムで牧師、伝道者、宣教師などになることを意味しています。

 ただし、これはなりたくてなれるものではありません。神様からの召命が必要です。神様が御心によって、ある者を牧師や伝道者に任命するのです。

 角田兄は、その神からの召命を受けたので、それに従い、これから神の働き人になるべく神学校での学びと訓練を始めます。

 特に、夫婦で献身する場合、夫婦が同じ心を持って歩むことがとても大切になります。入学するのは角田兄だけですが、夫婦が一緒に居ることがとても大切になります。幸いに聖書学院には、同じ敷地内に夫婦寮がありますので、そこで共に良き訓練を受けることが出来るでしょう。

 聖書学院は全寮制で学びに集中することになっています。ですから皆さん教会の支援を受けて入学します。ホノルル教会も、これまで井下牧師、吉田牧師、中川神学生をサポートしています。角田兄にも学びに専念していただくために、教会が経済的な支援をすることになりました。これは、角田兄からの要請ではなく、教会が、献身者を生み出すという大きな喜びのゆえに、サポートをさせていただくものです。詳しい角田兄の証、また支援の概要は、後日お知らせいたします。
 どうぞ、覚えてお祈りください。

関真士牧師

2013年7月5日

7月7日2013年の週報に掲載

 私たちに与えられている聖霊の賜物を、発見し、訓練し、用いていきましょう。考えただけでもエキサイティングですね。自分に主イエス様の働きの一部が任されているのです。

 自分は、主イエス様の口かな、手かなと考えるとワクワクしますね。賜物が与えられていない人は、一人もいません。必ず何かの賜物が与えられています。
 コリントの教会にあった混乱は、「私はあの人のような賜物がないから駄目だ」とか、「あの人は、私と同じことが出来ないから駄目だ」と、賜物を比較して、優劣をつけて、ダメを出し合っている状況でした。

 そんな状況の教会にパウロは、賜物はキリストの体の一器官であって、賜物には色々な種類があるが、体は一つ、御霊は一つと言ったのです。そして全ての人が求めるべき賜物として、「愛の賜物」について語るのです。

 どんなに賜物があっても、愛がないなら何の値打ちもないのです。まず愛の賜物を求めて、そしてそれぞれの賜物を活かしていきましょう。
 また「賜物発見テスト」をやってみたいですね。以前受けた方も、また変わっていることもあります。そして、それぞれの賜物が活かされるような、愛の教会として成長していましょう。

関真士牧師

2013年6月28日

6月30日2013年の週報に掲載

 この一年間、暫定シェパード委員会は、ホノルル教会の声明文(ミッションステートメント)を作成する中で、教会としての賜物と使命ということを考えました。そこから導き出されたのは、ホノルル教会は「癒しの教会」であるということでした。

 私は、その時に「この声明文で本当にいいんですか?」と問いかけました。なぜなら、「癒しの教会」ということは、癒しを必要する方々、つまり傷ついた方々が来られる事を意味するからです。神は、待ってましたとばかりに、傷ついた方々を教会に送ってくださるのでしょう。大変な覚悟が要ります。

 心の傷は、普段は目に見えませんが、隣人との傷と共鳴して表面に現れてくるものです。癒しの教会とは、集まる一人一人の傷が表に現される所です。ですから、もし聖霊のお働きがなければ、収拾のつかない、逆にもっと傷ついてしまう場になってしまいます。

 ホノルル教会が「癒しの教会」であるためには、神の愛と、神の義が明確に現されることを必要です。傷ついた者が神の愛で包まれ、傷つける者が神の義で戒められることです。どちらがではなく、一人の人の中に、この愛と義が必要なのです。私たちは、傷つけられ、また傷つける者だからです。これは、主イエスの十字架を体験する時にこそ与えられる恵みです。

関真士師

2013年6月24日

6月23日2013年の週報に掲載

 次週は、年に一度の教会総会が持たれます。特に今年度は、シェパード委員会制への移行や、教会細則の改訂など、大切な提案事項があります。どうぞ会員の方はご出席ください。

 シェパード委員会とは、これまでの牧師中心の教会運営から、チーム牧会制への移行を意味します。それによって、一人一人の賜物が活かされて用いられるようになるでしょう。この一年間、暫定委員会として、準備を重ねて来ました。当初は男性だけでしたが、女性にも加わっていただき、10名の委員が候補となっています。この10名のためにお祈りください。

 また定款、細則の改訂は、教団からの要請に基づいています。これまでは全教会一つの細則でしたが、これからは各地域教会ごとに独自の細則を作成するようにとの要請がありました。これを受けて、細則の作成を、これも1年間かけて行ってきました。今回提案されるものは、完成版ではありません。今後英語部との協議も重ねて完成版を作成しますので、今回は暫定版となります。

 また今回『教会員ガイドブック』を作成しました。どうぞ手にとって、内容をご覧ください。これも暫定的に、この一年間かけて実際の動きと照らし合わせていき、改訂を重ねていきたいと思っています。これらの作業は、ホノルル教会の歴史にとって、大きな転機となるでしょう。新しい事が始まっています。

関真士師

2013年6月14日

6月16日2013年の週報に掲載

 今日は「父の日」です。私も一人の父として、改めて父であることの意味を考えています。父という存在に任されている役割は、とても大きいものがあります。現代の特に日本の悲観的な社会状況をもたらした要因の一つに、家庭における父の不在があるように思います。

 戦争中は、国の戦士として不在となり、戦後は企業戦士として不在となりました。仮に、家庭に父が居たとしても、自己表現をしない父である場合、それは実質的には不在に近いものがあります。

 日本の家庭の食卓の風景として、家族が黙って食事をし、父親は目の前で新聞を広げているというものがあります。新聞という一枚の紙が家族との会話を絶っているのです。今では、子供たちの方も、スマートフォンに夢中で、食事をしながらもまったく会話のない家庭も増えているようです。

 今こそ、「父が立ち上がる時」です。自らに任された本来の役割を取り戻すのです。家族を愛し、治め、守り、導き、養うのです。妻と会話をしましょう。子供たちと会話をしましょう。父親自身が自己を表現しましょう。家庭、社会、そして教会においても、男性が「父の心」をもって、その使命を果たしていきましょう。

関真士牧師

2013年6月7日

6月9日2013年の週報に掲載

 ここハワイでは、マンゴーが鈴なりです。同じ土から、パパイヤ、オレンジ、梅、かと思うと大根、ピーマン、ニンジンと、数え切れない種類の果実に野菜、花々、樹木が生じてきます。この大地は、何と気前の良いことでしょう。小さな小さな種の中にあるDNAには、それぞれの種類に応じて育つように、ちゃんと遺伝子情報が書き込まれていいます。

 それにしても、同じ土から、これだけ種類の違うものが生じるというのは、本当に不思議なことです。誰が、その情報を書き込んだのか? もちろん神です。

 作物は、ある一定の条件が整えば、自然に成長するものです。太陽と水と土、これらは絶対不可欠なものですが、人がコントロールできないものです。それらは、神の領域です。しかし、人間は、日照りから作物を守り、水が足りなければやり、土を改良することも出来ます。嵐から守り、害虫を除去し、肥料をやり、雑草を抜きます。

 私たちが、御霊の実を結ぶのも、同じことが言えます。主イエスを信じて聖霊を頂いた者たちは、御霊の実を結ぶようになります。聖霊がそのように働いてくださいます。ですから私たちも自分自身を実を結ぶことが出来るように整えていきましょう。

関真士牧師

2013年5月31日

6月2日2013年の週報に掲載

 この時期になると、日本に一時帰国される方、また日本から来られる方もあり、新しい出会いが多くあります。それにしても、教会とは、まさに「出会いの場」です。ある哲学者は「人生とは出会いで決まる」と言いましたが、その通りと思います。

 教会は、ありとあらゆる方々が集まる場です。今までの自分では、まったく接点がなかったであろう人達と出会います、年齢も職業も性格にしても様々です。 教会の原語は「エクレシア」というギリシャ語です。日本の最初のプロテスタント教会は、今も現存する「横浜海岸教会」ですが、明治の当時は教会ではなく「公会」と名乗っていました。教える会よりは、公会の方がいいかもしれませんね。

 もともとのエクレシアの意味は、「呼び集められた者たちの集まり」です。ですから、呼び集める方の名前が、その集まりに付けられます。教会とは、キリストが呼び集めるお方なので、キリスト教会と名乗ります。

 私たちは、誰一人として例外なく、キリストに「呼ばれて」ここに来たのです。ですから、教会での出会いは、すべてに意味と必然があります。この出会いを大切にしましょう。そして何よりも、まずイエス・キリストご自身との出会いを感謝しましょう。

関真士牧師

2013年5月24日

5月26日2013年の週報に掲載

 今「On This Rock この岩の上に」というシリーズでメッセージを語っています。先回からしばらく「聖霊」という言葉をキーワードに語っていく予定です。

 聖霊は、精霊ではありません。天使でも、何かのパワーでもありません。聖霊は「聖なる神の霊」です。よく礼拝の最初に読まれる聖句で「神は霊ですから、礼拝する者も霊と真によって礼拝しなければなりません」(ヨハネ4:24)とあります。聖霊は、人格(神格)を持った神の霊なのです。

 私たちが信じている真理は、神は三位一体の神であることです。父なる神、御子なるイエス、聖霊なる神、3つの神ではなく、現れにおいて違うが、唯一の神です。氷と水と蒸気のように、固体、液体、気体と、現れは違いますが、H2Oであることに変わりありません。

 私たちは、自分には「出来ない」、自分には「分からない」と言うことがありますが、出来ない者を出来るように、分からない者に悟りを与えてくれるのが、聖霊の働きです。もし私たちが、神の御心を行うことを願うなら、聖霊はそれが出来るように力を与えてくださいます。

 聖霊が働かれている、この「聖霊の現実」を、私たちはもっともっと体験していきたと、思わされます。

関真士牧師

2013年5月17日

5月19日2013年の週報に掲載

 今朝は喜びの洗礼式がありました。洗礼を受けられた皆さん、おめでとうございます。洗礼式とは、イエス・キリストを救い主として信じたことを、公に告白する儀式です。

 洗礼を受けるには、テストなどはありません。あなたが心からイエス様を救い主として信じているかを確認するだけです。救いは恵みです。人の努力や功績によるものではありません。

 もちろん聖書を学ぶことも大切です。しかし、それは救われるために学ぶのではなく、私を救ってくれた神をもっと知るために学ぶのです。
 確かに私たちは「恵みにより、信仰によって救われたのです。」(エペソ2:8) 老若男女に関わらず、どんな人でも信じるだけで救われるのです。そのためには、神がしてくださったことは何でしょうか? 御子イエス・キリストが十字架で命を捨ててくださったのです。その尊い犠牲の上にあって、初めて信じるだけで救われると言えるのです。

 私は1984年12月に洗礼を受けました。以来、神の真実によって今日まで歩むことが出来ました。どちらかというと、日記を書いても三日続かない性格ですが、信仰生活は、神の恵みで始まり、恵みで導かれ、恵みで完成するのです。だから今日までこれました。救いも、洗礼も神の恵みなのです。

関真士牧師

2013年5月10日

5月12日2013年の週報に掲載

 ハワイも五月晴れの気持ちの良い日が続きます。先日、マカプウ岬を歩いていたら、季節はずれのクジラが見えました。みんなと一緒に行動するのが苦手なクジラなのか、迷子になったのか、でも今までで一番近くに来て、その姿を見せてくれました。

 だいたい集団ができると、その中には必ず一人は周りと歩調を合わせることが出来ないタイプの人がいるものです。私も若い頃はそのようなタイプの子で、いわゆる「落ちこぼれ」と呼ばれる者でした。自分では落ちこぼれている自覚はないのですが、周りの価値観からすると、そうだったのでしょう。

 イエス様は、100匹の羊がいて、その内の一匹が迷子になると「見つかるまで」探してくださると言うのです。そして、迷子の羊を見つけると大喜びするのです。
 その一匹は、よほど周りから見たら問題です。その一匹のおかげで99匹が迷惑を受けることになります。一匹くらいいいじゃないか先に進もう、と言われても仕方ないでしょう。

 しかし、イエス様は、その一匹を大切にされるのです。私も、まさに迷える羊でした。しかし、イエス様に見いだされたのです。

 今日は、母の日です。決してあきらめない愛、探し続ける愛、受け入れ続ける愛、母の愛とは、神の愛に最も近いものです。

関真士牧師

5月5日2013年の週報に掲載

 教会とは何でしょう?学校のような、企業のような、病院のような、福祉施設のような、カルチャセンターのような、相談所のような、家族のような、などなど、**のようなと言ったらキリがありませんね。答え、それは「教会は教会」です。

 教会とは、教会以外の何ものでもありません。欧米では、歴史の中で、教会が村の中心にあって街が形成されてきました。ですから、教会は社会の中心として、様々な機能を果たすようになりました。それはそれで素晴らしいことですが、もし教会が本来の姿を失ってしまったら、元も子もありません。

 19日の聖霊降臨記念日(ペンテコステ)は、教会の誕生日と呼ばれます。今一度、教会と何であって、何でないのかを考えてみましょう。

 シェパード委員会の発足を目指して、準備作業が進められています。その目的は、単に組織の効率化のためだけではなく、教会を「キリストの体としての教会」として整えることにあります。
 当然のことながら、その根拠は、すべて聖書にあります。聖書的な教会かどうか、それが全てです。その上に立って、ホノルル教会の特色、個性があります。それらを引き出し、活かすことが真の教会の活性化となります。

関真士牧師

2013年4月26日

4月28日2013年の週報に掲載

 今日の礼拝のメッセージは「傷のいやし」です。特に心の傷について語るのですが、このテーマは、常に取り組み続けているものです。なぜなら、心の傷で、苦しめられている方、苦しめている方が、圧倒的に多いからです。

   心の傷とは何でしょうか? その原因は様々です。いやゆる災害や衝撃的な体験を通してもたらされるPTSD(心的外傷ストレス)や、人間関係の中で、その言葉や態度によってもたらされるものがあります。実際に加害者、被害者が存在する場合もあれば、自然災害のように一方的なものもあります。心の傷と言っても、その原因や状態は様々です。

 しかし、一つ定義することが出来るとすれば「心の傷とは、過去における個人的な体験であり、それによって、神が自分に求めている生き方を送ることを出来なくさせるものである。」と言えます。
 神が人に求めている生き方、それは神と自分と隣人を愛することです。これを出来なくさせる過去の体験が「心の傷」です。心の傷のゆえに、自分の価値が低くなる、人に攻撃的になる、あるいは依存する、神に信頼することが出来ないなどの状況がもたらされます。イエス・キリストの救いは、この心の傷にいやしをもたらすのです。

関真士牧師

2013年4月22日

4月21日2013年の週報に掲載

「わたしは、この岩の上に、わたしの教会を建てます。」マタイ16:18 毎週の礼拝メッセージは、この御言葉に導かれて「On This Rock」をテーマに連続して語っています。

 私たちが立つべき「岩」として、天地創造から、終末、再臨まで、聖書のエッセンスを語っていきます。
 これまで「神は天地の創造主である」から始まって、人間は神のかたち=人格的存在として造られたと続き、十字架について語り、復活について語ってきました。今後は、4回に亘って十字架と復活のもたらす「救い」の内容について語り、19日の聖霊降臨記念日を迎えます。そこで聖霊と教会、宣教、聖化へとテーマが進んでいきます。

 その時々に、別のテーマに飛ぶこともあると思いますが、基本的にはこの流れで語っていきます。
 私の願いとしては、このシリーズをまとめて本に出来たらと思っています。個人の学びにも、伝道用にも、ミニチャーチのテキストにも使用できるようなものをイメージしています。神から良き知恵が与えられ、実現できますように、お祈りください。

 また、毎回の礼拝で語られたメッセージの御言葉をテーマに、学び会があります。木10:30AM 金11AM どちらも同じ内容です。是非、どなたでもご参加ください。

関 牧師

2013年4月11日

4月14日2013年の週報に掲載

【吉田文人先生からのお手紙です。】

主の御名を賛美致します。

 先日は、母教会であるホノルル教会で礼拝を捧げられた恵みを心から感謝しております。たくさんの教会の兄姉と再会できた事はなんという喜びでしょうか。

 ホノルル教会に帰り、もう一つ神さまからの贈り物がありました。それはアバ父よ!! という私の信仰の原点にもどることができたことです。 私たちは神の僕であり、また弟子でもありますが、まず何よりも父なる神の子供、とされているのだと思いださせていただきました。心から感謝しております。

 昨日、熊本教会での初めての礼拝を捧げる事ができました。
牧師としての歩みが始まりました。どうぞ熊本キリスト教会のためにもお祈りください。神と教会と人々の僕として謙遜に歩めますようにお祈り下さい。

 来週から、私が講壇に立たせて頂き、御言を取り次がさせて頂きます。マタイの福音書のはじめから、連続講解説教をと祈っております。
どうぞお祈り下されば幸いです。宜しくお願い致します。

2013年4月5日

4月7日2013年の週報に掲載

 谷戸せん姉が95歳で天寿を全うし、主の御許に召されました。復活祭の朝、礼拝の真っ最中での召天です。なんというタイミングでしょうか。せんさんは、90歳で洗礼を受けました。堀内ふみさんといつも一緒に座って礼拝している姿は、本当に微笑ましものでした。

 その後、マルヒヤに入られ、主日の礼拝には参加できなきなりました。訪問に行きますと、駐車場をちょうど見おろせる部屋でしたので、いつも窓から手を振って 見送ってくれました。ずーと見えなくなるまで、手を振り続けいてくれた姿が心に残っています。
 まさに天命を全うしたと言える、平安なその時でした。ご家族の慰めを心からお祈りいたします。

 最近、誰の言葉か定かではないのですが、私の耳に入った言葉で「教会は、主日の礼拝に来れる人だけのための教会ですか? 礼拝に来れない人にとっては教会ではないのですか?」という問いかけでした。
 様々な理由で教会に来られない人がいます。教会とは、その人にとっても教会であるはずです。この事をどのように実際に現していくことが出来るのか、考えさせれています。

関 牧師

2013年3月28日

3月31日2013年の週報に掲載

 復活祭の花と言えばユリです。勢いよく開いている真っ白な花が、いかにも復活の命を象徴していますね。このユリの花ですが、意外にも日本原産の鉄砲ユリだそうです。江戸時代の末期、あのシーボルトによって持ち帰られたものが、復活祭の花として定着していったのです。

 日本のこの時期の花と言えば、何と言っても桜ですね。「桜の樹の下には屍体が埋まっている」と聞いたことがありますか? これは、昭和3年に発表された梶井基次郎の詩集の一節がもとになっているそうです。

 あまり気持ちの良い感じはしませんが、この詩を勝手に解釈すると、暗闇があるから光がある。死があるから命がある。この綺麗な花もまた、黒い土から生じたものなのだという、人間の罪深さと、人間の崇高さを、この桜の樹を通してコントラストに映し出しているように思いました。

 主イエスの十字架の死とは、全人類の罪をその身に負って、神の裁きを受けられたものです。この十字架の死の上に、復活の栄光があります。罪と死の中に生きていた人間に、復活の命と希望の光を灯したのです。この復活祭の時、主の十字架の死の上に立つ。復活の力、希望、栄光のゆえに、主を賛美いたしましょう。 

関 牧師

2013年3月26日

吉田文人牧師(元ホノルル教会員)

ホノルル教会で救われ、牧師として献身なされた吉田文人兄。 この度、東京聖書学院での学びが終わり牧師になられました。主に感謝します。

2013年3月22日

3月24日2013年の週報に掲載

ホノルル教会の兄姉へ

 主の御名を賛美します。
 長い冬が終わり、日本にも春が訪れました。
 梅の花が咲き始め、タンポポも顔を出しました。桜も開花を目前に控えています。神の創造されたものは美しいです。

 ホノルル教会から、東京聖書学院に送り出して頂いてから、私は四度目の春を迎えました。先日の3月15日に、私は聖書学院を卒業することが出来ました。四年間の神学校生活が守られた事を心から感謝しています。関先生が来て下さり、中野先生、祐真兄御家族も来て下さり、本当に感謝な卒業式でした。
 卒業してから、多くの兄姉に、よく頑張ったね、と労いの言葉を頂きました。しかし私の正直な実感としては、自分は何もやっていない、という感覚なのです。知識も経験もなく、力もない私です。ただ神さまの憐れみにより、四年間守られたと実感しています。そして多くの人々に祈り支えて頂いたからこそ、ここまで来られたと感じております。特にホノルル教会の兄姉の存在は大きな支えでした。皆さんの祈りなくして今の自分はありません。本当に祈り支えて下さりありがとうございました。

 これから私は新しい宣教地に向かいます。天の御国に入るその日まで、ただただ謙遜な神の僕でありたいです。神に仕え、人に仕え、教会に仕えていく牧師であらせて頂きたいです。永遠の価値をもつ、一人の魂を追い求めて、この与えられた人生の行程を走らせて頂きたいと願っております。

主に感謝しつつ 吉田 文人

2013年3月14日

3月17日2013年の週報に掲載

今年のグッドフライデーは3月29日 7PMから集会があります。日英合同になります。復活祭は3月31日、礼拝後にはポトラックのパーティです。

24日(日)~30日(土)は、受難週です。黙想のためのしおりを配布しますので、どうぞご利用ください。今年のテーマは「あなたは、そこにいたのか?」です。聖霊に導かれて、聖書の中に入り込むようにして黙想しましょう。そして出来るなら、体験した恵みを誰かに分かち合ってみましょう。恵みの体験を言葉に表すことで、聴いた方も恵まれるし、話した方も恵みがなお深く自分のものになります。
そして、復活祭には最高の喜びを主に捧げましょう。死を打ち破り、今も生きておられる主に最高の賛美を捧げましょう。

★英語部のラッセル比嘉牧師が、牧師を引退されました。3月21日付けをもって、ホノルル教会の牧師から退きます。引退に至るまでの経過、後任牧師について、今後の歩みについては、後日英語部から発表されると思われます。日語部としても、この事態を深く受け留め、共に祈るものでありたいと思います。 もし、この件に関して、ご質問などございましたら、関牧師までお尋ねください。

関牧師

2013年3月8日

3月10日2013年の週報に掲載

我が家のカナン農園に、ジャガイモを植えたら良く育ちました。葉が枯れて来たので収穫したのですが早過ぎました。後で聞いた話では、葉が完全に枯れ果てた時が収穫の時だということです。せっかくここまで育てたのに最後のところで失敗しました。残念です。

収穫の時は、早すぎても、遅すぎてもだめですね。最も良いタイミングがあります。ナスなどは見た目で分かるのですが、根野菜は実が土の中にあるので、なかなか収穫の時が難しいです。それでも大根などは、なんとなく「もう抜いていいよ」と教えてくれるのですが、ジャガイモの声は聞き逃してしまいました。
伝道も同じでしょう。相手の声に耳を傾ける。そこから収穫の時が分かってくるのだと思います。

清家真弓さんの洗礼おめでとうございます!ゴスペル虹組を通して教会に導かれ、主イエスを救い主として信じました。ハレルヤ!

今日は東日本大震災から2年目を迎えます。まだまだ復興は途上です。特に人の心の復興、人生の復興には時間がかかります。これからも祖国日本のために祈り続けていきましょう。

この火曜日から10日間、日本に行きます。主日は富山一麦教会で礼拝と午後のセミナーで奉仕する予定です。お祈りをお願いします。

関牧師

2013年2月28日

3月3日2013年の週報に掲載

昨日はファンドレイズのためのガレージセールがありました。次週は東日本被災地支援献金の箱が設けられます。その次には、吉田文人兄のためのラブオファリングの箱が設けられます。

教会では、礼拝ごとの献金のほかに、様々な目的のために献金の要請があります。献金の原則は「一人一人、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めた通りにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(Ⅱコリント9:7)とある通りです。

度々の献金の要請があると、そこにプレッシャーを感じる方もおられるかもしれません。しかし、献金は、それぞれが献金の趣旨をよく理解して、心で決めたとおりにすることです。もし強制されている感じや、喜びがないならば、献金は控えてください。

教会では、誰がいくら献金したかは、会計係の他は誰も知りませんし、会計係は守秘義務を持っています。ですから、周囲の体裁も考える必要はありません。
この献金に関しては、本音も建前もありません。それぞれの献金の要請に関して、自分がどう応答するべきか、まず祈って、考えて、自分で決めた通りにしてください。

その上で、「少しだけ蒔く者は少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は豊かに刈り取ります。」(Ⅱコリント9:6)の約束の通りに、喜んで捧げる者には、それだけの刈り取りがあることも事実です。

関牧師

2013年2月22日

2月24日2013年の週報に掲載

 聖歌400番「君もそこにいたのか」(原題Were You there)は、黒人霊歌の一つです。

     君もそこにいたのか  主が十字架に付くとき
     君も聞いていたのか  釘を打ち込む音を
     君も眺めてたのか  血潮が流れるのを
     君も気が付いたのか  突然日が陰るのを
     君も墓に行ったのか  主をば葬るために
     ああ…何だか心が震える  震える 震える

 この讃美歌を通して主の十字架を想い、黙想してみましょう。自分はどこにいるのか? その時、心が震えるだろうか この「心震える」ということを、このレントの期間に経験したみたい。これは怖がっているのか? 悲しんでいるのか? 喜んでいるのか?…

 今年のグッドフライデーは3月29日7PM~ 日英合同です。 復活祭は31日(日)になります。

 主の十字架の出来事が、自分の出来事となりますように。

関牧師

2013年2月21日

2月17日2013年の週報に掲載

 先週の13日(水)は、「灰の水曜日」でした。今年も「受難節」に入りました。今年は、3月29日(金)がグッドフライデー、31日(日)が復活祭となります。私たちは、毎年この受難節の時を大切にしています。今年は、40日間の黙想のしおりが出来ませんでしたが、最後の受難週のためには用意したいと思います。

 キリスト教会では伝統的に、春分の日の次の満月の次の日曜日を復活祭としています。ですから毎年その日は違ってきます。さらに、その日から逆算して主日を除く40日前から受難節(LENT)が始まります。その最初の日が「灰の水曜日」となります。

 ZippysにLENTメニューがあるのを見て、さすがアメリカと思いました。LENTとは、もともとゲルマン系の言葉で「断食」の意味です。ある方々は、この期間、肉断ちをします。そこで菜食のLENTメニューなどが登場します。またある方は、実際の断食や、一つの好きな物を断ったりして、思いをイエス・キリストの向けながら、このレントの期間を過ごします。

 ブラジルなどでは「カーニバル」(謝肉祭)がありますが、これはレントに入る前に、思いっきり肉を食べて楽しんでおこうという事らしいです。私たちの教会では、特に決められた過ごし方はありませんが、大切なのは、イエスの十字架の理解と体験をさらに深め、豊かにする機会として、この時期を過ごすことです。

関牧師

2013年2月8日

2月10日2013年の週報に掲載

イエス様は「わたしは、この岩の上に、わたしの教会を建てる。」と言われました。永井ゆずりさんが、この御言葉に導かれて、主への賛美を造ってくれました。

      「あなたの教会とし」
      喜び 平和 希望 愛 赦し
      この世の光となり 天の御国を生きる
      あなたの愛それは  私たちひとつに
      あなたの教会とし  用いてください主よ
      御霊に導かれ 愛に満たされ生きる
      知恵と力を受け 御手にゆだね
      ひとつの家族として 用いてください主よ
      ひとつの心にして  用いてください主よ

 私たちは、イエス様が建てる教会として、成長していきたいと心から願います。イエス様の建てたい教会って、どんな教会だろう? どうしたら、そのような教会になれるのだろう? 求めよう、祈ろう、そして信じよう。今出来ること、するべきこと、導かれていることに忠実に、精一杯に行おう。イエス様ご自身が、「わたしが建てる」と言われた言葉に信頼しよう。

関牧師

2013年1月31日

2月3日2013年の週報に掲載

年に一度持たれる牧師リトリート。今年もLAの郊外で持たれました。毎年ある方のお姿を見るのが楽しみです。その方はアーネスト・キルボルン先生です。今年93歳になりますが、フロリダから飛行機を乗り継いで来られます。

キルボルン先生は、ホノルル教会の初代英語部牧師として1949年に赴任されました。私たちにとっても縁のある方です。キルボルン先生が、私たち後輩に向かって熱いメッセージを語ってくれます。聖霊に満たされなさい、祈りなさいと語られます。そして日本をとても愛してくださって、今年は日本宣教にも行く予定です。キルボルン先生の祖父は、同名のアーネスト・キルボルン師です。祖父は1902年に宣教師として日本に来られ、中田重治、C・カウマンと共に日本ホーリネス教団を創立したのです。それは明治の時代です。その時代に日本に宣教に来るというのは、まさに命がけのことです。その日本に対する愛は、お孫さんである(といっても93歳になられるのですが)キルボルン師にそのまま受け継がれ、ほとばしる情熱はいまだ衰えることはありません。

この先生の情熱も、ホノルル教会は受け継いでいるのだと思い、感謝を捧げました。

関牧師

2013年1月25日

1月27日2013年の週報に掲載

皆様に、一つお知らせとお祈りのお願いがあります。

英語部のラッセ比嘉牧師が、サバティカル休暇を取得されたのに伴い、私は、2月3日、10日(日)の両聖日において、英語部の礼拝でメッセージをいたします。そこで、日語部の第一礼拝は、この2回だけ英語部の第一礼拝に合流することになりました。礼拝の始まりは朝の7時45分になります。場所は礼拝堂です。私も不慣れな英語でのメッセージになりますので、どうぞ語るべきことを充分に語ることが出来るようにお祈りください。

牧会部の初めてのミーティングが本日12:30AMから持たれます。共に教会の霊的成長のためにご奉仕くださる方、是非お集まりください。最初のミーティングですから、見学して様子を見てくださっても構いません。

明日28日(月)~31日(木)まで、牧師リトリートに参加いたします。今回の会場は、初めての場所でLA郊外にあるオンタリオ空港近くのホテルになります。そういうわけで今週の「On This Rock」の学び会はお休みとなります。
良きリトリートの時となりますように、お祈りください。

関牧師

2013年1月18日

1月20日2013年の週報に掲載

 教会には老若男女、赤ちゃんからお年寄りまで集う所です。現在礼拝には生後数ヶ月の新生児から、99歳の方までが集っています。

 すべての人が快適な環境で礼拝できたら一番いいのですが、特に小さな子供を連れて礼拝に参加している方々への配慮を考えています。5歳になると礼拝時間中に持たれているサンデースクールに参加できますが、それ以前の子供たちは、親と一緒に礼拝に参加します。それは、子供を愛するイエス様の御心を思うと、とても麗しい光景です。

 しかし礼拝中に、その年齢の子供を静かに、じっとさせるのは大変なことです。また現在の建物の状況では別の場所に母子室を持つことが出来ません。そこで、近日中に、ラナイの一部をフェンスで囲って、子供がその中で安全に過ごすことが出来るスペースを設けることになりました。そこで、礼拝前後にフェンスの設置と撤収を手伝ってくださる方、ラナイの中でベビーシッターをしてくださる方を募集しています。

 また、ラナイ側の椅子は、子供の親が、横に子供を見ることが出来るようにリザーブされます。ラナイ側の席は、ちょっとざわざわします。気になる方は、山側の席に座ってくださると良いと思います。皆で協力し合って、イエス様に喜ばれる礼拝の場としましょう。

関牧師

2013年1月13日

バス停からホノルル教会への道のり

ハワイ大学バス停(Metcalf Street)からホノルル教会まで歩いてみました。 ぜひ教会へいらっしゃい。 虹の谷、ホノルル教会はどちら様でも歓迎いたします。

2013年1月10日

1月13日2013年の週報に掲載

礼拝のメッセージに対して良く言われることは、「この先生はなぜ私の事を、こんなに知っているのか?」とか、「この先生は、私に対して語っている。」といった言葉です。

それは、老若男女、信仰のベテラン者から、初めてキリスト教会の礼拝に参加された方までが、同じ事を言われます。しかも同じ礼拝メッセージに対しての言葉です。

そもそもが、メッセンジャーが、ある特定の人に向けて、いわゆる「あてつけ」のメッセージをすることは有り得ないし、もしそれが行われたら、メッセンジャーとしの資格を問われるでしょう。

同じメッセージの中で、「私に対して語っている」と受け留められる方が、何人もおられる。しかも、その人たちは、みんな違う状況に置かれているのです。このような事はメッセンジャーが「メッセージを作って」できることはではありません。神の業としか言いようがありません。一番驚いているのは、メッセンジャー自身です。主を畏れます。

もし「私に対して語っている」と感じたら、それは本当に、主があなたに語っているのです。

関牧師

2013年1月3日

1月6日2013年の週報に掲載

 さあ2013年がスターとしました。暦があるのはいいですね。このように区切りをつけることが出来ます。皆様は、新しい年に、主に何を期待しますか?

 ある釣り人が魚を釣ったのですが、釣り上げるたびに、物差しで計るんだそうです。そして魚が物差しよりも大きいと、池に放ってしまうのです。逆なら分かるのですが…。近くでそれを見ていた人が「なぜ、せっかく大きいのを釣ったのに、なぜ捨ててしまうのですか?」と尋ねました。釣り人は答えました。「この物差しは、家にあるフライパンの大きさなんだ」

 私たちの、これまでの経験、知識は、あるいは常識の物差しで、神の恵みを計るとすると、せっかくの恵みを無駄にしてしまうことがあるかもしれまね。せっかく主に期待するのなら、信仰がなくても納得できてしまうようなものではなく、信仰がなければ受け入れられないものを期待しましょう。

 私たちが自分のフライパンで、神の御心を計るのではなく、神の物差しに、私たちが合わせることが出来ますように。さあ、思い切って、主に期待し、主に大胆に求めましょう。主はどんなに素晴らしいことを私たちに与えてくださることか。

関牧師